罪と傷ー姉妹ー
「ん……」
ふと、ツムギは目を覚ました。
ミルゥを撫でようとするが、いない。
「トイレかな?──ほわぁっ」
思わず声をあげる。
布団の側に人影があった。
あわてて紐を引き、電気を付ける。
ミルゥの代わりにそこにいたのは──イオリだった。
イオリはツムギの布団の端に静かに座っている。
「幽霊かと思ったよぉ。どしたの?」
ツムギはキョロキョロと辺りを見回す。
「ミルゥ、知らない?」
イオリはそれには答えず、ゆっくりとツムギの手を取る。
その手はひどく冷たかった。
なにか、甘ったるいような、嫌な臭いがする。
ツムギは鼻をひくつかせた。
「あのね、お姉ちゃん」
「ん?」
「私ね、怖かったのよ」
イオリがゆっくりと言う。
「お姉ちゃんが、向こうで幸せになって……私のことなんて、忘れちゃったんじゃないかって」
「え?」
イオリは静かに笑った。
「お姉ちゃんはずっと、私より綺麗で、頭が良くて、優しくて。……私より、ずっと自由だった」
ツムギは首をひねる。
イオリの様子が明らかにおかしい。
マタニティブルー……だっけ。
「どしたのイオリ。大丈夫?」
「……この家は、私たちにはやっぱり窮屈よね」
イオリはツムギの問いには答えず、ふくらんだお腹を撫でる。
どこかで、ぱち、と小さな音がした。
柱が鳴ったのだろうか。
古い家だし、夜はよく軋む。
「この子が生まれても、これから先も、私自身の人生なんてどこにも存在しないの。私の人生があったのは……子どもの頃の、お姉ちゃんとの時間だけ」
「イオリ……?」
「だからね。お姉ちゃんが竜人のところから帰ってきたって聞いて、安心したの。“ああ、まだ私たちは家族なんだ”って」
歌うように言いながら、イオリはツムギの手を握る手にぐっと力を込めた。
「だから……もうどこにも行かないわよね?もう私を置いていったりしないよね?」
縋りつくような声だった。
心臓がきしむように痛んだ。
ツムギは無意識に、何度も喉を鳴らしていた。
足の裏が、じんわりと熱い。
畳はこんなに温かかっただろうか。
そう思った瞬間、鼻の奥に、はっきりとした焦げ臭さが刺さった。
「イオリ──」
「私を助けてくれるよね? “あの時”みたいに──」
「……うん?」
ツムギが顔を上げた、そのとき。
家の外で悲鳴が上がった。
「──火事だ‼︎」
「えっ⁈」
ツムギは慌てて、ベランダ側の雨戸を開けた。
火元は──まさか、この家ではないか?
下の階から、煙が出ている。
ツムギは枕元の笛を掴んで、いつものように腰に紐を巻き付けた。
「イオリ、うちが火事!逃げないと!」
「知ってるわ」
慌てるツムギの背後で、イオリがゆっくり立ち上がる。
「──火をつけたの、私だから」
その声は静かで、穏やかで、まるで夕飯の献立を話すみたいに自然だった。
イオリが笑う。
「お姉ちゃん。一緒に、全部終わりにしよう」
ツムギは息を呑む。
柱が爆ぜる音がした。
叫び声が聞こえた。
村人たちが慌てふためく気配があるのに、誰も助けに来ない。
「お母さん!お父さんは⁈いないの⁈」
「きっとまだ眠りこけてるんじゃないかしら」
イオリは頬に手を添えて、おっとりと首をかしげる。
「最近、あまり眠れなくって。お医者さまにお薬を処方していただいたのよね」
「……え、それって」
お父さんとお母さんに、睡眠薬を飲ませた──
そう言っているのだろうか?
