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ニライカナイの花嫁  作者: 望月冴子
第3章:満ちていく気持ちと月

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海中婚礼

 ツムギは息を呑んだ。


 そこは、幾本もの柱に支えられた、ドーム状の空間だった。


 空気がひんやりと澄んでいて、白く滑らかな床と柱は、静まり返っている。


 ──けれど。


 ギルターが、一歩、足を踏み出した瞬間。

 足元に淡い光が生まれた。


 真珠色の光がさざ波のように床を走り、柱へ、壁へと広がっていく。


 光は線になり、脈になり、やがて空間そのものを撫でるように巡った。


 空間の中央には、縁石に縁取られた円形の海があった。


 その真上はガラス張りになっていて、満月の光がまっすぐに差し込んでいる。


 海は光を受け、ゆっくりと──呼吸するように揺れていた。


「ここが“始まりの海”……」


 ツムギは胸の鼓動を抑えるように、そっと呟く。


「ああ。──その昔、天の神が、人と海を守るために竜人を遣わした。その最初の竜人が、生まれた場所だ」


 ギルターの声は、ほんのわずかに震えていた。


 緊張しているのは、自分だけじゃない。

 そう思うと、ツムギの胸が少し軽くなる。


「……神様は、竜人をオスしか生まれないようにした。人と力を合わせて生きるため、人間の花嫁を迎えろってな」

「……なるほどねぇ」


 ギルターの腕に、ぎゅっと力がこもる。

 いつもより少し高くて、優しい体温。


「おかげで、こんな綺麗な花嫁さんに来てもらえた。俺は幸せ者だぜ」


 ギルターは片目をつむってみせる。

 その仕草も、いつもと違い、どこかぎこちない。


 月が、天頂へ近づく。


 ギルターがツムギを抱えたまま海の縁に立つ。

 水面は鏡のように、完全に静まり返っていた。


 ツムギは腕の中からそれを覗き込む。

 月光だけが差し込み、青白い道が水の奥へ続いているように見える。


「……ここに入るの?」

「そうだ。儀式は、この海の中で行う」


 ツムギがうなずくと、ギルターは水へと、ゆっくり一歩踏み出した。


 水音はしなかった。


 まるで海そのものが二人を迎え入れるみたいに、すう……と、やわらかく身体が沈んでいく。


 一瞬、緊張と不安に、ツムギの肩が揺れる。

 ギルターの手が、ぎゅっと包み込んだ。


「大丈夫だ。怖くないぞ」

「……うん」

「俺がいるし、祝珠が息を守ってくれる」


 全身が海に沈む。


 ギルターはツムギの腰から手を離し、代わりに両手に指を絡めた。


 祝珠が淡く脈動し、次の瞬間、肺に水ではない何かが満ちていく。


 二度目なので、慌てなかった。

 ツムギはゆっくりと呼吸をする。


(……大丈夫か)


 声は、水を通さず、直接胸に届いた。


(うん)


 ギルターの青い瞳を見つめる。

 海の中で、それはさらに深く、静かに揺らめいていた。


 二人は両手を繋いだまま、ゆっくりと沈んでいく。


 衣がふわりと広がる。

 裾の鉱石が重りとなり、めくれ上がることはない。

 長い帯だけが、ゆらゆらと水に揺れていた。


 外界の音が、すべて消える。


 残ったのは、二人分の鼓動だけ。

 水越しに、静かに、重なり合って響く。


 青い光の粒が舞う、どこまでも透明な世界。

 まるで、二人だけが世界から切り離されたみたいだった。


 祝珠の光が、水に滲むように広がっていく。


 やがて、深い場所で下降が止まった。


(始めるぞ、ツムギ)

(……はい)


 ギルターの心の声には、はっきりとした緊張が滲んでいる。

 ツムギの心臓も、うるさいくらいに早鐘を打っていた。


 ギルターが、祝珠を通じて語りかけてくる。


(……キス、していいか?)


