海中婚礼
ツムギは息を呑んだ。
そこは、幾本もの柱に支えられた、ドーム状の空間だった。
空気がひんやりと澄んでいて、白く滑らかな床と柱は、静まり返っている。
──けれど。
ギルターが、一歩、足を踏み出した瞬間。
足元に淡い光が生まれた。
真珠色の光がさざ波のように床を走り、柱へ、壁へと広がっていく。
光は線になり、脈になり、やがて空間そのものを撫でるように巡った。
空間の中央には、縁石に縁取られた円形の海があった。
その真上はガラス張りになっていて、満月の光がまっすぐに差し込んでいる。
海は光を受け、ゆっくりと──呼吸するように揺れていた。
「ここが“始まりの海”……」
ツムギは胸の鼓動を抑えるように、そっと呟く。
「ああ。──その昔、天の神が、人と海を守るために竜人を遣わした。その最初の竜人が、生まれた場所だ」
ギルターの声は、ほんのわずかに震えていた。
緊張しているのは、自分だけじゃない。
そう思うと、ツムギの胸が少し軽くなる。
「……神様は、竜人をオスしか生まれないようにした。人と力を合わせて生きるため、人間の花嫁を迎えろってな」
「……なるほどねぇ」
ギルターの腕に、ぎゅっと力がこもる。
いつもより少し高くて、優しい体温。
「おかげで、こんな綺麗な花嫁さんに来てもらえた。俺は幸せ者だぜ」
ギルターは片目をつむってみせる。
その仕草も、いつもと違い、どこかぎこちない。
月が、天頂へ近づく。
ギルターがツムギを抱えたまま海の縁に立つ。
水面は鏡のように、完全に静まり返っていた。
ツムギは腕の中からそれを覗き込む。
月光だけが差し込み、青白い道が水の奥へ続いているように見える。
「……ここに入るの?」
「そうだ。儀式は、この海の中で行う」
ツムギがうなずくと、ギルターは水へと、ゆっくり一歩踏み出した。
水音はしなかった。
まるで海そのものが二人を迎え入れるみたいに、すう……と、やわらかく身体が沈んでいく。
一瞬、緊張と不安に、ツムギの肩が揺れる。
ギルターの手が、ぎゅっと包み込んだ。
「大丈夫だ。怖くないぞ」
「……うん」
「俺がいるし、祝珠が息を守ってくれる」
全身が海に沈む。
ギルターはツムギの腰から手を離し、代わりに両手に指を絡めた。
祝珠が淡く脈動し、次の瞬間、肺に水ではない何かが満ちていく。
二度目なので、慌てなかった。
ツムギはゆっくりと呼吸をする。
(……大丈夫か)
声は、水を通さず、直接胸に届いた。
(うん)
ギルターの青い瞳を見つめる。
海の中で、それはさらに深く、静かに揺らめいていた。
二人は両手を繋いだまま、ゆっくりと沈んでいく。
衣がふわりと広がる。
裾の鉱石が重りとなり、めくれ上がることはない。
長い帯だけが、ゆらゆらと水に揺れていた。
外界の音が、すべて消える。
残ったのは、二人分の鼓動だけ。
水越しに、静かに、重なり合って響く。
青い光の粒が舞う、どこまでも透明な世界。
まるで、二人だけが世界から切り離されたみたいだった。
祝珠の光が、水に滲むように広がっていく。
やがて、深い場所で下降が止まった。
(始めるぞ、ツムギ)
(……はい)
ギルターの心の声には、はっきりとした緊張が滲んでいる。
ツムギの心臓も、うるさいくらいに早鐘を打っていた。
ギルターが、祝珠を通じて語りかけてくる。
(……キス、していいか?)
ツムギは、その瞳を見つめ返す。
深海の光が、静かに揺れている。
ツムギの胸の奥が、すっと静まった。
(……うん)
ギルターの周りの水が、嬉しそうに震えた。
ゆっくりと、顔が近づいてくる。
ツムギは、そっと目を閉じた。
水の中で、唇が重なった。
水は冷たい。
それなのに、唇が触れ合った場所だけが、やけに熱い。
祝珠がまぶしく光り、二人の胸の奥に、同じ震えが走った。
(ツムギ……)
ギルターの想いが、祝珠を通して流れ込んでくる。
やがて唇が離れ、ツムギはそっと目を開けた。
ギルターの身体から、青白い光が滲み出している。
(神気……?)
そう思った瞬間。
ひどく熱い塊が、祝珠を通じて、ツムギの中へ一気に流れ込んできた。
(……ッ!)
思わず息を止め、ギルターの手を握る指に力が入る。
心の中で叫んだ。
(あっ……な、なにか……入ってきてる……!)
