兄弟喧嘩
それから、数日が経った。
ミルゥに乗っておやつをもらいに行こうとしたツムギは、食堂の扉の前で、ふっと足を止めた。
中から、ギルターとゼータの声が聞こえてくる。
それだけなら、珍しくもない。
けれど──今日は、少し違った。
二人の声が、どこか尖っている。
ツムギはミルゥに向かって、そっと唇に指を当てた。
ミルゥは察したように身動きひとつせず、ツムギは耳を澄ます。
「──大丈夫だ。ツムギなら、大丈夫だよ」
「……何を根拠に言っているんですか」
「ツムギは、俺が選んだ花嫁だからだ」
「それは根拠とは言いません。兄上は昔から、そうやって適当なことを──」
その瞬間。
ツムギの脳裏に、言い争う両親の声が、嫌な鮮明さでよみがえった。
どくん、と心臓が不自然に跳ねる。
──だめ。
ストレスを感じちゃ、だめ。
扉を開けて、いつもみたいに笑って、
「何のお話をしてるの?」って聞けばいい。
頭ではちゃんと分かっている。
でも、体が言うことを聞かなかった。
「……取り込み中みたいだから、また後でにしよう」
ツムギは小声でミルゥにそう言って、踵を返した。
部屋へ戻る途中も、背中の奥で、言い合う声が追いかけてくる気がして。
ツムギはベッドに潜り込み、毛布を頭までかぶった。
夕食の時間には、二人ともいつも通りだった。
けれど──
このところ、ゼータの視線が、前よりも自分に向いている気がする。
気のせいだと思っていた。
そう思おうとしていた。
……でも、違ったのかもしれない。
やっぱり、あたしが迷惑をかけてるんだ。
二人の言い争いも、あたしが原因みたいだった。
ゼータは、あたしがここに残ると決めたことを、よく思っていないのかもしれない。
気分は、ずしりと重い。
喉の渇きを覚えて、ツムギは食堂へ向かった。
(……あれ?)
食堂に入った瞬間、ツムギは目を丸くする。
珍しい。
ゼータが、テーブルに伏せるようにして動かない。
……眠っている?
竜人は、あまり眠らないと聞いていたけれど。
疲れているのだろうか。
ツムギは足音を殺してキッチンへ入り、そっと蛇口をひねる。
水を飲み、戻ると──
ゼータは起きてしまっていた。
ぼんやりとした青い目で、じっとツムギを見つめている。
(……ゼータでも、寝ぼけることあるんだ)
一瞬、その瞳が濡れているように見えた。
でも、きっと寝起きのせいだ。
ツムギが向かいに腰かけると、ゼータは唐突に言った。
「──もう、帰ったらどうですか」
「……え?」
あまりにも突然で、言葉の意味が追いつかない。
固まるツムギに、ゼータは淡々と続ける。
「卵は、すでに生み落とされました。お前がここで出来ることは、もう何もない」
「……でも、あたし──」
「そんなに卵が不安なら、いっそ帰ったほうがいいでしょう」
ツムギは言葉に詰まる。
あたしは、ここにいたい。
ギルターと──ゼータたちと、一緒に。
「お前は、もう邪魔なんです」
その一言で、ツムギはうつむいた。
……それは、否定できなかった。
卵の世話も出来ない。
役に立つことなんて、何ひとつない。
自分を世話をする立場のゼータにそう言われてしまえば、ツムギには返す言葉がない。
「帰りなさい。それとも──」
ゼータは、少し間を置いた。
まるで、天気の話でもするような口調で。
「──前の花嫁のように、私に殺されたいんですか?」
「……え?」
ツムギの思考が、完全に止まる。
……殺されたい?
