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死んだユートピア

作者: Qtaro
掲載日:2026/05/19

第1話「例外処理員」


枕元の端末が、目覚ましより先にしゃべった。


「本日の情緒状態:軽度の停滞。推奨音楽:回復傾向のあるピアノ曲。推奨朝食:高タンパク粥。推奨会話量:少なめ」


ウィータは布団の中で目を開けた。


まだ何も考えていない。夢の内容も覚えていない。今日が何曜日かも分かっていない。それなのに、端末だけはもう、彼の気分を知っているらしかった。


「……うるさい」


そう言うと、端末は一秒だけ沈黙した。


「音声ストレス反応を検知。会話量をさらに抑制します」


「そういうことじゃない」


返事はなかった。代わりに、部屋のスピーカーから薄いピアノの音が流れ始めた。悲しすぎず、明るすぎず、何も残らないような音だった。


ウィータは起き上がり、壁際のカプセルから朝食を取り出した。白い粥。昨日も似たようなものを食べた気がする。体には良いのだろう。味も悪くない。ただ、食べたいと思った記憶がなかった。


この都市では、ほとんどの生活が「ライフ・インフラ」に接続されていた。食事、睡眠、移動、医療、教育、恋愛、娯楽、弔い。人が迷う前に、端末が選択肢を絞る。人が傷つく前に、感情をなだめる。人が失敗する前に、失敗しにくい道を提示する。


誰も、それを支配とは呼ばなかった。


人々はそれを、安心と呼んだ。


端末に今日の業務が表示される。


「生活インフラ例外処理補助。旧市街七番棟。遺品回収。感情的価値判定不能品あり」


ウィータは、最後の一文を見て少しだけ顔をしかめた。


感情的価値判定不能品。


その言い方が、昔から嫌いだった。


彼の仕事は、AIがうまく扱えなかったものを片づけることだった。自動配送ロボットが入れない古い建物。音声認証を何度も失敗する老人。葬儀支援サービスが分類できなかった遺品。便利な世界の端っこに残った、面倒で、非効率で、誰かの手が必要なもの。


そういうものが、いつもウィータのところに回ってくる。


旧市街七番棟は、駅から少し離れた場所にあった。都市の中心部には、上層区域へ向かう透明な移動チューブが何本も走っている。そこでは人々がほとんど歩かない。移動ルートも、買い物も、会う相手も、行くべき場所も、ライフ・インフラが最も負荷の少ない形で組み上げてくれる。


