41 ~閑話~ 昴の事情 (2)
腕の中の心地よい重みを感じながら目的の部屋の前まで来ると、昴は自由の利きにくい手を器用に動かして扉を開けた。そして小奇麗に片付けられた部屋の様子を見て、嘆息する。
「なんや、布団敷いてへんやんか……」
さすがに雪奈を抱き上げたままでは布団を敷くことはできない。かと言ってこのまま気持ちよさそうに眠る雪奈を床に寝かせるのはさすがに憚られた。
昴は入ったばかりの部屋を出て隣の自分の部屋へと入った。戻る時分には布団を敷く余力が残っていないかもしれないと思い、パジャマ・パーティーの前に先に敷いておいたのだ。
足先で掛け布団を器用に捲ると、躊躇しつつも雪奈をそっと布団の上に横たえる。パーカーを脱がし、布団を首下までかけて、雪奈の部屋へ布団を敷きに戻るために立ち上がろうとした。しかし何故か下に引っ張られてしまい、何事かと視線を下に向ける。雪奈が昴のパジャマの裾を掴んだまま丸くなっていた。
昴は小さく息を漏らし、握り締める雪奈の手をそっと上から握った。そしてなんとか外そうと試みる。
「ん……」
雪奈の口から漏れた声に心臓が大きく鳴る。できるだけその無防備な寝顔を視界に入れないように意識しつつ、昴は雪奈にそっと囁いた。
「雪奈、手、放してくれへん?」
「…さ…ん……」
雪奈が何か言ったのが聞こえてきて、耳を澄ます。
「すば…る…さん……」
その声をはっきりと聞き取った昴は、顔を真っ赤にしてその場にしゃがみこみ頭を抱えた。
「あかんわ、雪奈。そりゃないで……」
昴にとっての雪奈の第一印象は、可愛らしいけど大人しい子、だった。駅で遠くから雪奈を見て、他に同世代の乗客がいなかったからすぐに目的の子だとわかったものの、あまりの消極的そうな雰囲気に何故ペンションの住み込みアルバイトに応募してきたのかと首を傾げたくなった。
大きなトランクを辛うじて持っている両腕と危なっかしい足取り、そして自分を見て一瞬怯えたような瞳。まるで小鹿のように見えて、保護欲を掻き立てられた。
ペンションの仕事は何気に重労働だ。朝は早いし、それなりに体力も要る。客に対する気遣いも必要だ。
初めは心配していたものの、雪奈は物覚えが早く気の利く女性だった。包丁を持たせて危なっかしいということもなく、掃除を任せればちゃんと埃を払い棚の上を拭いてから掃除機をかける。置物がずれていたら直すし、彼女がベッドメイクを行った部屋はシーツに皺一つない。
いつの間にか、雪奈を目で追っている自分がいた。
雪山のよさを知って欲しくて、なんとかボードに誘い出したときも驚かされっぱなしだった。まず、自分の力でいきなり雪の上で立った。あっという間にコノハの基礎をマスターしたことに驚き、楽しそうに雪の上を滑る姿に嬉しさがこみ上げた。
親しくし始めてようやく、雪奈はどうも男性自体に慣れていないようだとわかった。平たく言うと、今までに昴が会ったどんな女性よりも初心だった。試しに必要以上に近づいてみると、まるで林檎のように頬を染め、大きな瞳にうっすらと涙すら浮かべておどおどと昴を見つめる。
そういえば届いた履歴書を大介に見せてもらったときに、女子大に在学中と書かれていた。それまでがどうだったのかは想像しかできないが、きっと雪奈の場合、クラスの男の子とも話すこともなく地味に過ごしてきたのだろう。
慣れない環境で、慣れない仕事の中、文句一つ言わずに雪奈は頑張っている。
言葉は少ないがくるくる変わる表情が堪らなくて、もっと別の表情が見たいと渇望すら覚えた。
――どうやら、雪奈に惹かれているらしい。
なんとなくそう思い始めてはいたものの、まだ出会って間もないのにとその気持ちを否定し続けていたのだが……決定打となったのは、昨夜の出来事だった。
「雪奈ちゃん、展望室、三階なんだ。先に行こうぜ」
そう言いながら雪奈の手を取ってあっという間に目の前からいなくなった晴人の姿を見たとき、その日の朝に着いた宿泊客の河合が雪奈と親しげに話しているのを見たときよりも、もっとどす黒い何かが腹の中でのた打ち回り始めたのを感じた。
そして直後、その気持ちにさらに墨でも注ぐかのように、そっと自分の隣にやってきた河合が昴の肩に手を置いて小声で言ったのだ。
「またもやライバル出現、だね」
「――なんですのん、突然」
「ま、僕はライバルの多い方が、燃えるけどね」
河合は意味ありげに微笑み、晴人と雪奈を追って部屋を出ようとしている森田さんたちの方へと向かった。
雷が落ちたような衝撃に、呆然とする昴を残して。
今から考えると、そのときの河合の言動は、昴の気持ちをわかった上でからかっていたということになるのだが……。
とにかく、二人きりの部屋で、布団の中にいる自分が惹かれている女性に、自分の名を呼ばれながら服を引っ張られるというこのシチュエーションは、今の昴にとってイロイロとまずい状況以外のなにものでもなかった。
抱えていた頭から手を離し、もう一度雪奈の手からパジャマを抜こうと試みる。そのとき、気持ちよさそうな雪奈の寝顔が目に入った。手を止め、指で頬をそっと撫でると薄っすらと微笑んだ気がした。
ふっくらとした唇を少し開いた小さな口元がやけに扇情的に目に映る。
その誘惑に勝てず、昴はいつの間にか瞼を閉じていた。
――そうよ。もともとわかってたわ。
あなたは初めから、私には興味なかったのよ。
あなたにとってはスノーボードが一番なの――
頭の中で響いた声に、昴はハッとして目を開けた。
引き寄せられるように自分の唇を雪奈のそれに近づけようとしていた自分に気付き、慌てて身体を離して壁際に寄る。先ほどまであんなに頑なに自分のパジャマを掴んでいた雪奈の手が、簡単に外れて布団の上に落ちた。
「……あかん、めっちゃ危なかった……」
心臓がものすごく大きな音をたてながら暴れ回っている。その音に雪奈が起きるんじゃないかと思ってしまうくらいだ。
昴は自分の胸を押さえつつ立ち上がって部屋を去ると、雪奈の部屋に入り布団を敷き始めた。
黙々と布団を敷きながら先ほどの声を反芻する。
それは、もう一年近く前に別れた前の彼女の言葉だった。