前の花嫁……って、それは。
「……ゼータの、お母さん……?」
「そうですよ」
「お母さんみたいに……殺され、って……?」
動揺するツムギを見て、ゼータは小さく笑った。
「母は、本当の私たちを見たとき、泣き叫んであまりにうるさかったので。静かにさせました」
「……本当の、姿……?」
「黙っていれば美しかったのに……」
ゼータは「残念だ」と言うように頭を振る。
ツムギは理解が追いつかない。
ゼータの周囲で、冷たい空気がざわりと渦を巻いた。
「“竜人は人間とほとんど同じ”などという兄の戯言を、本気で信じているんですか?」
「……違うの?」
震える声で問い返す。
海の中で呼吸ができること。
卵で生まれること、オスしかいないこと。
夜に眠らず、使命をこなすこと。
それ以外は、人間と同じだと──
ギルターは言っていた。
ゼータは、嘲るように口角を上げる。
「どうせ、兄は見せていないんでしょう。私たちの本当の姿──竜としての姿を」
「……竜、として……?」
「醜く、恐ろしい竜。それが私たちの本性です」
ツムギは絶句していた。
ゼータは歌うように続ける。
「当然、いま卵の中で育っている三つの命も、その姿ですよ」
「……え」
「人間の、愛らしい赤ん坊を想像していましたか?」
ツムギは、何も言えなかった。
勝手にそうだと思っていた。
自分が産んだのだから、人間の赤ちゃんと同じだと。
竜──。
あたしが産んだのが、竜。
「……竜って、あの、どんな……?」
混乱の中、それでも口を開いてしまう。
「見てみたい……!」
ゼータは静かに首を振った。
「いま見せてやってもいいですが。お前が錯乱したら困ります」
「……」
「卵に、影響が出ますから」
ツムギは言葉を失った。
確かに、普通ではいられない。
それは、自分が一番よく知っている。
ゼータが、ゆっくりとテーブルを回り込んでくる。
「兄に、良い思い出を与えてくれたことには感謝しています」
長い指が、ツムギの顎をとらえ、顔を上げさせる。
……こんなときなのに。
綺麗な指だなぁ、と思ってしまった。
いつもあたしたちのために料理を作ってくれる、優しい手。
「だからこれは、お前のためを思って言っているんですよ」
「あたしの、ため……」
ツムギは眉を寄せる。
「その愛らしい顔が、恐怖で歪むのは、見ていられませんから」
ゼータの声は、どこまでも穏やかだった。
「それとも、いっそ何も感じる間もなく一瞬で──」
「──何してる!!」
「くぅーん!」
怒号が空気を裂いた。
はっとして振り向くと、食堂の入り口にギルターとミルゥが立っていた。
ゼータは舌打ちをしてツムギから手を離す。
ミルゥ。
さっきまで一緒にいたのに、いつの間に……。
ギルターを呼びに行ってくれたんだ。
ギルターが駆け寄ってくる。
ゼータの手を乱暴に払いのけ、ツムギを腕の中に引き寄せた。
「大丈夫だ、怖くないぞ!」
「……ギルター……」
声が、うまく出ない。
息が浅く、胸が苦しい。
心臓が、耳の奥で暴れている。
「俺がいる」
そう言われた瞬間、ようやく酸素が肺に入った気がした。
ギルターはツムギを抱いたまま、鋭く振り返る。
「何したんだ?!何を言った?!」
「……別に。何もしていませんよ。ただの世間話です」
「お前が世間話なんてするわけないだろ!」
ゼータは肩をすくめる。
「それも、そうですね」
「お前な──」
「ギルター!」
ツムギは、必死に声を絞り出した。
ギルターが振り向く。
ツムギは、震える首で小さくうなずく。
「大丈夫だよ。……喧嘩、しないで」
「ツムギ、ダメだ。弟でも、君を傷つけるやつは──」
「違うの!」
ツムギは首を振る。
「ゼータは……悪くないの。あたしが、ちょっと、調子に乗ってただけ」
「……」
「ゼータは、あたしのためを思って注意してくれただけなの」
その言葉に、ギルターは戸惑ったような顔になる。
ツムギとゼータを見比べる。
「……本当か?」
「うん」
「……嘘、ついてないか?」
「うん!」
少し強めに答える。
「……そっか」
ギルターは頭をかいた。
「……悪かった、ゼータ」
「……別に。私も、少し口調がキツかったかもしれません」
ギルターが苦笑する。
「それはいつもだろ。少しじゃねぇ」
「……」
ゼータがじろりと睨む。
そのやり取りを聞いた瞬間、ツムギはようやく息を吐いた。
……いつもの二人だ。
張り詰めていた糸が少し緩む。
「くぅーん」
ミルゥが足元に寄ってくる。
「心配してくれたの?ありがとうね、ミルゥ」
ツムギはミルゥを抱きしめる。
その背を、ギルターの大きな手が包むように撫でた。
「さぁ、部屋に戻って寝よう。疲れただろ」
「……うん」
「ツンツンゼータには、兄ちゃんが女の子への口の聞き方を教えておくからな」
「ほわぁ……ゼータまでキザになっちゃったらどうしよう……」
「なりません」
即答だった。
空気が、いつもの色に戻る。
ツムギは扉をくぐりながら、振り返った。
ゼータと目が合う。
その青い目は、もう濡れてはいない。
冷静で、いつも通りのゼータのはずなのに。
──なぜだろう。
ツムギには、彼が今にも泣き出しそうに見えた。