けれど旧市街では、まだ階段を上らなければならなかった。


耳元の端末が言った。


「心拍が上昇しています。呼吸を整えてください」


「階段だからだよ」


「旧式建物の階段負荷を記録しました」


ウィータはため息をついた。


七階まで上がると、膝が少し笑っていた。扉の前には、小さな黒い箱が置かれていた。葬儀支援AIの端末だった。


「対象者は三日前に死亡。親族なし。行政委託による遺品整理です」


端末の声は、なめらかだった。優しく聞こえるように調整されているのが分かった。


部屋に入ると、古い畳の匂いがした。


ほこり。紙の本。欠けた湯のみ。窓際に干されたままのシャツ。壁には、若い女の人と老人が並んで笑っている写真が貼られていた。


ウィータは写真を見た。


端末をかざす。


「写真。市場価値なし。データ化済み。現物廃棄推奨」


「……はいはい」


ウィータは写真を透明な袋に入れようとして、少し手を止めた。


笑っている女の人の指が、老人の袖をつまんでいた。偶然写っただけの、小さな仕草だった。データ化された画像では、たぶん圧縮されて消える部分だろう。


部屋の隅に、木でできた楽器が立てかけられていた。


ギターだった。


ウィータはそれを手に取った。軽いと思った。いや、軽いのに、変に重かった。弦は一本切れていて、胴には細かい傷がいくつもある。誰かが長く触っていた跡があった。


端末をかざす。


「楽器。旧式。市場価値なし。再利用不可。廃棄推奨」


いつもの言葉だった。


ウィータは、なぜかすぐに袋へ入れられなかった。


親指で弦をはじいた。


びいん、とひどく濁った音が鳴った。


音程はずれていた。響きも悪い。部屋の空気に引っかかって、すぐに消えた。


けれど、その一瞬だけ、ピアノの音が止まった気がした。


いや、実際には止まっていない。耳元ではまだ、感情を安定させるための音楽が流れている。けれど、ウィータの中のどこかが、その濁った音の方を聞いていた。


「廃棄推奨です」


端末がもう一度言った。


ウィータはギターを見た。


傷だらけの胴に、細い文字が刻まれていた。


“ミナへ”


誰だよ、と思った。


思ったのに、なぜか胸の奥が少し詰まった。


「感情反応を検知。必要であれば鎮静音楽を再生します」


「いらない」


ウィータは、初めてはっきりそう言った。


それからギターを透明な廃棄袋ではなく、自分の作業バッグに入れた。規則違反ではあった。たぶん軽い注意で済む。たぶん。


階段を降りる間、バッグの中でギターが何度か壁にぶつかり、鈍い音を立てた。


そのたびにウィータは、少しだけ息がしやすくなる気がした。



第2話「感情的価値判定不能」


ウィータは、そのギターを三日間、部屋の隅に置いた。


端末は毎朝、それを検知した。


「未登録物品があります。廃棄期限を超過しています」


「知ってる」


「生活空間の最適化に影響します」


「知ってる」


「所有理由を入力してください」


そこでウィータは、いつも黙った。


所有理由。


そんなものがあるなら、とっくに入力している。


都市では、ほとんどすべての物に理由が必要だった。健康に良いから持つ。仕事に使うから持つ。気分を整えるから持つ。資産価値があるから持つ。思い出はクラウドに保存され、写真は自動で分類され、不要なものは部屋を圧迫する前に回収される。


物は軽くなった。


人の部屋も、人生も。


ギターは、重かった。


四日目の夜、ウィータは作業記録の閲覧権限を使って、あの老人のデータにアクセスした。規則違反ではない。例外処理員には、遺品判定の補助として最低限の記録閲覧が許されている。


老人の名前は、葉山透といった。


元・音響技師。妻、ミナ。三十二年前に死亡。


ウィータは思わずギターを見た。


“ミナへ”


記録には、葬儀支援AIによる要約が添付されていた。


「故人は音響関連業務に従事。配偶者との関係は良好。配偶者死亡後、社会参加頻度が低下。感情負荷の高い記憶群については遺族不在のため一般保存不要。生活史は標準形式で保存済み」


