満月
そして、満月の夜が訪れた。
真珠宮の空気は、いつもとは明らかに違っていた。
月の光に触れた壁が、呼吸をするように淡く明滅している。
白い曲面は、静かな鼓動を内側に宿しているみたいだった。
ツムギは寝台に腰を下ろしたまま、何度目とも知れない深呼吸を繰り返していた。
「ドキドキするよぉ。どうしよう、ミルゥ……」
「くぅーん」
心を落ち着かせたくて、ベッドの上のミルゥの背を撫でる。
柔らかな毛並みの感触が、かえって現実感を連れてきた。
胸元の祝珠が、とくん、とくんと、いつもより強い拍動を刻んでいる。
今日のツムギは、真珠色の着物を纏っていた。
絹のように薄く、軽い。
それでいて、不思議と心許なさはない。
布は身体の線に沿って静かに落ち着き、長い袖は細く仕立てられ、腕の動きを妨げない。
金糸が星屑のように散り、裾から袖へと波の紋様が流れている。
裾には、透明な小さな鉱石が縫い込まれ、わずかな動きで光を返した。
──聖域である海の中に、人間の花嫁が入るための衣装。
竜人の神気によって編まれたものだ。
胸元には祝珠がある。
衣の上からでも、まるで素肌に触れているかのように、ひんやりとした感触が伝わってくる。
ツムギはそっと自分の姿を見下ろした。
(……大丈夫かなぁ)
ふと、妹の姿が脳裏をよぎる。
イオリなら、きっともっと堂々としていただろう。
写真でしか見ることのできなかった、あの花嫁姿。
世界で一番、美しかったに違いない。
(比べちゃだめだよねぇ……)
そのとき。
扉がノックされ、ツムギはびくりと肩を跳ねさせた。
「は、はぁい!」
返事が裏返る。
顔を出したのはゼータだった。
「なんだ……ゼータかぁ」
「準備はできましたか?」
ゼータは遠慮なくツムギを眺める。
その視線に、ツムギは無意識に背筋を伸ばした。
「ど、どうかな?ギルター、気に入ると思う?」
「兄は、お前がどんな姿でも気に入ります」
「それはそれで複雑なんだけどぉ……」
ツムギは苦笑する。
「仕上げをしましょう」
ゼータの手が伸びてくる。
帯を結び直し、髪に海藻のような飾りを差し込まれた。
ふわりと海の香りが漂い、真珠の粒のような光が首元に映る。
細かな調整を重ねる指先は、驚くほど丁寧だった。
ツムギは照れくさくなって、されるがままになる。
「痛くないですか」
「うん……大丈夫」
「重さは」
「平気」
最後に帯を整え、ゼータは一歩下がって頷いた。
「いいでしょう」
「えへへ。ありがとう」
「いつものお転婆は控えるように」
「はぁい」
「這うのも禁止です」
「わかってるってばぁ」
ゼータは小さく息を吐き、静かに告げる。
「満月の光が真珠宮の中心に落ちるまで、あと少しです。まもなく兄が迎えに来ます」
ツムギの心臓が跳ね上がった。
「……ど、どうしよう!心の準備が……!」
脳裏に浮かぶのは、あの優しい声と、穏やかな笑顔。
──あたしの、旦那さんになる人。
そのとき。
足音が近づいてきた。
ツムギは息を呑む。
足音は扉の前で止まる。
……けれど、ノックはない。
ゼータが小さくため息をつき、勢いよく扉を開いた。
「おわっ!」
焦ったギルターの声が響く。
「ゼータ!まだ心の準備が――」
ツムギは思わず、首を伸ばして覗き込んだ。
月光の中に立つギルターは、いつもよりもずっと美しかった。
無造作な黒髪は後ろに流され、紐でまとめられている。
漆黒の着物には紺色の紋様が刻まれ、光を受けるたび、鱗のような鈍い艶を浮かべた。
海のような瞳が、深く、静かに揺れている。
「ギルター、すごい!綺麗!!」
ツムギの歓声に、固まっていたギルターが慌てて口を開く。
「い、いや!ツムギのほうが、ずっと……!女神さまみたいだ……」
ツムギは一気に顔が熱くなり、視線を落とす。
「大げさだよぉ……」
「大げさじゃねぇって。俺、どうしたらいいか……」
「私も。綺麗すぎて、怖いくらい……」
二人とも、耳まで赤い。
ゼータが咳払いした。
「時間です」
「あっ……お、おう」
ギルターは背筋を伸ばし、深く息を吸ってから、ツムギに手を差し出した。
大きくて、熱くて、わずかに震える手。
「行こう。ツムギ」
「……うん」
そっと抱き上げられ、ミルゥの背に乗せられる。
ツムギはゆっくりと手を伸ばし、ギルターの指先に触れた。
ゼータに見送られ、ツムギはギルターと手を繋いで白い廊下を進む。
足音が吸い込まれるように消えていく。
「あ、カガリ……」
青白く光る霊鳥が、柱の陰にとまっている。
ツムギが小さく手を振ると、カガリは頭をわずかに揺らした。
ハヤシガニや、ウスラギたちの姿もある。
誰も鳴かず、動かず、ただ静かに──
二人を祝福するかのように、その行く先を見送っていた。
ツムギは彼らにうなずいて見せる。
(ありがとう。頑張るよぉ)
宮殿の奥から、淡く揺れる光が溢れ出している。
光を漏らす扉の前で、ギルターが立ち止まる。
静かに手をかざすと──
がたり、と低い音を立てて、鍵が外れた。
「ミルゥも、ここまでだ」
ギルターがそう言って、ツムギを抱き上げる。
「くぅーん」
「待っててね」
心配そうなミルゥに、小さく手を振る。
次の瞬間。
重い音を立てて、扉が開いた。
──水の音。
潮の匂い。
ひんやりとした気配が、肌を撫でる。
二人は、真珠宮の中心──
“始まりの海”の間へと、足を踏み入れた。