(大丈夫だ……!力、抜いて)
ギルターが額を当ててくる。
眉は何かを耐えるようにきつく寄せられ、呼吸が早い。
(俺の神気が……君に、流れ込んでる)
震える声が、直接胸に響いた。
ツムギは必死に息をする。
ギルターの神気はとても熱い。
けれど、痛みは一切なくて、ツムギの胸の奥へ、じんわりと広がっていく。
祝珠が急速に熱を帯び、光が脈打ち始めた。
ツムギの身体も熱くなり、呼吸が早まる。
ギルターが、自分も苦しそうにしながら顔を覗き込んでくる。
(痛くねぇか?苦しくねぇか?)
(ううん……あったかい……)
(……なら、よかった)
ギルターが、ツムギの腰を強く抱く。
もう片方の手も、ぎゅっと握りしめられる。
ギルターの身体が、かすかに震えた。
そして──
一際熱い奔流が、祝珠からツムギの中へ流れ込んだ。
(あ……っ!)
ギルターが陶然と息を吐く。
まとっていた光が、ふっと消えた。
神気がすべて流れ終わったらしい。
けれど、ツムギの身体は、いよいよ熱くなる。
(……なんか、変……)
体の奥がざわざわする。
もどかしい熱に、ツムギは身をよじった。
そのとき。
祝珠が、胸の内側から強く鼓動を打った。
(あぁっ……!!)
そして──
祝珠から、光が三粒、こぼれ落ちた。
青と白が溶け合った、ほんの小さな魂の核。
ツムギは肩で息をしながらそれを見つめる。
三つの光は海に触れた瞬間、水の色を変えながら膨らみ、一つの殻をまとい始めた。
やがて光は、ひとつの透明な──卵になる。
(……生まれた……!)
ギルターの震えるような感動が、祝珠を通して伝わってくる。
ツムギは、まだぼんやりする視界でその美しい塊を見た。
卵は水中で頼りなく浮かんでいる。
ギルターがツムギの手を離し、腰を支える。
(ツムギ。卵を手に取ってやってくれ)
(あ、あたしが……触っていいのぉ……?)
ツムギは、震える手を伸ばし、卵を包むように、そっと掴んだ。
──温かい。
両手でそれを抱き、ツムギは息を吐く。
(これが……卵……)
(ああ。俺たちの卵だ)
ギルターがツムギを強く抱き寄せる。
(すごく綺麗……)
(ありがとう。ありがとう、ツムギ)
卵は、二人の間で静かに光を放っていた。
ギルターが体を離し、心配そうに顔を覗き込んでくる。
(儀式はこれで終わりだ。大丈夫か?)
(うん……)
ツムギは輝く卵を見つめながら力なくうなずく。
(外に上がろう)
ギルターの身体が、もう一度、青白く光る。
ツムギは卵を抱えたまま、ギルターに導かれてゆっくりと上がっていった。
「ふぅ……」
海面から顔を出す。
怠くて、あまり体に力が入らない。
卵を落とさないよう、そっと抱え直す。
「卵、水から出して平気?」
「ああ、海に浮かべてやってくれ」
「う、浮かべるの?」
「そうだ。そっと……海面に」
ツムギは卵を握っていた手を恐る恐る離す。
卵は、ぷかりと水面に浮かんだ。
海面が揺れ、波が生まれ、まるで台座のように卵を支える。
「……ほわぁ……」
ギルターがツムギを海から出して縁石に座らせる。
透明な縁石が、きらりと光を放った。
ギルターもその隣に腰かけた。
ツムギは、卵をまじまじと見つめた。
月の光に照らされ、海の真ん中で、きらきらと輝いている。
ひたすら透明で、ひたすら美しい。
──あたしの、赤ちゃん。
自然と、目に涙が浮かんでくる。
「……チビちゃん……」
ツムギは、そっと卵に語りかける。
「中にいるの?聞こえてる?」
「ああ……きっと、聞こえてる」
ギルターがツムギの肩を抱いた。
「三つ、光があるよねぇ」
「あぁ。三匹、生まれるぞ」
見上げると、ギルターの目にも涙が滲んでいる。
ツムギはギルターの肩に頭を乗せる。
「一つの卵に仲良く入ってるんだねぇ。これなら、生まれるまで寂しくないね」
「そうだな」
それからしばらく、二人はただ静かに卵を眺めていた。
やがてツムギはふと思いついて尋ねる。
「これからどうすればいいの?孵るまであっためる……んじゃないよね?」
「ああ」
ギルターは優しくツムギの頭を撫でる。
「卵は、このまま“始まりの海”に浮かべておけばいい。勝手にデカくなる」
「デカくなるのぉ?」
ツムギは目を見張る。
ギルターはうなずいた。
「中のチビどもが大きくなるにつれて、海水を取り込んで、卵も大きくなるんだ」
「へえ……!すごい……!」
ツムギは紅潮した顔で、目を輝かせる。
ギルターは笑い、ふと真顔になって、ツムギの額に自分の額を当てた。
「……少し、熱あるな」
「そうかもぉ。なんか、火照ってる」
ツムギは手で顔を仰ぐ。
