決意
ギルターの嗚咽が、まだ耳に残っていた。
ツムギは、ギルターが持っていた絵本を手に取る。
奥付に記されている年は、昭和五十年──
この本も、ギルターたちのお母さんが持ち込んだものだった。
二人のお母さんは、ただ流されてここに来たあたしと違って、ちゃんと準備して、この島に来た人だった。
ここで暮らし、みんなで幸せになるために。
役に立つものを抱えて。
──それでも、うまくいかなかったのだ。
事故で仕方なかったとはいえ、やるせなさが胸に沈む。
「……あたしは、何も出来なかった」
ツムギは自分に言い聞かせるようにつぶやく。
二人に守られるばかりで、ギルターの涙を止めることさえ出来なかった。
このままここにいたところで、子どもたちを守り、育てていけるのだろうか。
二人の足を引っ張るだけではないのか。
(──ダメ。不安になっちゃいけない……)
ツムギは胸の祝珠を握る。
(赤ちゃんに、悪い影響を与えちゃう)
けれど、そう思えば思うほど、ますます胸は締めつけられていった。
……竜人と人間は、あまりにも違うのだ。
生まれ方も、生き方も。
一緒にいようとすれば、どうしても無理が生まれる。
二人の喧嘩を思い出す。
あたしは、ここにいるだけで、大切なものを壊してしまう。
ゼータの言うことは正しい。
今までいつも正しかったように。
──帰った方がいい。
一緒にいない方がいい。
いつかまた、二人に起きたあの悲しい出来事を、繰り返してしまわないように。
そうなる前に。
ツムギは大きく息を吸い込んだ。
赤ちゃんが、無事に生まれたら。
それを見届けたら、村に帰ろう。
最初に言われていた通り、そうしよう。
ギルターたちと離れることを思うと、胸が激しく痛んだ。
それでもきっと、そのほうが全部うまくいく。
みんな幸せになれる。
それが、あたしに出来る唯一のことだ。
不安に怯えながらこのままここで暮らすよりも、遠くからみんなの幸せを願っているほうが、心穏やかでいられる。
あたしのためでもあるのだ。
ツムギは手すりを掴んで立ち上がる。
──伝えよう。
決心が鈍る前に、二人にちゃんと伝えよう。
残された時間を大切に過ごそう。
また前みたいに、みんなで仲良く笑って過ごしたい。
(……二人はどこにいるかな……)
ツムギはミルゥに乗って廊下へと出る。
いつも通り食堂の前まで来て、ツムギは、はっとする。
ドアは開いていたが、また──二人の争う声がしていた。
ツムギは中を覗き込む。
「──だから、ツムギにはちゃんと全部見せるべきなんだって!」
「それであの女に拒絶されて、兄上は耐えられるんですか?」
「ツムギは拒絶なんかしない!」
ギルターが叫んでいる。
「……もし、されたとしても。俺のことが嫌になったって言うなら、それは辛いけど仕方無い。──ツムギの気持ちは、ツムギの自由だ」
ツムギは息を呑む。
ツムギが自分の存在を知らせようと口を開きかけたとき──
「……では、言い方を変えます」
ゼータが、うっすらと笑っているのが見えた。
「あの女が私たちを拒絶したら──私は耐えられない」
「……ゼータ?」
ギルターが瞬く。
「私の料理を食べて微笑んだあの唇から、私たちを罵る言葉を聞いたら、私は耐えられない。その言葉を止めるために──また、殺すしかなくなります」
ツムギは息を呑む。
ツムギには、なぜかまたゼータが泣いているように見えた。
ギルターにもそう見えたのかもしれない。
ギルターの声も震えていた。
「……またってなんだよ。ずっとそんなふうに思ってたのか?!あれは事故だろ!」
「あの時はね。確かに事故だったかもしれません。でも今度は──今度こそは、確実に私の意思で殺すことになる」
ゼータが笑っている。
笑ってるのに、泣いてる。
「そうなってもいいんですか?あの女を失ってもお前は耐えられるんですか?」
ゼータの詰問に、ギルターが必死に首を振る。
「そんなことにはならない!ちゃんと俺が止める。兄ちゃんが止めてやる!」
「兄上には止められませんよ。兄上は子を成して、永遠の命を失った。──いまはもう、私の方が強い」
ゼータの体から風が巻き起こる。
いつの間にか、ゼータの目はツムギをひたと見つめていた。
ツムギがいるのに気づいていたのか。
ミルゥの上で、ツムギは思わず身を引く。
「試してみますか?──その女を守れるか」
「──?!ツムギ!」
ギルターもツムギの存在に気づく。
ゼータが左手を振り、その指から風が放たれる。
旋風がツムギを襲う。
「──っ!!」
「やめろゼータ!!──ミルゥ!!」
「くぅーん!!」
ミルゥが跳び、風を避ける。
ツムギは必死にしがみついたが、着地の衝撃で、ミルゥの背から崩れ落ちてしまう。
すかさず、ギルターが駆け寄ってツムギたちを背後にかばった。
「怪我ないか?!ツムギ、ミルゥ!!」
ギルターの体が青い稲妻を纏う。
「おいゼータ!何してんだ!」
(やめて……)
ツムギは床に足を投げ出したまま顔を覆う。
(喧嘩しないで……!)
