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ニライカナイの花嫁  作者: 望月冴子
第5章:帰ってきた場所

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罪と傷ー姉妹ー

「ん……」


 ふと、ツムギは目を覚ました。


 ミルゥを撫でようとするが、いない。


「トイレかな?──ほわぁっ」


 思わず声をあげる。

 布団の側に人影があった。


 あわてて紐を引き、電気を付ける。


 ミルゥの代わりにそこにいたのは──イオリだった。


 イオリはツムギの布団の端に静かに座っている。


「幽霊かと思ったよぉ。どしたの?」


 ツムギはキョロキョロと辺りを見回す。


「ミルゥ、知らない?」


 イオリはそれには答えず、ゆっくりとツムギの手を取る。

 その手はひどく冷たかった。


 なにか、甘ったるいような、嫌な臭いがする。

 ツムギは鼻をひくつかせた。


「あのね、お姉ちゃん」

「ん?」 

「私ね、怖かったのよ」


 イオリがゆっくりと言う。


「お姉ちゃんが、向こうで幸せになって……私のことなんて、忘れちゃったんじゃないかって」

「え?」


 イオリは静かに笑った。


「お姉ちゃんはずっと、私より綺麗で、頭が良くて、優しくて。……私より、ずっと自由だった」


 ツムギは首をひねる。

 イオリの様子が明らかにおかしい。


 マタニティブルー……だっけ。


「どしたのイオリ。大丈夫?」

「……この家は、私たちにはやっぱり窮屈よね」


 イオリはツムギの問いには答えず、ふくらんだお腹を撫でる。 


 どこかで、ぱち、と小さな音がした。

 柱が鳴ったのだろうか。

 古い家だし、夜はよく軋む。


「この子が生まれても、これから先も、私自身の人生なんてどこにも存在しないの。私の人生があったのは……子どもの頃の、お姉ちゃんとの時間だけ」

「イオリ……?」

「だからね。お姉ちゃんが竜人のところから帰ってきたって聞いて、安心したの。“ああ、まだ私たちは家族なんだ”って」


 歌うように言いながら、イオリはツムギの手を握る手にぐっと力を込めた。


「だから……もうどこにも行かないわよね?もう私を置いていったりしないよね?」


 縋りつくような声だった。

 心臓がきしむように痛んだ。


 ツムギは無意識に、何度も喉を鳴らしていた。


 足の裏が、じんわりと熱い。

 畳はこんなに温かかっただろうか。


 そう思った瞬間、鼻の奥に、はっきりとした焦げ臭さが刺さった。


「イオリ──」

「私を助けてくれるよね? “あの時”みたいに──」

「……うん?」


 ツムギが顔を上げた、そのとき。

 家の外で悲鳴が上がった。


「──火事だ‼︎」

「えっ⁈」


 ツムギは慌てて、ベランダ側の雨戸を開けた。


 火元は──まさか、この家ではないか?


 下の階から、煙が出ている。


 ツムギは枕元の笛を掴んで、いつものように腰に紐を巻き付けた。


「イオリ、うちが火事!逃げないと!」

「知ってるわ」


 慌てるツムギの背後で、イオリがゆっくり立ち上がる。


「──火をつけたの、私だから」


 その声は静かで、穏やかで、まるで夕飯の献立を話すみたいに自然だった。

 イオリが笑う。


「お姉ちゃん。一緒に、全部終わりにしよう」


 ツムギは息を呑む。


 柱が爆ぜる音がした。

 叫び声が聞こえた。


 村人たちが慌てふためく気配があるのに、誰も助けに来ない。


「お母さん!お父さんは⁈いないの⁈」

「きっとまだ眠りこけてるんじゃないかしら」


 イオリは頬に手を添えて、おっとりと首をかしげる。


「最近、あまり眠れなくって。お医者さまにお薬を処方していただいたのよね」

「……え、それって」


 お父さんとお母さんに、睡眠薬を飲ませた──

 そう言っているのだろうか?