「俺の神気が入ったせいだ。ごめんな」
「大丈夫だよぉ。ちょっと興奮してるだけ」
ギルターがゆっくりと立ち上がる。
「部屋に戻ろうな」
「うん……」
ツムギは名残惜しそうに卵へ目をやった。
その気持ちを感じ取ったのか、ギルターが安心させるように言う。
「卵なら安全だぜ。この海は結界で守られてる。ナギウモが子守もしてくれるしな」
「そうなんだぁ……」
ちょうどそのとき、“ぽぉぉ……”と、柔らかな声が響き、ナギウモが海面から頭を出した。
「ナギウモちゃん!よろしくねぇ」
ツムギが手を振ると、ナギウモが卵の下をゆっくりと回り始める。
ツムギは、もう一度だけ輝く卵を見つめた。
「またね……チビちゃんたち」
ギルターに抱きかかえられ、“始まりの海”を後にする。
通路の途中の小部屋では、モチウミたちが待っていた。
髪を解き、身体についた海水を洗い流してもらう。
扉を開けて外へ出た。
がちゃり。
と、背後で鍵が閉まる音がする。
廊下には、ゼータとミルゥが並んで待っていた。
「くぅーん」
ミルゥがホッとしたように足元に顔を寄せてきた。
ゼータはいつかのように、山のようなタオルを抱えている。
「無事に済んだようで、何よりです」
「おう」
ギルターは照れくさそうに、軽く手を上げた。
ツムギがミルゥを撫でていると、ゼータがタオルを差し出してくる。
「ご苦労でした」
「あ……ありがとう」
ツムギはぺこりと頭を下げる。
ギルターが神気で服を乾かし、そのまま髪を拭いてくれる。
ツムギは大きく息を吐いた。
……よかった。
ちゃんと、できた。
無事に、卵を生むことができた。
ようやく実感が胸に落ちてくる。
……でも。
ツムギは少しうつむいた。
卵が生まれた。
ということは──
卵が無事に孵ったら、村に帰らなくてはならない。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がずしりと重くなる。
「さ、部屋に戻るぞ」
「うん……」
ミルゥに揺られながら、心の中では、喜びと寂しさが絡まり合っていた。
「ふぅ……」
寝室に着き、ベッドに乗せられる。
ツムギはまた大きく息を吐いた。
そのまま倒れ込もうとして、思い止まる。
「おっと、これを脱がないとねぇ」
衣装を着替えようとしても、ギルターは部屋を出ていこうとしなかった。
ツムギは首をかしげる。
「ギルター?自分で出来るよぉ?」
「うん……。あのさ、今夜は、君が眠るまで隣にいてもいいか?」
「えっ……?」
ツムギは、ぱちりと瞬く。
「いいけど……」
「ぷぅーん」
ベッドに乗ろうとしていたミルゥが、「やれやれ」と言いたげに部屋を出ていく。
「ミ、ミルゥ……。気を使わせてごめん……」
ツムギは少し頰を赤らめる。
空いたスペースに、ギルターがゆっくり腰を下ろした。
大きな手が、そっとツムギの髪を撫でる。
ツムギはその手に頭を預けた。
ふと、ギルターの動きが止まり、ツムギを見つめてくる。
「……ツムギに、お願いがある」
「なぁに?珍しい」
ツムギはもう一度瞬いた。
「一生のお願いだ」
「えぇ?なにそれぇ」
あまりに真剣な様子に、ツムギは逆にくすっと笑ってしまう。
ギルターは笑わなかった。
真剣そのものの表情で、ゆっくりと息を吸い、口を開く。
「俺は君と、残りの生涯を共に過ごしたい」
「えっ……」
ツムギは息を呑む。
「──卵が孵ったあとも、ずっとここで一緒に暮らしてくれないか」
ギルターの青い瞳が自分をまっすぐ見つめている。
ツムギは言葉が出てこない。
やがて、震える声でかろうじてつぶやく。
「……いいの?」
「……ああ」
「あたし、ずっとここにいても……」
「もちろんだ」
ギルターは迷いなくうなずいた。
ツムギの目に涙が盛り上がり、叫ぶように答える。
「いたい……!あたしも、ずっと一緒にいたい……!」
その返事に、ギルターも泣き笑いのような顔になる。
「ありがとう……!」
腕が伸びてきて、ツムギの体を思い切り抱きしめる。
「俺、いま……きっと、世界でいちばん幸せだ」
「えぇ……」
ギルターが震える声でつぶやく。
「愛してる、ツムギ。君のことが大好きだ……」
「……知ってるよぉ」
ツムギは、ふわりと笑う。
「あたしも……あなたのことが好き」
ギルターの唇が、そっと降りてくる。
──あたしも、世界でいちばん幸せ。
ツムギは、目を閉じながら、心の中でそう呟いた。
一瞬、村に残してきた妹の顔がよぎる。
(……イオリ)
胸の奥でそっと詫びる。
(……ごめんね。あたしは、この人と一緒にいたい)
ツムギはギルターの胸に顔を埋めた。




