竜と花嫁が離れるとき
……いつの間にか、寝室に運ばれていた。
ベッドの上で、ツムギは目を開けた。
天井のガラス窓から、まばゆい光が差し込んでいる。
朝が来た。
別れの朝が。
頰をツンツンとつつかれて、そちらに目をやる。
「おはよう、ミルゥ……」
「くぅーん」
「昨日はごめんねぇ……」
ツムギはミルゥをギュッと抱きしめる。
洗面を終えて部屋に戻り着替え終わる。
そこへ、ちょうどノックの音がした。
「……はい」
「……おはよう。入っていいか?」
ギルターが立っていた。
目が赤い。
ツムギがうなずくと、ギルターは部屋に入ってくる。
ゆっくりとベッドの端に腰掛けた。
ツムギはギルターの顔を見上げる。
「……あの後、ゼータと何か話した?」
ギルターは静かに笑う。
「うん。あそこまでちゃんと兄弟喧嘩したの、初めてだ。──だから、仲直りも、初めて」
ツムギはほっとして笑った。
ギルターは、ツムギの手の上に自分の手をそっと重ねる。
「昨日はみっともなく泣き叫んだりして、ごめんな。できるなら、最後はちゃんと笑ってお別れしたい」
ツムギはギルターの手を握り返す。
「……うん。あたしも、そう思ってた」
「なら……よかった」
腕が伸びてきて、そっと抱きしめられる。
ツムギはギルターの肩に顔を乗せる。
二人はしばらくそうしていた。
並んで食堂に向かうと、テーブルの上には料理が所狭しと置かれていた。
ナッツ入りの焼き立てパン。
サンドイッチもある。
貝のスープ、ポタージュ、サラダにスクランブルエッグ。
「……最初の日より、豪華みたい」
ツムギは笑う。
「張り切りすぎだよな、ほんと」
茶化すギルターを、キッチンから出てきたゼータが睨みつける。
その目も、少し赤い気がしたけれど──
ほんとに、いつもの二人だった。
……よかった。
本当によかった。
ゼータが湯気の立ち上るシーフードのパスタをツムギの前に置く。
「ありがとう。……いただきます」
ゼータがうなずく。
最後の晩餐──じゃない。
最後の朝食だ。
ツムギは厳かに手を合わせると、全ての料理を順番に味わった。
もうごはん一粒だって入らないくらい、満腹になるまで食べた。
「ごちそうさまでした。あーあ、更に太っちゃう!」
手を合わせて、わざと明るく言う。
食べ終えた皿を持って運んでも、ゼータは怒らなかった。
寝室に戻り身支度を確認していると、ノックの音がした。
ギルターが立っている。
「……準備できたか?」
「うん」
ツムギがうなずくと、ギルターが苦笑いした。
「もう少しゆっくり、荷造りしてもいいんだぞ」
「ううん。荷物、これだけだから」
ツムギは花嫁衣装を撫でる。
「そうだよな。君は……身一つで来てくれたんだったな」
ギルターは、自分に言い聞かせるようにうなずく。
「大事なズカンとかも全部置いて、来てくれたんだよな」
「ふふ。まぁ、図鑑はいいけどぉ。図鑑以上のもの、見せてもらったから」
ツムギは微笑む。
……この部屋とも、お別れだ。
お姫さまみたいなお部屋。
あたしは、やっぱりお姫さまにはなれなかったけれど。
それでもほんの一瞬だけ──そうなれた気がしてた。
「……素敵な夢を見せてくれて、ありがとう」
花嫁衣装の包みを持って、部屋に向かって頭を下げる。
ミルゥに乗って、ツムギはギルターと手を繋いで廊下をゆっくり歩いていく。
壁は朝日にきらきらと輝いて美しかった。
“始まりの海”の扉の前に来た。
ギルターとミルゥが立ち止まる。
(……さよなら、チビちゃんたち)
ツムギは目を閉じて、扉に額をつける。
心の中で語りかける。
(逃げて、ごめんね。こんなお母さんでごめん。どうか元気で、幸せでいてね)
昨日涙が枯れるまで泣いたと思ったのに、また涙がこぼれる。
(──あたしをお母さんにしてくれて、ありがとう)
ギルターが優しくツムギの肩を抱く。
浜に出ると、すでにワタリガメとゼータが待っていた。
ツムギは真珠宮を見上げる。
(……いろんなことがあったなぁ)
本当に、いろんなことがあった。
ミルゥがゼータの前へと歩み出る。
「お世話になりました」
ミルゥに乗ったまま頭を下げると、ゼータは小さくうなずいた。
少し間を置いてから、静かに口を開く。
「……レアチーズケーキを完成させられなかったことは、私の永遠の生涯の汚点です」
ツムギは思わず笑った。