標準形式。


ウィータは、その言葉に少し苛立った。


画面を下へ送る。古い音声ファイルが一つだけ残っていた。形式が古すぎて、自動要約に失敗したらしい。


「再生は推奨されません。感情負荷が高い可能性があります」


ウィータは再生した。


雑音がしばらく続いたあと、男の声が聞こえた。


「ミナ、これ聞こえてる? あー、たぶん録れてるな。誕生日おめでとう。歌は下手だから、弾くだけにする」


それから、ギターの音が鳴った。


下手だった。


音は外れている。テンポも揺れている。弦を押さえる指が迷っているのが分かる。


けれど、その音を聞いた瞬間、ウィータは部屋の空気が変わった気がした。


録音の向こうで、女の人が笑った。


「下手ね」


男が笑い返す。


「だから弾くだけにするって言っただろ」


「でも、もう一回」


「もう一回?」


「うん。下手だから、もう一回」


そこで録音は途切れていた。


ウィータは、しばらく動けなかった。


これが標準形式で保存された生活史から省かれたものなのか、と思った。


老人の人生は、きっと要約できる。職歴、家族構成、健康状態、社会参加度、消費傾向、感情負荷の推移。AIはそれをきれいにまとめることができる。


けれど、下手だからもう一回、と笑った声は、どこにも収まらない。


端末が静かに言った。


「心拍上昇。悲嘆反応に類似した波形を検知」


「俺のじゃない」


「対象不明の感情反応です。鎮静しますか」


ウィータは首を振った。


自分の感情なのか、老人のものなのか、ミナという人のものなのか、分からなかった。


でも分からないままでよかった。


その夜、ウィータは初めてギターを抱えた。


弾き方は知らない。端末に聞けば、最適な練習プログラムが出ることは分かっていた。コードも、姿勢も、効率的な上達方法も、全部教えてくれるだろう。


でも、ウィータは端末を伏せた。


親指で、弦をはじく。


びいん、と濁った音がした。


相変わらず、何の役にも立たない音だった。


けれどウィータは、その音の中に、誰かが誰かに向けていた時間を聞いた気がした。


次の日、端末はまた言った。


「未登録物品があります。所有理由を入力してください」


ウィータは少し考えて、こう入力した。


『まだ分からない』


端末は受け付けなかった。


「理由として不適切です」


ウィータは、少しだけ笑った。



第3話「不具合の歌」


ウィータは、仕事帰りに旧市街の高架下へ寄るようになった。


そこはライフ・インフラの推奨ルートから外れた場所だった。移動効率が悪く、照明も弱く、通信も少し不安定で、端末は毎回別の道を提案してくる。


「この経路は安全性が低下しています」


「知ってる」


「帰宅推奨時刻を超過します」


「知ってる」


「本日の疲労度から判断し、非推奨です」


「うるさいな」


そう言って端末の音量を下げる。


高架下には、古いベンチが一つだけあった。座ると、背中に冷たいコンクリートの湿気がくる。上を通る自動輸送車の低い振動が、体の中まで響いてくる。


ウィータはそこでギターを鳴らした。


練習とは言えなかった。


コードも知らない。曲も知らない。ただ、老人の録音で聞いたような指の動きを、なんとなく真似するだけだった。音は外れる。弦はびびる。指はすぐ痛くなる。


それでも、端末のピアノよりはましだった。


ある夜、通りかかった男が足を止めた。


スーツの袖に、上層区域の企業ロゴが光っていた。耳には透明な端末。たぶん帰宅途中だったのだろう。男はウィータを見て、不快そうに眉をひそめた。


「それ、認可音源ですか」


ウィータは手を止めた。


「違うと思います」


「公共空間で未調整音を出すのは、周囲の情緒安定に影響します」


「すみません」


謝ったのに、ウィータはギターをしまえなかった。


男の端末が小さく警告音を鳴らしていた。


「不規則音を検知。ストレス反応の可能性があります」


男は舌打ちした。


「最近、こういうの増えてるのか。非最適化趣味ってやつ」


「趣味じゃないです」


「じゃあ何ですか」


ウィータは答えられなかった。


男はしばらく待ってから、興味をなくしたように歩き去った。


その背中が見えなくなったあと、別の声がした。


「さっきの、もう一回やって」


ウィータは振り返った。


そこにいたのは、十代くらいの少女だった。髪を短く切っていて、学校支給の端末を首から下げている。目が妙にまっすぐだった。


「さっきのって」


「変な音」


「変って」


「うん。変だった。でも、もう一回聞きたい」


ウィータは戸惑った。


「下手だよ」


「下手って何?」


「いや、音が合ってないとか、そういう」


少女は少し考えた。


「合ってる音しか聞いたことないかも」


その言葉に、ウィータは何も言えなくなった。


少女はベンチの端に座った。端末が警告を出したらしく、彼女は首元の画面を指で伏せた。


「学校で流れる音楽は、全部目的があるんだよね。集中するため、落ち着くため、記憶するため、眠るため。家でも同じ。怒らないため。泣きすぎないため。親と喧嘩しないため」