「どうして……?」

「お姉ちゃんは、あの男が憎くないの?」


 煙が濃くなって、電気の光が白く霞んだ。


「あの男?」


 眉を顰めるツムギに、イオリは語る。

 下から熱が押し上げてきて、床がわずかに震えた。


「あの夜──ヒカンドリが出たときよ。お父さんはわざわざ、お姉ちゃんに言ったの。“珍しい鳥だ”って。おばあは、“お姉ちゃんには伝えるな”って止めてたのに」


 イオリは一息に続ける。


「生き物が好きなお姉ちゃんが、それを聞いたらどうするか──あの男は、最初から分かってた。だから、あえて教えたのよ」

「……」

「お父さんは、初めから、お姉ちゃんを竜人の生け贄にするつもりだったの!」


 ツムギは何も言えなかった。


 その考えが、頭をよぎったことはあった。


 けれど、ツムギは。

 お父さんが、“そこまで自分のことを知らない可能性”に縋り付いていたのだ。


「お姉ちゃんを生け贄にして、厄介払いしておいて!あの男は、“村のためにやむなく大切な娘を犠牲にした”と、臆面もなく触れ回っていたのよ。お姉ちゃんの犠牲を、利用したの」

「……そっか」


 ツムギは苦笑いする。


「悔しくないの⁈憎くないの?──悲しくないの?」


 イオリの詰問に、ツムギは目を閉じて言葉を探す。


「……何も感じないわけじゃないけどさぁ。まあ、いいよ、もう」

「許すって言うの⁈」

「許すっていうか……」


 ツムギは笑う。


「もう、どうでもいいんだよぉ」

「……」


 ツムギは、目の前の美しい妹を見つめる。 


 イオリ。

 おばあとヤシロさん。

 ミルゥ。ゼータ。チビちゃんたち。

 ……ギルター。


「あたし、いまはもう、好きな人たちのことしか考えたくないの」


 イオリは何か言おうとしたが、結局口を閉じた。

 ツムギはイオリの手を取る。


「さぁ逃げよう!ミルゥ、どこ?知らない?!」

「……お姉ちゃん、」

「つづきは、あとでゆっくりね!」

「私が崖から落ちそうになったとき──」


 イオリの声がひんやりと響いた。


「あれ、わざとだった、って言ったら怒る?」

「……え?」 


 ツムギは思わず動きを止める。


「だって、お姉ちゃんが結婚しようとするから。目の前で私が怪我したら、責任を感じて、家を出ないでくれるかも、って。私の世話をしながら、ずっと一緒に暮らしてくれるかも、って」