「食べたかったなぁ。ゼータが作ったレアチーズケーキ」
「ああ。俺も食べてみたかった」
ギルターも笑って言う。
ゼータはミルゥの前に片膝をついた。
「ミルゥ。いままでの働きに感謝します」
そう言って、首元に小さな荷をくくりつける。
「ミルゥの好物の草の種です。向こうで育ててください」
ツムギはミルゥから降り、その顔をのぞき込む。
「……ほんとに、あたしと一緒に来てくれるの?」
「くぅーん」
ミルゥは「当然だ」と言うみたいに鳴いた。
ツムギはミルゥをぎゅっと抱きしめる。
「……ありがとうねぇ、ミルゥ」
「こいつもオスだからな。俺たちより、ツムギのほうが好きらしい」
ギルターが笑って、ツムギを抱き上げる。
そのままワタリガメの背へ。
ワタリガメは、静かに沖へ向かって泳ぎ出した。
「ゼータ!ありがとう!」
ツムギは浜に向かって叫ぶ。
「ありがとうね!」
一生懸命、ゼータに腕を振る。
ゼータは何も言わなかった。
手も振り返さなかった。
ただ、いつもの凛とした姿勢のまま、浜辺に立ってこちらを見ていた。
その姿が豆粒ほどになったころ。
あの膜をくぐる感覚がして、島も、ゼータも、ふっと消えた。
……さよなら、ネディラ島。
カガリ。モチウミ。ナギウモちゃん。
たくさんの、愛しい生き物たち。
ちゃんとお別れも言えなかった。
でも、みんなの姿を見たら──きっと、帰れなくなってしまった。
海を渡る風が、少し冷たい。
あぁ、こちらの世界はいま冬なのだと、思い当たる。
ギルターが、ツムギの肩をそっと抱き寄せる。
それからは、きらきらした光の中で、本当にどうでもいい話を、二人でたくさんした。
ミルゥが甲羅の端に立って、器用に海に向かって用を足すのを見て、二人で笑い転げた。
楽しかった。
──たぶん、いままでで、一番。
✳︎✳︎✳︎
ワタリガメが村の入江に入った。
「……じゃあな、ミルゥ。俺の奥さんをよろしく頼むぞ」
「くぅーん」
ギルターはツムギをそっとミルゥの上に降ろす。
「……これも持って行ってくれ」
「なぁに?」
ギルターが小綺麗な箱を手渡してくる。
ツムギが箱を開けると、やたら高価そうな盃や手鏡やらが入っている。
ツムギは首をかしげる。
「何これ?いらないよぉ」
ギルターは苦笑いする。
「昔の竜人が暇つぶしに作ったやつだから、適当に売り払ってくれよ。人間が生きてくには、カネが必要なんだろ?ゼータが言ってたから」
「そっか。ゼータが……」
ツムギは、ふたをそっと閉じて膝の上に抱える。
「“ツムギは綺麗な貝殻とか小石のほうが喜ぶぜ”って、俺はちゃんと言ったんだけどな!」
ギルターが明るく言う。
「……あたしのこと、よく知ってるねぇ」
ツムギは笑った。
「……服とこれも、もらっていい?」
胸元の祝珠を撫でる。
「……もちろんだ」
ギルターは祝珠に口付ける。
「神気を込め直した。ちょっとくらいなら、また海の中でも息できると思う。俺から離れると効果薄れちまうけど……」
「どうでもいいよ、それは」
ツムギは笑う。
「あなたの奥さんだった証が欲しかっただけ」
ギルターの顔がくしゃりと歪む。
「“だった”とか言わないでくれ。離れても、君はずっと──俺の花嫁だ」
「……」
一瞬、言葉が途切れる。
「俺は、そう思ってる。嫌かもしれないけど」
「嫌じゃないよ。……嬉しい」
ツムギは笑った。
「──それだったら、これから何があっても頑張れそう」
ギルターは、腕を伸ばすとミルゥの上のツムギを力いっぱい抱きしめる。
「……困ったことがあったら、必ず呼べ。いつだって一瞬で駆けつけるからな」
涙まじりの声はどこまでも優しかった。
ツムギはかすかに笑ってうなずく。
ギルターの腕がほどかれる。
「行こう。ミルゥ」
ミルゥを促して、ツムギは家の方へと歩き出す。
両親がどういう顔をするかは分かりきっていたし、村の人がどう思うかも分かっていた。
(でも……大丈夫。怖くないぞ)
自分に言い聞かせるように、ツムギは深呼吸する。
(あたしは、ギルターの花嫁。ゼータの家族。そして、三匹の素敵なチビたちの、お母さん)
そのたった一人の旦那さんが、去っていくツムギの背中をずっと見つめていているのが分かった。
それでもツムギは振り返らなかった。
胸の祝珠を一撫ですると、しゃんと背筋を伸ばして帰っていった。