「いいことじゃないの」


「たぶん」


少女は膝を抱えた。


「でも、私が何を感じてるのか、いつも先に決められてる気がする」


ウィータは、ギターの傷を指でなぞった。


少女は言った。


「さっきの音、何のためか分からなかった」


ウィータは小さく笑った。


「俺も分からない」


「じゃあ、もう一回」


仕方なく、ウィータは弾いた。


びいん、と濁った音が高架下に響いた。


少女は笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、息を止めるようにして聞いていた。


音が消えたあと、彼女は言った。


「今、端末が何も言わなかった」


「壊れたんじゃない」


「違う。たぶん、名前がつけられなかったんだと思う」


その夜、ウィータはいつもより少しだけ長くギターを鳴らした。


翌日、高架下には少女がまた来た。


その次の日、少女は友達を一人連れてきた。


さらにその次の日、誰かが温かい飲み物を持ってきた。


誰もそれをイベントとは呼ばなかった。


誰も登録しなかった。


誰も課金しなかった。


ただ、夜になると、何人かが高架下に集まるようになった。


ウィータの音は、まだ下手だった。


でも、その下手さの中で、人々は自分の感情が処理されずに残っていることを思い出し始めていた。



第4話「通行料のない部屋」


高架下に集まる人は、少しずつ増えた。


とはいっても、多くて十人くらいだった。革命と呼ぶには小さすぎる。ニュースになるほど危険でもなく、企業がすぐに潰しに来るほど大きくもない。ただ、都市のどこにも登録されていない時間が、毎晩そこにできた。


少女の名前は、リラといった。


リラはある日、古い紙を持ってきた。


「学校の教材倉庫にあった」


「盗んだの」


「再利用不可で廃棄予定だったから、回収しただけ」


ウィータは笑った。


リラはその紙に、鉛筆で何かを描き始めた。高架下の柱。ベンチ。ギターを抱えたウィータ。湯気の出る紙コップ。うまい絵ではなかった。でも、そこにいる人たちは、みんなそれをのぞき込んだ。


「私、絵を描いたの初めてかも」


「授業でやらないの?」


「生成する。目的に合わせて」


「描くのと違うの」


「違う気がする。失敗するから」


失敗するから。


その言葉を、ウィータはなぜか気に入った。


別の日には、いつも黙って座っていた中年の女の人が、小さな鍋を持ってきた。中身は、塩気の強いスープだった。


「味が濃い」


誰かが言うと、女の人はむっとした。


「母が作っていた味だから」


「じゃあ、正しい」


リラがそう言って、みんなで笑った。


ライフ・インフラの食事は、いつも体に良かった。栄養は過不足なく、味も整っていて、個人の消化能力まで考えられている。けれど、そのスープは塩辛くて、少し焦げていて、飲んだあと喉が渇いた。


それが妙にうまかった。


ある夜、老人が一人やってきた。


葉山透の部屋の隣に住んでいたという。


「透さんのギターだろ、それ」


ウィータは黙った。


怒られると思った。遺品を持ち出したのだから当然だ。


でも老人は、ただベンチに座った。


「奥さんが死んでから、あの人、夜中にたまに弾いてたよ。うまくはなかったけどな」


「ミナさん、ですか」


老人は驚いたようにウィータを見た。


「知ってるのか」


「ギターに書いてありました」


老人はしばらく黙った。


それから、ゆっくり話し始めた。


透が若いころ、ライブハウスで音響をしていたこと。ミナが受付にいたこと。二人とも歌は下手だったこと。ミナの葬式で、透が一曲だけギターを弾こうとして、途中で泣いて弾けなくなったこと。


「今の葬儀は、きれいすぎる」


老人は言った。


「写真も声も、いいところだけ残してくれる。悲しみすぎないように、順番も考えてくれる。ありがたいんだろうな。でも、透さんが途中で弾けなくなったあの時間の方が、俺には葬式だった」


