冒頭
故郷近くの石造りのギルド出張所。
高い窓から差し込む夕間暮れの光が、宙を舞う細かな埃を白く照らしている。
演習や依頼を終えた学生たちの話し声が、高い天井に反響しては、静かなロビーの空気の中へと溶けていった。
「……結局、あの森で見えた影は何だったんだろうな」
「一瞬だけ視界を横切った、あの異常に速い何かでしょ? 不気味よね。魔物じゃなさそうだったけど…」
掲示板の前で、装備を解いた若者たちが不思議そうに首を振る。
彼らが怪しむ『影』の正体を知る者は、この場にはいない。
ロビーの隅。
影に沈むベンチに、一人の黒髪の少年が静かに腰を下ろしていた。
レイ。
彼が手元で見つめている計測票には、夕光に透かされて、ひどく頼りない数字だけが並んでいる。
【ステータス計測報告書:レイ】
| 項目 | 数値 | 評価 |
| 筋力 (STR) | 10 | 力不足 |
| 頑健 (VIT) | 10 | とても弱い |
| 俊敏 (AGI) | 10 | のろい |
| 精神 (MP) | 10 | からっぽ |
判定:最低ライン
「おい、見ろよ。また『エンド』が座ってるぜ」
通り過ぎる学生たちの嘲笑を、レイはただの空気の振動として受け流した。
彼らにとって、レイは最初から「10」という記号でしかない。
レイは懐から、使い古された小さな薬瓶を取り出した。
中に入っているのは、安価なステータス増強剤だ。
数時間前。
一人で実家へ帰省する途中、森の街道で魔物に囲まれている少女を見かけた。
放っておけず、彼は自身の『ステータス』を対価として、魔術を編み上げた。
削り取られた数値が、不可視の刃となって空間を裂く。
少女を襲おうとしていた魔物たちの足首が、まるで目に見えない何かに刈り取られたかのように、一瞬で切断された。
それは、己の能力値を一時的に切り売りし、「10」という低数値では不可能な結果を、強引に捻り出すひどく効率の悪い業。
本来、ステータスは戦うために積み上げる資産だ。それをわざわざ消費して一時の現象を「買う」など、まともな探索者なら決して選ばない、あまりに割に合わない手段だった。
その代償として、無理やりスキルを捻り出した彼のステータスは、今、一桁の領域へと足を踏み入れようとしている。
ステータス「10」。
それは、この世界で『普通に生活できる』最低限のラインだ。
もしこれが「9」を下回れば、めまいに襲われ、呼吸すら苦しくなる。数値が下がるほどに体は病に蝕まれたように重くなり、やがて動けなくなる。
目減りした数値を、薬の力で強引に「10」まで埋め戻す。
震える指先で薬を口に運び、レイは喉を鳴らした。
(……これで、いい)
魔術の反動で消失した数値が自然に回復するには、まだ時間がかかる。それまでの間、こうして薬で「底上げ」をしていなければ、彼は帰省の道中で倒れ伏すことになるだろう。
一度削れて消えた数値は、簡単には戻ってこない。
自分の命を前借りしているような、ひどく不安定な感覚。
けれど、あの時の少女が怪我をせずに済んだのなら、それで十分だった。
レイは空になった薬瓶を隠すようにポケットへしまい、重い腰を上げた。
自分を笑う声が響くロビーには目もくれず、彼は一人、夕闇が迫る出口へと歩き出した。
今回が初投稿です。よろしくお願いします。