 ツムギは自分の体が震え出すのを感じた。


「……イオリ、そんなこと考えてたの?」

「怒った?もっと怒らせてあげる」


 イオリは頰に手を当てて、にこりと綺麗に笑う。


「あのふわふわは、呼んでも来ないわ。物置小屋に閉じ込めたから。──いま頃、こんがり焼けてるんじゃないかしら」


 ツムギの頭から血が引いていく。


「そ、そんな……!何言ってんの!」

「邪魔なんだもの。あのふわふわ」

「ミルゥ‼︎」


 ツムギは叫び、這って廊下に出る。

 背中に静かな声が追いすがる。


「私を見捨てるの?お姉ちゃんは私より、あのふわふわが大事?」


 ツムギは叫ぶ。


「順番とか無い。どっちも大事だよ!」

「私はここから動かないわ。一緒にいてくれないの?」


 階段の下から、熱風が吹き上げてくる。

 一階はもう火の海だった。

 ツムギは急いで部屋に戻る。


「……イオリ」


 ツムギは正面からイオリの肩を抱いた。


「あたしはミルゥを見捨てたりしないし、イオリと一緒に死んだりもできないよ。ごめんね」

「……」

「あたしは……」


 ギルターの姿が脳裏に浮かぶ。


「ギルターの……竜人の、花嫁だから」

「……そう」


 イオリは目を閉じる。


「そう言われる気がしてたわ。お姉ちゃん、変わったから」


 ツムギはうなずく。


「でも、イオリを見捨てたりもしないよ。一緒に逃げよう」


 イオリの目が見開かれる。

 イオリはしばらく固まっていたが、やがて、ゆっくりと首を振る。


「私は──逃げられないわ。怖いのよ。あの人たちが。夫が。義理の両親が──この子が──」


 お腹に目をやる。


「自分が、怖い」

「イオリ……」

「怖いの。……助けて、お姉ちゃん」


 そのとき、外からつんざくような怒号がした。


「ツムギィ!!!」

「おばあ?!」


 ツムギは這ってベランダに出ようとして──


「熱っ!!」


 すぐに手を引っ込める。

 ベランダは下からの熱で熱くなっていた。


 室内ぎりぎりから顔を出す。

 煙で喉が焼ける。


「ツムギ、無事かい?!妹もいるのかい?!」

「一階が火元なの!お父さんとお母さんが!」


 ツムギは声を張り上げる。


「もうヤシロが運び出したよ!のんきに寝っこけおって、あのひょうたんども!──フワモコはいないのかい?!」

「ミルゥは物置だって!だよね?!」


 ツムギはイオリを振り返る。

 ベランダの板が、きし、と嫌な音を立てた。

 おばあの声が再び届く。


「あそこなら火の向きは逆だ!フワモコはあと、あんたたちが先だ!」


 ミルゥ……よかった。

 ツムギは、ほっと息を吐く。


「ハシゴが来たよ!一階はもう無理だ!ヤシロが外から降ろすよ!」

「わかったぁ!」


 すぐにヤシロさんが、ベランダの下の張り出した一階の屋根から顔を出す。


「熱いよ!気をつけて!」


 ヤシロさんはうなずいて、難なくベランダの柵をよじ登ってきた。


 おばあもハシゴを登ってきたらしく、一階の屋根に顔を覗かせる。

 歳を考えてよ、おばあ──とは言えなかった。


「おいおばあ、もう無理だ!」


 下で村人たちが騒いでいる。


「付き合ってられん!」

「ワシらは逃げるぞ!」


 おばあが下を振り返って叫ぶ。


「──この薄情もんどもがぁ!!」


 部屋にたどり着いたヤシロさんに向かって、ツムギはイオリを押す。


「イオリをお願い!」

「いや!」


 イオリは暴れる。


「もう私たちを放っておいて!引き離さないで!」


 おばあも老婆とは思えない動きだったが──ヤシロさんの力は、人間離れしていた。


 暴れるイオリを抱えて、張り出した一階の屋根へと降ろす。

 さすがに一瞬動きを止めたイオリを、おばあがしっかりと受ける。


 屋根の上でイオリは再び暴れ出した。


「やだ!お姉ちゃん!!」

「まったく、うるさい子だねっ」

「うっ」


 おばあが叩いて、イオリはぐったりなる。


「ほわぁあぁ、妊婦さんだよっ」


 ツムギは思わず上から叫ぶ。


「こうしないほうが危ないんだよっ。ツムギっ、あんたもそこで大人しく待ってるんだよっ!絶対助けるからね!」


 そのやり取りの間にも、ヤシロさんは気絶したイオリを屋根の縁に運んでいる。


「お願い、ヤシロさん……!」