 ツムギは、その瞳を見つめ返す。

 深海の光が、静かに揺れている。


 ツムギの胸の奥が、すっと静まった。


(……うん)


 ギルターの周りの水が、嬉しそうに震えた。


 ゆっくりと、顔が近づいてくる。

 ツムギは、そっと目を閉じた。


 水の中で、唇が重なった。


 水は冷たい。

 それなのに、唇が触れ合った場所だけが、やけに熱い。


 祝珠がまぶしく光り、二人の胸の奥に、同じ震えが走った。


(ツムギ……)


 ギルターの想いが、祝珠を通して流れ込んでくる。


 やがて唇が離れ、ツムギはそっと目を開けた。


 ギルターの身体から、青白い光が滲み出している。


(神気……?)


 そう思った瞬間。


 ひどく熱い塊が、祝珠を通じて、ツムギの中へ一気に流れ込んできた。


(……ッ!)


 思わず息を止め、ギルターの手を握る指に力が入る。

 心の中で叫んだ。


(あっ……な、なにか……入ってきてる……!)

(大丈夫だ……!力、抜いて)


 ギルターが額を当ててくる。

 眉は何かを耐えるようにきつく寄せられ、呼吸が早い。


(俺の神気が……君に、流れ込んでる)


 震える声が、直接胸に響いた。


 ツムギは必死に息をする。


 ギルターの神気はとても熱い。

 けれど、痛みは一切なくて、ツムギの胸の奥へ、じんわりと広がっていく。


 祝珠が急速に熱を帯び、光が脈打ち始めた。

 ツムギの身体も熱くなり、呼吸が早まる。

 ギルターが、自分も苦しそうにしながら顔を覗き込んでくる。


(痛くねぇか?苦しくねぇか?)

(ううん……あったかい……)

(……なら、よかった)


 ギルターが、ツムギの腰を強く抱く。

 もう片方の手も、ぎゅっと握りしめられる。


 ギルターの身体が、かすかに震えた。


 そして──


 一際熱い奔流が、祝珠からツムギの中へ流れ込んだ。


(あ……っ!)


 ギルターが陶然と息を吐く。

 まとっていた光が、ふっと消えた。


 神気がすべて流れ終わったらしい。


 けれど、ツムギの身体は、いよいよ熱くなる。


(……なんか、変……)


 体の奥がざわざわする。

 もどかしい熱に、ツムギは身をよじった。


 そのとき。


 祝珠が、胸の内側から強く鼓動を打った。


(あぁっ……!!)


 そして──


 祝珠から、光が三粒、こぼれ落ちた。


 青と白が溶け合った、ほんの小さな魂の核。


 ツムギは肩で息をしながらそれを見つめる。


 三つの光は海に触れた瞬間、水の色を変えながら膨らみ、一つの殻をまとい始めた。


 やがて光は、ひとつの透明な──卵になる。


(……生まれた……!)


 ギルターの震えるような感動が、祝珠を通して伝わってくる。


 ツムギは、まだぼんやりする視界でその美しい塊を見た。

 卵は水中で頼りなく浮かんでいる。


 ギルターがツムギの手を離し、腰を支える。


(ツムギ。卵を手に取ってやってくれ)

(あ、あたしが……触っていいのぉ……?)


 ツムギは、震える手を伸ばし、卵を包むように、そっと掴んだ。


 ──温かい。


 両手でそれを抱き、ツムギは息を吐く。


(これが……卵……)

(ああ。俺たちの卵だ)


 ギルターがツムギを強く抱き寄せる。


(すごく綺麗……)

(ありがとう。ありがとう、ツムギ)


 卵は、二人の間で静かに光を放っていた。

 

 ギルターが体を離し、心配そうに顔を覗き込んでくる。


(儀式はこれで終わりだ。大丈夫か?)