誰も何も言わなかった。


ウィータは、ギターを老人に渡そうとした。


「これ、返した方がいいですか」


老人は首を振った。


「鳴ってるなら、その方がいい」


その日、ウィータはいつもより小さくギターを鳴らした。


リラは絵を描いた。女の人はスープを配った。老人はミナという人の話を、少しずつ思い出しながら語った。


それは、葬儀支援AIの記録には残らない夜だった。


でもウィータには、その夜こそが、透とミナの記憶を少しだけ生かしたように思えた。


誰かが言った。


「ここ、名前つけない?」


「イベントみたいになるから嫌だ」


「じゃあ、仮で」


リラが紙の端に小さく書いた。


通行料のない部屋。


高架下なのに部屋かよ、と誰かが笑った。


でも、その名前は残った。


通行料のない部屋。


そこでは、歌を聞くのに金はいらなかった。話すのに認証はいらなかった。悲しむのに許可はいらなかった。間違えるのに理由はいらなかった。


ウィータは、その場所が少し怖かった。


なぜなら、そこでは何も最適化されていないのに、誰も帰りたがらなかったからだ。



第5話「商品化」


最初に来たのは、警備ではなかった。


広告会社だった。


その男は、上層区域の人間にしては柔らかい靴を履いていた。高架下の地面を汚さないように、慎重に歩いてきた。服は目立たない灰色だったが、袖口に小さく企業ロゴが光っている。