「どうして……?」
「お姉ちゃんは、あの男が憎くないの?」
煙が濃くなって、電気の光が白く霞んだ。
「あの男?」
眉を顰めるツムギに、イオリは語る。
下から熱が押し上げてきて、床がわずかに震えた。
「あの夜──ヒカンドリが出たときよ。お父さんはわざわざ、お姉ちゃんに言ったの。“珍しい鳥だ”って。おばあは、“お姉ちゃんには伝えるな”って止めてたのに」
イオリは一息に続ける。
「生き物が好きなお姉ちゃんが、それを聞いたらどうするか──あの男は、最初から分かってた。だから、あえて教えたのよ」
「……」
「お父さんは、初めから、お姉ちゃんを竜人の生け贄にするつもりだったの!」
ツムギは何も言えなかった。
その考えが、頭をよぎったことはあった。
けれど、ツムギは。
お父さんが、“そこまで自分のことを知らない可能性”に縋り付いていたのだ。
「お姉ちゃんを生け贄にして、厄介払いしておいて!あの男は、“村のためにやむなく大切な娘を犠牲にした”と、臆面もなく触れ回っていたのよ。お姉ちゃんの犠牲を、利用したの」
「……そっか」
ツムギは苦笑いする。
「悔しくないの⁈憎くないの?──悲しくないの?」
イオリの詰問に、ツムギは目を閉じて言葉を探す。
「……何も感じないわけじゃないけどさぁ。まあ、いいよ、もう」
「許すって言うの⁈」
「許すっていうか……」
ツムギは笑う。
「もう、どうでもいいんだよぉ」
「……」
ツムギは、目の前の美しい妹を見つめる。
イオリ。
おばあとヤシロさん。
ミルゥ。ゼータ。チビちゃんたち。
……ギルター。
「あたし、いまはもう、好きな人たちのことしか考えたくないの」
イオリは何か言おうとしたが、結局口を閉じた。
ツムギはイオリの手を取る。
「さぁ逃げよう!ミルゥ、どこ?知らない?!」
「……お姉ちゃん、」
「つづきは、あとでゆっくりね!」
「私が崖から落ちそうになったとき──」
イオリの声がひんやりと響いた。
「あれ、わざとだった、って言ったら怒る?」
「……え?」
ツムギは思わず動きを止める。
「だって、お姉ちゃんが結婚しようとするから。目の前で私が怪我したら、責任を感じて、家を出ないでくれるかも、って。私の世話をしながら、ずっと一緒に暮らしてくれるかも、って」
ツムギは自分の体が震え出すのを感じた。
「……イオリ、そんなこと考えてたの?」
「怒った?もっと怒らせてあげる」
イオリは頰に手を当てて、にこりと綺麗に笑う。
「あのふわふわは、呼んでも来ないわ。物置小屋に閉じ込めたから。──いま頃、こんがり焼けてるんじゃないかしら」
ツムギの頭から血が引いていく。
「そ、そんな……!何言ってんの!」
「邪魔なんだもの。あのふわふわ」
「ミルゥ‼︎」
ツムギは叫び、這って廊下に出る。
背中に静かな声が追いすがる。
「私を見捨てるの?お姉ちゃんは私より、あのふわふわが大事?」
ツムギは叫ぶ。
「順番とか無い。どっちも大事だよ!」
「私はここから動かないわ。一緒にいてくれないの?」
階段の下から、熱風が吹き上げてくる。
一階はもう火の海だった。
ツムギは急いで部屋に戻る。
「……イオリ」
ツムギは正面からイオリの肩を抱いた。
「あたしはミルゥを見捨てたりしないし、イオリと一緒に死んだりもできないよ。ごめんね」
「……」
「あたしは……」
ギルターの姿が脳裏に浮かぶ。
「ギルターの……竜人の、花嫁だから」
「……そう」
イオリは目を閉じる。
「そう言われる気がしてたわ。お姉ちゃん、変わったから」
ツムギはうなずく。
「でも、イオリを見捨てたりもしないよ。一緒に逃げよう」
イオリの目が見開かれる。
イオリはしばらく固まっていたが、やがて、ゆっくりと首を振る。
「私は──逃げられないわ。怖いのよ。あの人たちが。夫が。義理の両親が──この子が──」
お腹に目をやる。
「自分が、怖い」
「イオリ……」
「怖いの。……助けて、お姉ちゃん」
そのとき、外からつんざくような怒号がした。
「ツムギィ!!!」
「おばあ?!」
ツムギは這ってベランダに出ようとして──
「熱っ!!」
すぐに手を引っ込める。
ベランダは下からの熱で熱くなっていた。
室内ぎりぎりから顔を出す。
煙で喉が焼ける。
「ツムギ、無事かい?!妹もいるのかい?!」
「一階が火元なの!お父さんとお母さんが!」
ツムギは声を張り上げる。
「もうヤシロが運び出したよ!のんきに寝っこけおって、あのひょうたんども!──フワモコはいないのかい?!」
「ミルゥは物置だって!だよね?!」
ツムギはイオリを振り返る。
ベランダの板が、きし、と嫌な音を立てた。
おばあの声が再び届く。
「あそこなら火の向きは逆だ!フワモコはあと、あんたたちが先だ!」
ミルゥ……よかった。
ツムギは、ほっと息を吐く。
「ハシゴが来たよ!一階はもう無理だ!ヤシロが外から降ろすよ!」
「わかったぁ!」
すぐにヤシロさんが、ベランダの下の張り出した一階の屋根から顔を出す。
「熱いよ!気をつけて!」
ヤシロさんはうなずいて、難なくベランダの柵をよじ登ってきた。