(うん……)


 ツムギは輝く卵を見つめながら力なくうなずく。


(外に上がろう)


 ギルターの身体が、もう一度、青白く光る。

 ツムギは卵を抱えたまま、ギルターに導かれてゆっくりと上がっていった。


「ふぅ……」


 海面から顔を出す。

 怠くて、あまり体に力が入らない。

 卵を落とさないよう、そっと抱え直す。


「卵、水から出して平気?」

「ああ、海に浮かべてやってくれ」

「う、浮かべるの?」

「そうだ。そっと……海面に」


 ツムギは卵を握っていた手を恐る恐る離す。


 卵は、ぷかりと水面に浮かんだ。


 海面が揺れ、波が生まれ、まるで台座のように卵を支える。


「……ほわぁ……」


 ギルターがツムギを海から出して縁石に座らせる。

 透明な縁石が、きらりと光を放った。


 ギルターもその隣に腰かけた。


 ツムギは、卵をまじまじと見つめた。


 月の光に照らされ、海の真ん中で、きらきらと輝いている。


 ひたすら透明で、ひたすら美しい。


 ──あたしの、赤ちゃん。


 自然と、目に涙が浮かんでくる。


「……チビちゃん……」


 ツムギは、そっと卵に語りかける。


「中にいるの?聞こえてる?」

「ああ……きっと、聞こえてる」


 ギルターがツムギの肩を抱いた。


「三つ、光があるよねぇ」

「あぁ。三匹、生まれるぞ」


 見上げると、ギルターの目にも涙が滲んでいる。

 ツムギはギルターの肩に頭を乗せる。


「一つの卵に仲良く入ってるんだねぇ。これなら、生まれるまで寂しくないね」

「そうだな」


 それからしばらく、二人はただ静かに卵を眺めていた。


 やがてツムギはふと思いついて尋ねる。


「これからどうすればいいの?孵るまであっためる……んじゃないよね?」

「ああ」


 ギルターは優しくツムギの頭を撫でる。


「卵は、このまま“始まりの海”に浮かべておけばいい。勝手にデカくなる」

「デカくなるのぉ?」


 ツムギは目を見張る。

 ギルターはうなずいた。


「中のチビどもが大きくなるにつれて、海水を取り込んで、卵も大きくなるんだ」

「へえ……!すごい……!」


 ツムギは紅潮した顔で、目を輝かせる。


 ギルターは笑い、ふと真顔になって、ツムギの額に自分の額を当てた。


「……少し、熱あるな」

「そうかもぉ。なんか、火照ってる」


 ツムギは手で顔を仰ぐ。


「俺の神気が入ったせいだ。ごめんな」

「大丈夫だよぉ。ちょっと興奮してるだけ」


 ギルターがゆっくりと立ち上がる。


「部屋に戻ろうな」

「うん……」


 ツムギは名残惜しそうに卵へ目をやった。


 その気持ちを感じ取ったのか、ギルターが安心させるように言う。


「卵なら安全だぜ。この海は結界で守られてる。ナギウモが子守もしてくれるしな」

「そうなんだぁ……」


 ちょうどそのとき、“ぽぉぉ……”と、柔らかな声が響き、ナギウモが海面から頭を出した。


「ナギウモちゃん!よろしくねぇ」


 ツムギが手を振ると、ナギウモが卵の下をゆっくりと回り始める。


 ツムギは、もう一度だけ輝く卵を見つめた。


「またね……チビちゃんたち」


 ギルターに抱きかかえられ、“始まりの海”を後にする。


 通路の途中の小部屋では、モチウミたちが待っていた。

 髪を解き、身体についた海水を洗い流してもらう。


 扉を開けて外へ出た。

 がちゃり。

 と、背後で鍵が閉まる音がする。


 廊下には、ゼータとミルゥが並んで待っていた。


「くぅーん」


 ミルゥがホッとしたように足元に顔を寄せてきた。

 ゼータはいつかのように、山のようなタオルを抱えている。


「無事に済んだようで、何よりです」

「おう」