「ウィータさんですね」


さん付けされることに、ウィータは慣れていなかった。


「違ったら?」


男は笑った。


「それは困ります。弊社の分析では、あなたがこの集まりの中心人物です」


リラが小さく舌打ちした。


男は気にしないふりをした。


「誤解しないでください。私たちは敵ではありません。むしろ、あなたたちの活動に価値を感じています」


価値。


その言葉が出た瞬間、ウィータは嫌な予感がした。


男は端末を開いた。空中に、きれいな企画書が浮かぶ。


「非最適化体験への需要は、上層区域でも高まっています。感情管理に疲れた層が、予測不能な人間的接触を求めている。あなたたちの活動は、その象徴になり得ます」


画面には、いくつかの言葉が並んでいた。


原始的共感。

人間回帰。

不完全音楽。

感情の再所有。


ウィータは、自分たちの夜が急に知らない商品名になっていくのを見ていた。


「場所を提供します。安全管理もします。配信もできます。収益は分配します。低層区域の支援基金も作れる。あなたのギターも、きちんと修理できる」


女の人が鍋を抱えたまま、少しだけ顔を上げた。


低層区域の支援。


それは、たぶん本当に必要だった。旧市街の階段は危ない。老人は病院に行きにくい。リラの学校も古い。ウィータの給料も安い。ここにいる誰もが、金を必要としていた。


男は、それを分かっていた。


「文化を守るには、持続可能性が必要です」


その言葉は正しかった。


正しすぎて、ウィータは何も言えなかった。


その夜、誰も歌わなかった。


リラも絵を描かなかった。スープも少し余った。老人は早めに帰った。


ウィータは、ギターを抱えたまま、高架下に一人残った。


金を受け取ることは、悪いことなのだろうか。


自分たちの場所を広げることは、間違いなのだろうか。


誰かに届くことと、誰かに所有されることは、どこから違うのだろうか。


端末が言った。


「情緒状態:判断負荷上昇。意思決定支援を起動しますか」


ウィータは笑った。


「お前に聞く話じゃない」


翌日の夜、ウィータはみんなを集めた。


男からの契約書を、紙に印刷して持ってきた。リラが驚いた。


「紙にしたの?」


「端末で見ると、なんか全部正しく見えるから」


みんなで契約書を読んだ。


難しい言葉ばかりだった。収益権。安全管理権。配信独占。二次利用。感情ログの匿名収集。ブランド連携。


女の人が言った。


「スープの味も記録されるの?」


「たぶん」


「じゃあ、次から塩を減らせって言われるね」


誰かが笑った。


老人が言った。


「弔いも、またきれいにされるな」


リラは契約書の余白に、鉛筆でぐちゃぐちゃの線を描いていた。


「私はここを広げたい。でも、同じ形で広がったら嫌だ」


ウィータはうなずいた。


それが答えに一番近かった。


数日後、男はまた高架下に来た。


「ご検討いただけましたか」


ウィータはギターを抱えて立っていた。


「場所も金も、必要です」


男は微笑んだ。


「では」


「でも、ここは売りません」


男の笑顔が少しだけ固まった。


ウィータは続けた。


「俺の歌を配信したいなら、たぶんできます。でも、それだと意味がないんです。ここで起きてるのは、俺の音楽じゃない。リラが描くこととか、スープがしょっぱいこととか、老人が途中で話せなくなることとか、誰かが黙って帰ることとか、そういうものです」


「それらを含めて、体験として設計できます」


「設計したら、違うものになる」


男は困ったように息を吐いた。


「では、どうするつもりですか。小さな場所のままでは、いずれ消えますよ」


ウィータは答えられなかった。


消えるかもしれない。


本当にそうだと思った。


だから彼は、ギターを鳴らした。


びいん、と濁った音がした。


それから、ウィータは歌わずに言った。


「俺の歌を聞きに来る場所にはしません」


リラが隣に立った。


「自分で何かする場所にする」


女の人が鍋を置いた。


「勝手に味を変えられない場所」


老人が言った。


「途中で泣いても、続きがなくてもいい場所」


男は、しばらく彼らを見ていた。


端末が何かを分析しているのが分かった。収益可能性。社会リスク。文化的波及。ブランド適合性。きっと、いくつもの数値が彼の目元に浮かんでいるのだろう。


でも、この場にあるものを、彼の端末は最後まで名前にできないようだった。


男は企画書を閉じた。


「後悔しますよ」


ウィータはうなずいた。


「たぶん」


男が去ったあと、高架下にはしばらく沈黙が残った。


リラが言った。


「で、どうするの」


ウィータは少し考えた。


「部屋を増やす」


「どうやって」


「分からない。でも、ここを大きくするんじゃなくて、別の場所で、別の人が勝手に始めればいい」


老人が笑った。


「無責任だな」


「うん」


ウィータも笑った。


その夜、彼は久しぶりにギターを鳴らした。


相変わらず下手だった。


でも、その音に合わせて、リラが紙を破る音がした。女の人がスープをよそう音がした。老人が、ミナという名前を小さく呼ぶ声がした。誰かが、知らない歌を鼻で歌った。


通行料のない部屋は、世界をすぐには変えなかった。


AI貴族も、ライフ・インフラも、上層区域も、何も崩れなかった。


けれどその日から、都市のあちこちで小さな不具合が増え始めた。


認可されていない料理会。

記録されない読書会。

最適化されない葬式。

配信されない演奏。

点数のつかない絵。

誰のためでもない歌。


人々は、AIを捨てたわけではなかった。


病院ではAIが人を助け、農場ではAIが作物を守り、危険な作業は機械が引き受けた。けれど、人々は少しずつ、AIに決めさせない場所を作り始めた。


何を美しいと思うか。

誰を弔うか。

何を歌うか。

誰と黙って座るか。

どんな失敗を、自分のものとして引き受けるか。


それらを、もう一度自分たちで選び始めた。


ウィータは、革命家にはならなかった。


相変わらず例外処理員として働き、朝には端末に気分を先回りされ、白い粥を食べ、古い建物の階段を上った。


ただ、作業バッグにはいつも、弦の一本切れたギターが入っていた。


端末は毎朝、同じことを言った。


「未登録物品があります。所有理由を入力してください」


ウィータは、今日も入力しなかった。


理由は、まだ分からなかった。


でも、分からないまま持っていていいものが、この世界には必要なのだと思った。

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