ギルターとゼータはあんなに仲が良くて。
長い間たった二人で寄り添って、力を合わせて生きてきたのに。
ああ、やっぱり──
ここに、あたしがいるからだ。
また、同じことが起きてしまう。
「ツムギ!大丈夫だ!怖くないぞ!」
再び襲ってきた風を受け流し、あおられながら、ギルターが叫ぶ。
「ミルゥに乗って逃げれるか?!──ゼータ、やめろ!お前だって、ツムギのこと気に入ってただろ?!」
ゼータも笑ったまま声を張り上げる。
「だからこうしてるんですよ!」
「わかんねえよ!お前、頭いいのに!なんでそうなる?!」
「能天気でお人好しのお前には、わからないでしょうね!」
「お前な……っ!兄ちゃんがちょっとお仕置きしてやる!」
ギルターの体から青い光がほとばしる。
──やめて。
ツムギは首を振った。
(これ以上ここにいたら、二人はまた壊れてしまう)
「やめて!!」
ツムギは叫ぶ。
「──帰るから!」
二人の動きが止まって、ツムギを四つの碧が見つめる。
「あたし、帰るから……!」
「ツムギ?!そんな……!」
ギルターが、“信じられない”という顔で振り返る。
「怖い……怖いの。ごめんなさい……」
胸が限界まで張りつめていた。
耐えられない。
もう、耐えられない。
赤ちゃんが生まれてくるまで、きっともたない。
ギルターがひざまずいてツムギの肩をつかむ。
「ごめん……!怖がらせてごめん……!」
「違うの。ギルターは悪くない。ゼータも。……あたしが悪いの。ごめんなさい」
怖い。
二人が、あたしのせいで笑顔を失ってしまうことが。
赤ちゃんが、無事に生まれてこないかもしれないことが。
ちゃんと、育てられないかもしれないことが。
あたしのせいで、みんなの幸せを壊してしまうかもしれないことが──
こんなにも、怖い。
「あたし、こんなんじゃ……赤ちゃんに、悪い影響与えちゃうから。帰ります」
声が、震える。
「二人は、あたしに良くしてくれたのに……こんなことしか出来なくて、ごめんなさい……」
「ツムギ……」
ギルターの声も、手も、震えていた。
「大丈夫だ、ツムギ。俺たちの子だ。こんなことで、ダメになったりしない」
その震える手が、ツムギの髪をそっと撫でる。
「帰るなんて言わないでくれ。俺に悪いところがあるなら、全部直す」
ツムギは、首を横に振る。
「あなたは、何も悪くない。本当に……最高の、旦那さんだよ」
「じゃあ、なんで帰るなんて言うんだ!」
ギルターが叫ぶ。
「一緒にいてくれ……!何でもする。お願いだ……」
ツムギはもう一度首を振り、顔を両手で覆った。
風を収めたゼータが静かに言う。
「ワタリガメの用意をします。明朝でいいですか」
「……はい。お願いします」
ツムギがうなずくと、ギルターが悲鳴のような声を上げる。
「ダメだ……!ツムギ、いやだ……!」
「兄上」
ゼータが静かに遮る。
「その女のためですよ」
「……ツムギの?」
ギルターの動きが止まる。
「彼女には、彼女の人生があります。私たちに、私たちの生活と使命があるように」
「……ツムギには、ツムギの……」
ギルターは呆然と繰り返す。
「彼女は私たちに充分、与えてくれたでしょう。……これ以上、奪う気ですか」
「奪うって……!俺は、そんなつもりじゃ……」
ギルターはうつむいた。
「そうなのか……?俺は、君から奪ってたのか……?」
端正な顔が、たちまち涙で崩れる。
「ツムギがいてくれて、ほんとに幸せで。浮かれてて……。君は子どもまで産んでくれたのに。俺ばっかりもらって、俺は君に、何もあげられなかった」
ギルターは泣きながら、笑う。
「フラれて当然だ。嫌われて当然だ……」
「違う。違うよ、ギルター」
ツムギは必死に首を横に振る。
ギルターに、たくさんもらったから。
だからあたしは、あそこに帰れる。
ギルターのことが、大好きだから。
──帰るの。
「ごめん……君が大好きだ。好きになって、ごめん」
お願いだから、謝らないで。
悪いのは、全部、あたしだから。
あたしのせいで、悲しい顔をしないで。
涙が、止まらなかった。
ゼータがミルゥを促し、静かに部屋を出ていくのが見えた。
ツムギとギルターは、床に座り込んだまま、いつまでも子どものように泣きじゃくっていた。
「ツムギ……ごめん。ごめんな……」
やがて泣き疲れて、意識が遠のいていく。
ごめん、ギルター。
ごめん。
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夢の中。
天国のように美しい島に、大きな竜が二匹と、小さな竜が三匹。
仲良く幸せに暮らしている。
ミルゥに、カガリ……
モチウミ、ナギウモたちもいる。
真っ青な海に囲まれた、誰にも邪魔できない、この世の楽園。
──そこに、あたしはいない。
いないほうが、いい。