おばあもハシゴを登ってきたらしく、一階の屋根に顔を覗かせる。
歳を考えてよ、おばあ──とは言えなかった。
「おいおばあ、もう無理だ!」
下で村人たちが騒いでいる。
「付き合ってられん!」
「ワシらは逃げるぞ!」
おばあが下を振り返って叫ぶ。
「──この薄情もんどもがぁ!!」
部屋にたどり着いたヤシロさんに向かって、ツムギはイオリを押す。
「イオリをお願い!」
「いや!」
イオリは暴れる。
「もう私たちを放っておいて!引き離さないで!」
おばあも老婆とは思えない動きだったが──ヤシロさんの力は、人間離れしていた。
暴れるイオリを抱えて、張り出した一階の屋根へと降ろす。
さすがに一瞬動きを止めたイオリを、おばあがしっかりと受ける。
屋根の上でイオリは再び暴れ出した。
「やだ!お姉ちゃん!!」
「まったく、うるさい子だねっ」
「うっ」
おばあが叩いて、イオリはぐったりなる。
「ほわぁあぁ、妊婦さんだよっ」
ツムギは思わず上から叫ぶ。
「こうしないほうが危ないんだよっ。ツムギっ、あんたもそこで大人しく待ってるんだよっ!絶対助けるからね!」
そのやり取りの間にも、ヤシロさんは気絶したイオリを屋根の縁に運んでいる。
「お願い、ヤシロさん……!」
おばあたちとイオリの姿が屋根から消える。
煙と屋根で、部屋からは状況が見えない。
ツムギは祈るしかない。
やがて、何かを抱えた人影が地面を駆けていくのがうっすら見えた。
ヤシロさんがイオリを安全な場所に置きにいったのだろう。
ホッと息を吐く。
すぐさま、おばあが再び屋根に顔を出した。
──そのとき。
ツムギの目の前のベランダが、音を立てて崩れ落ちた。
ツムギは慌てて身を引く。
「──ツムギ!!!」
おばあの叫び声が届く。
ツムギも声を張り上げた。
「大丈夫……!」
「海側へ回るよ!!」
ベランダ側はもう脱出不可能だ。
ツムギはもう片方の窓から顔を出して、息をする。
「ヤシロ、早くしろぉ!!」
おばあの叫ぶ声が、吹き付ける風の音に混じって聞こえる。
轟音に振り返ると、ふすまの前にも柱が倒れ込んでいる。
──もう、部屋の外には出られない。
「ツムギィ!!」
窓の下から声がした。
防風林の間で、おばあが大きく手を振っている。
「飛び降りろぉ!ババアが死んでも受け止める!!」
「無茶言わないでよぉ……」
手を差し伸ばすおばあを見て、そんな場合じゃないのに、ツムギは笑ってしまう。
おばあは叫び続ける。
「笑う余裕があるなら大丈夫だよ!ほんとに、あんたは!変なとこで肝っ玉が座ってるんだから!」
ツムギは咳き込みながら考える。
受け止めるのは無理でも、防風林がある。
よほどのことが無ければ、死にはしない。
下に落ちさえすれば、ヤシロさんが抱えて運んでくれる。
けれど──立てないツムギはそもそもこの窓を乗り越えられない。
(そうだ、座卓に乗れば……)
座卓を、窓のほうに背中でずりずりと押しやる。
なんとかその上に登った。
膝立ちになるが、まだ高さが足りない。
「気合いで立て!登りんしゃいツムギ!!」
そうは言われても、さすがに腕も足ももう動かなくなってきた。
ヤシロさんが戻ってきて、窓に近い木を登り始める。
木から手を伸ばすか、窓に飛び移る気なのか。
そのとき。
強風に煽られた燃えたトタンが、火の粉を撒き散らしながらおばあの足元に叩きつけられる。
「おばあっ!」
「大丈夫だよ!」
火の粉が防風林に燃え移り、あっという間に炎が燃え広がる。
「行けっ!いいから行けっヤシロ!」
おばあは燃え上がる足元を蹴り、あたしのほうを指差す。
ヤシロさんが、ほんの一瞬、視線を巡らせる。
「ヤシロさん!」
──おばあを助けて。
ツムギの叫びを、ヤシロさんは正しく受け止めた。
すぐさま飛び降りて、おばあを抱き上げて駆けていく。
「あはは。ヤシロさん、すごすぎぃ……」
思わず声が漏れる。
「戻れヤシロぉーー!!」
おばあは運ばれながら叫び続けている。
「ツムギ!ツムギィ──!!」
風が強い。
あっという間に、窓下は火の海になった。
ツムギは息を吐く。
これでは、落ちたら怪我では済まない。
ツムギの部屋でも、天井がきしみ、焼けた破片が落ちてくる。
熱と煙で息ができない。
咳き込んで、意識が薄れかける。
──ミルゥは、無事だろうか。
おばあは物置小屋に行ってくれただろうか。
きっと大丈夫だ。
おばあはミルゥのことが大好きだから。
そう信じる。
ツムギは目を閉じ、震える息を吐いた。
ミルゥ。
ギルター。ゼータ。チビちゃん。
会いたい。
もう一度、会いたい。
──ううん。
また、みんなで一緒に暮らしたい。
ツムギの目に、煙のせいではない涙が浮かぶ。
いま、気づいた。
はじめから、それだけがあたしの願いだった。
家族と一緒の、穏やかな生活。
それだけを、ずっとずっと望んでいた。
(もしも、ここから出られたら……)
ツムギは思う。
ううん、このまま出られなかったとしても。
夜の海で歌うギルターの姿が思い浮かぶ。
あたしは魂となって、ギルターに会いに行く。
あのまぶしい碧の元に、あたしは帰る。