 ギルターは照れくさそうに、軽く手を上げた。


 ツムギがミルゥを撫でていると、ゼータがタオルを差し出してくる。


「ご苦労でした」

「あ……ありがとう」


 ツムギはぺこりと頭を下げる。


 ギルターが神気で服を乾かし、そのまま髪を拭いてくれる。


 ツムギは大きく息を吐いた。


 ……よかった。


 ちゃんと、できた。

 無事に、卵を生むことができた。


 ようやく実感が胸に落ちてくる。


 ……でも。


 ツムギは少しうつむいた。

 

 卵が生まれた。

 ということは──


 卵が無事に孵ったら、村に帰らなくてはならない。


 その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がずしりと重くなる。


「さ、部屋に戻るぞ」

「うん……」


 ミルゥに揺られながら、心の中では、喜びと寂しさが絡まり合っていた。


「ふぅ……」


 寝室に着き、ベッドに乗せられる。

 ツムギはまた大きく息を吐いた。

 そのまま倒れ込もうとして、思い止まる。


「おっと、これを脱がないとねぇ」


 衣装を着替えようとしても、ギルターは部屋を出ていこうとしなかった。

 ツムギは首をかしげる。


「ギルター?自分で出来るよぉ?」

「うん……。あのさ、今夜は、君が眠るまで隣にいてもいいか?」

「えっ……?」


 ツムギは、ぱちりと瞬く。


「いいけど……」

「ぷぅーん」


 ベッドに乗ろうとしていたミルゥが、「やれやれ」と言いたげに部屋を出ていく。


「ミ、ミルゥ……。気を使わせてごめん……」


 ツムギは少し頰を赤らめる。

 空いたスペースに、ギルターがゆっくり腰を下ろした。


 大きな手が、そっとツムギの髪を撫でる。

 ツムギはその手に頭を預けた。

 ふと、ギルターの動きが止まり、ツムギを見つめてくる。


「……ツムギに、お願いがある」

「なぁに?珍しい」


 ツムギはもう一度瞬いた。


「一生のお願いだ」

「えぇ?なにそれぇ」


 あまりに真剣な様子に、ツムギは逆にくすっと笑ってしまう。


 ギルターは笑わなかった。

 真剣そのものの表情で、ゆっくりと息を吸い、口を開く。


「俺は君と、残りの生涯を共に過ごしたい」

「えっ……」


 ツムギは息を呑む。


「──卵が孵ったあとも、ずっとここで一緒に暮らしてくれないか」


 ギルターの青い瞳が自分をまっすぐ見つめている。


 ツムギは言葉が出てこない。

 やがて、震える声でかろうじてつぶやく。


「……いいの?」

「……ああ」

「あたし、ずっとここにいても……」

「もちろんだ」


 ギルターは迷いなくうなずいた。


 ツムギの目に涙が盛り上がり、叫ぶように答える。


「いたい……!あたしも、ずっと一緒にいたい……!」


 その返事に、ギルターも泣き笑いのような顔になる。


「ありがとう……!」


 腕が伸びてきて、ツムギの体を思い切り抱きしめる。


「俺、いま……きっと、世界でいちばん幸せだ」

「えぇ……」


 ギルターが震える声でつぶやく。


「愛してる、ツムギ。君のことが大好きだ……」

「……知ってるよぉ」


 ツムギは、ふわりと笑う。


「あたしも……あなたのことが好き」


 ギルターの唇が、そっと降りてくる。


 ──あたしも、世界でいちばん幸せ。


 ツムギは、目を閉じながら、心の中でそう呟いた。


 一瞬、村に残してきた妹の顔がよぎる。


(……イオリ)


 胸の奥でそっと詫びる。


(……ごめんね。あたしは、この人と一緒にいたい)


 ツムギはギルターの胸に顔を埋めた。

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