 おばあたちとイオリの姿が屋根から消える。

 煙と屋根で、部屋からは状況が見えない。

 ツムギは祈るしかない。


 やがて、何かを抱えた人影が地面を駆けていくのがうっすら見えた。

 ヤシロさんがイオリを安全な場所に置きにいったのだろう。

 ホッと息を吐く。  


 すぐさま、おばあが再び屋根に顔を出した。


 ──そのとき。


 ツムギの目の前のベランダが、音を立てて崩れ落ちた。

 ツムギは慌てて身を引く。


「──ツムギ!!!」


 おばあの叫び声が届く。

 ツムギも声を張り上げた。


「大丈夫……!」

「海側へ回るよ!!」


 ベランダ側はもう脱出不可能だ。

 ツムギはもう片方の窓から顔を出して、息をする。


「ヤシロ、早くしろぉ!!」


 おばあの叫ぶ声が、吹き付ける風の音に混じって聞こえる。


 轟音に振り返ると、ふすまの前にも柱が倒れ込んでいる。

 ──もう、部屋の外には出られない。


「ツムギィ!!」 


 窓の下から声がした。

 防風林の間で、おばあが大きく手を振っている。


「飛び降りろぉ!ババアが死んでも受け止める!!」

「無茶言わないでよぉ……」


 手を差し伸ばすおばあを見て、そんな場合じゃないのに、ツムギは笑ってしまう。

 おばあは叫び続ける。


「笑う余裕があるなら大丈夫だよ!ほんとに、あんたは!変なとこで肝っ玉が座ってるんだから!」


 ツムギは咳き込みながら考える。


 受け止めるのは無理でも、防風林がある。

 よほどのことが無ければ、死にはしない。

 下に落ちさえすれば、ヤシロさんが抱えて運んでくれる。


 けれど──立てないツムギはそもそもこの窓を乗り越えられない。


(そうだ、座卓に乗れば……)


 座卓を、窓のほうに背中でずりずりと押しやる。

 なんとかその上に登った。

 膝立ちになるが、まだ高さが足りない。


「気合いで立て!登りんしゃいツムギ!!」


 そうは言われても、さすがに腕も足ももう動かなくなってきた。


 ヤシロさんが戻ってきて、窓に近い木を登り始める。

 木から手を伸ばすか、窓に飛び移る気なのか。


 そのとき。


 強風に煽られた燃えたトタンが、火の粉を撒き散らしながらおばあの足元に叩きつけられる。


「おばあっ!」

「大丈夫だよ!」


 火の粉が防風林に燃え移り、あっという間に炎が燃え広がる。


「行けっ!いいから行けっヤシロ!」


 おばあは燃え上がる足元を蹴り、あたしのほうを指差す。


 ヤシロさんが、ほんの一瞬、視線を巡らせる。


「ヤシロさん!」


 ──おばあを助けて。


 ツムギの叫びを、ヤシロさんは正しく受け止めた。

 すぐさま飛び降りて、おばあを抱き上げて駆けていく。


「あはは。ヤシロさん、すごすぎぃ……」


 思わず声が漏れる。


「戻れヤシロぉーー!!」


 おばあは運ばれながら叫び続けている。


「ツムギ!ツムギィ──!!」


 風が強い。

 あっという間に、窓下は火の海になった。


 ツムギは息を吐く。

 これでは、落ちたら怪我では済まない。


 ツムギの部屋でも、天井がきしみ、焼けた破片が落ちてくる。


 熱と煙で息ができない。

 咳き込んで、意識が薄れかける。


 ──ミルゥは、無事だろうか。


 おばあは物置小屋に行ってくれただろうか。

 きっと大丈夫だ。

 おばあはミルゥのことが大好きだから。


 そう信じる。

 ツムギは目を閉じ、震える息を吐いた。


 ミルゥ。

 ギルター。ゼータ。チビちゃん。


 会いたい。

 もう一度、会いたい。

 ──ううん。


 また、みんなで一緒に暮らしたい。


 ツムギの目に、煙のせいではない涙が浮かぶ。


 いま、気づいた。

 はじめから、それだけがあたしの願いだった。


 家族と一緒の、穏やかな生活。

 それだけを、ずっとずっと望んでいた。


(もしも、ここから出られたら……)


 ツムギは思う。


 ううん、このまま出られなかったとしても。


 夜の海で歌うギルターの姿が思い浮かぶ。


 あたしは魂となって、ギルターに会いに行く。


 あのまぶしい碧の元に、あたしは帰る。


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