罪と傷
部屋に戻ると、ギルターがいつものように寝室を整え始めた。
手際よく毛布を直し、カーテンを閉める後ろ姿を見ながら、ツムギはしばらく言葉を探していた。
「あのさ……」
思い切って声をかける。
「ギルターも、竜の姿になれるんだよね?」
「え?」
ギルターの手が止まった。
「ゼータが教えてくれたの」
短く告げると、ギルターは目を伏せ、静かにうなずいた。
「……そうか」
しばしの沈黙。
「それとね。ゼータが──お母さんを、殺したんだって」
「あのバカ……!」
ギルターが低く唸る。
「違う。あれは……ただの事故だ」
ツムギは静かにうなずいた。
「そう言ってたよね。あたしも、ゼータはそんなことしないと思う」
出会ってから、まだ三ヶ月くらいだけれど。
それでもわかる。
あの人は──優しい。
言い方とかは冷たくても、誰かを本気で傷つけたりしない。
「……ツムギには、ちゃんと全部話しておくべきだな」
ギルターはベッドに腰かける。
ミルゥの背をひと撫ですると、ミルゥは空気を察したように部屋の外へ出ていった。
「俺が……四歳のときの話だ」
低い声で、ギルターは語り始める。
✳︎✳︎✳︎
父はとても強い竜人だった。
ギルターはそれが誇らしくて、尊敬していた。
人間の母は優しくて、美しかった。
ギルターは、二人のことが大好きだった。
ギルターが四歳になった年、弟が生まれることになった。
ギルターと同じ卵にいたもう一匹は、この世界に出てくることなく海へ還っていた。
だから今度こそ──弟が、遊び相手ができる。
それがうれしくて仕方なかった。
“始まりの海”。
青い卵の中で、三匹の小さな竜が、ゆっくりと泳いでいる。
光が満ちて、揺れていて、この世で一番きれいな光景だと思った。
“人間の母親に卵を見せてはいけない”。
掟は知っていた。
けれど──。
最近、母はあまり笑わなくなっていた。
(これを見せたら、きっと母さんも笑顔になる)
ギルターは母の手を引いて、“始まりの海”へ向かった。
扉の鍵を開け、聖域へ足を踏み入れる。
卵の中の弟たちは、母の姿を見つけると、嬉しそうに身をくねらせた。
きゅう、きゅう、と甘えるような声をあげる。
その声がたまらなく愛おしかった。
ギルターは微笑んで母を見上げる。
──母の顔が、歪んでいた。
「……母さん?」
見たことのない表情だった。
次の瞬間。
母は、叫んだ。
耳を裂くような悲鳴を上げ、弟たちを、そしてギルターを、“化け物”だと罵った。
父が、母の前で一度も竜の姿にならなかった理由。
“卵を見せてはいけない”掟の意味。
それをそのとき初めて知った。
母はギルターを突き飛ばした。
小さな体は耐えきれず、床に転がる。
光がばちりと弾けた。
母の胸元で祝珠が鈍く輝き、強い波動を放つ。
それに共鳴して、卵が、崩れ落ちるように割れた。
衝撃で母も床へと倒れ込む。
弟たちの悲鳴が聖域に鳴り響く。
未成熟なまま外へと引きずり出され、三匹のうち、二匹はすぐに動かなくなった。
「──来ないで!!」
最後の一匹が、必死に倒れた母のもとへ這い寄る。
母はそれを再び突き飛ばした。
よろめいた銀色の小さな竜──ゼータが叫ぶ。
制御できない神気がほとばしり、“始まりの海”に激しい風の渦が生まれた。
細い母の体が、竜巻に巻き上げられる。
「母さん!」
ギルターが柱にしがみつきながら伸ばした手が、掴まれることはなかった。
母は、木の葉のように舞い、あっという間に、壁へ叩きつけられた。
「母さん!!」
嵐が止んだとき、そこには母と、二匹の弟の亡骸があった。
ギルターはただただ呆然としていた。
そこへ、父が駆けつけた。
父は、床に倒れた母と、動かなくなった二匹の弟を見た。
言い訳か、許しを乞う言葉か。
ギルターが口を開きかけた次の瞬間、父が吠えた。
人の姿が歪み、巨大な竜の本性が露わになる。
怒りと悲嘆の炎が、雄叫びと共に、最後に残った弟へ向かって放たれようとする。
「やめろ!」
考える前に、体が動いた。
ギルターも竜の姿へ変わり、弟の前に立つ。
青い稲妻が体を走り、床を震わせる。
「どうして」と、叫んだことは覚えている。
どうしてこんなことになったんだ。
父の炎と、ギルターの衝撃波がぶつかる。
光が弾け、視界が白く塗り潰された。
思わず目を閉じる。
──次に目を開けたとき。
父は、母に折り重なるように倒れていた。
動かない。
ギルターは、しばらくそれを見つめていた。
ゆっくりと、胸の奥が冷えていく。
……自分が、殺したのだ。
呆然と辺りを見回す。
“始まりの海”は、もはや聖域の姿を失っていた。
炎が走り、壁は崩れ、光は濁っている。
どうして、こんなことに──
そう思いかけて、ギルターは唇を噛んだ。
違う。
……どうして、じゃない。
──俺のせいだ。
全部、俺の。
生き残った最後の弟は、炎の中で、母の亡骸を見つめていた。
小さな体が、今にもほどけて消えてしまいそうだった。
(やめてくれ)
声にならない叫びが、胸を裂く。
(行くな。頼む)
お前にまでいなくなられたら、俺は、本当に壊れてしまう。
「……大丈夫だ」
ギルターは人の姿に戻り、震える手で弟を抱きしめた。
「兄ちゃんがいる。怖くないぞ……」
ゼータは何も言わなかった。
ただ、小さく息をしていた。
やがて、モチウミたちが集まってきて、炎を消し止めていく。
ギルターはゼータを促して外へ向かう。
冷たくなった母を“始まりの海”の外へ運び出した。
ここには── 自分たちのそばにはいたくないだろうと思った。
ナギウモたちに、せめて体を故郷へと届けるように頼む。
それから、“始まりの海”へ戻り、崩れたところを神気で修復した。
父と弟たちの亡骸は、すでに消えていた。
海から生まれた竜人の体は、ほどけてまた海へ還る。
父から、そう教えられていた。
それからしばらくは、ただ弟の世話をして生きていた。
ゼータがいなければ、本当に立ち上がれなかったと思う。
弟は、驚くほど早く人の姿へと成長した。
真珠宮にある本をすべて読み解き、神気に刻まれた教えと掟を吸収し、あっという間にギルターよりも賢く頼もしくなった。
気づけば、キッチンに立ち、料理まで作っていた。
少しずつ、ギルターにも笑顔が戻った。
それでも──
心に刻まれた傷が、消えることはなかった。
✳︎✳︎✳︎
「俺はただ……母さんに笑顔になってほしかっただけなんだ。それなのに……」
語り終えたギルターの頬を涙が伝う。
「母さんは、何度も“こんなはずじゃなかった”って叫んでた。“幸せになるはずだったのに”って」
「うん……」
「そうだ。母さんは、父さんと弟たちと幸せになるはずだったのに。それを俺が壊した」
ツムギは震えるギルターを抱きしめる。
「ギルターは悪くないよ。もちろん、ゼータも。お母さんも、お父さんも。誰も悪くない」
ギルターは首を横に振る。
「違う。俺が余計なことをしなければ、みんな生きてた。幸せになれた」
ツムギは、腕に力をこめる。
「違うよ。ただの悲しい事故だった。あなたのせいじゃない」
「ごめんな、ツムギ」
ギルターが縋るようにツムギの腕をつかむ。
「君を連れてくる前に、話すべきだった。……勇気がなかったんだ」
「……謝る必要なんてないんだよ。ギルター」
ツムギは唇を噛みしめる。
この優しい、ひどく傷ついた人に、どうしたら“罪じゃない”と伝わるのか。
伝えられるのか。
ギルターは、しばらく嗚咽していた。
「ツムギ」
やがて、涙をぬぐって言う。
「……君が花嫁になってくれた。それだけで、生きてきてよかったって思えた。俺だけ幸せで、ほんと申し訳ないけど……」
「……あたしも幸せだよ。ギルター」
ツムギは、ギルターにそっと口付ける。
「生き延びて……あたしに会ってくれて、ありがとう」
ギルターは再び肩を震わせ始めた。
ツムギはそれを抱きしめながら、ぼんやり思う。
あたしは、何も出来ない。
この愛しい人の、涙を止めることすら。




