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ニライカナイの花嫁  作者: 望月冴子
第3章:満ちていく気持ちと月

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満月


 そして、満月の夜が訪れた。


 真珠宮の空気は、いつもとは明らかに違っていた。


 月の光に触れた壁が、呼吸をするように淡く明滅している。

 白い曲面は、静かな鼓動を内側に宿しているみたいだった。


 ツムギは寝台に腰を下ろしたまま、何度目とも知れない深呼吸を繰り返していた。


「ドキドキするよぉ。どうしよう、ミルゥ……」

「くぅーん」


 心を落ち着かせたくて、ベッドの上のミルゥの背を撫でる。

 柔らかな毛並みの感触が、かえって現実感を連れてきた。


 胸元の祝珠が、とくん、とくんと、いつもより強い拍動を刻んでいる。


 今日のツムギは、真珠色の着物を纏っていた。


 絹のように薄く、軽い。

 それでいて、不思議と心許なさはない。


 布は身体の線に沿って静かに落ち着き、長い袖は細く仕立てられ、腕の動きを妨げない。


 金糸が星屑のように散り、裾から袖へと波の紋様が流れている。

 裾には、透明な小さな鉱石が縫い込まれ、わずかな動きで光を返した。


 ──聖域である海の中に、人間の花嫁が入るための衣装。

 竜人の神気によって編まれたものだ。


 胸元には祝珠がある。

 衣の上からでも、まるで素肌に触れているかのように、ひんやりとした感触が伝わってくる。


 ツムギはそっと自分の姿を見下ろした。


(……大丈夫かなぁ)


 ふと、妹の姿が脳裏をよぎる。


 イオリなら、きっともっと堂々としていただろう。

 写真でしか見ることのできなかった、あの花嫁姿。


 世界で一番、美しかったに違いない。


(比べちゃだめだよねぇ……)


 そのとき。


 扉がノックされ、ツムギはびくりと肩を跳ねさせた。


「は、はぁい!」


 返事が裏返る。

 顔を出したのはゼータだった。


「なんだ……ゼータかぁ」

「準備はできましたか?」


 ゼータは遠慮なくツムギを眺める。

 その視線に、ツムギは無意識に背筋を伸ばした。


「ど、どうかな?ギルター、気に入ると思う?」

「兄は、お前がどんな姿でも気に入ります」

「それはそれで複雑なんだけどぉ……」


 ツムギは苦笑する。


「仕上げをしましょう」


 ゼータの手が伸びてくる。

 帯を結び直し、髪に海藻のような飾りを差し込まれた。

 ふわりと海の香りが漂い、真珠の粒のような光が首元に映る。


 細かな調整を重ねる指先は、驚くほど丁寧だった。

 ツムギは照れくさくなって、されるがままになる。


「痛くないですか」

「うん……大丈夫」

「重さは」

「平気」


 最後に帯を整え、ゼータは一歩下がって頷いた。


「いいでしょう」

「えへへ。ありがとう」

「いつものお転婆は控えるように」

「はぁい」

「這うのも禁止です」

「わかってるってばぁ」


 ゼータは小さく息を吐き、静かに告げる。


「満月の光が真珠宮の中心に落ちるまで、あと少しです。まもなく兄が迎えに来ます」


 ツムギの心臓が跳ね上がった。


「……ど、どうしよう!心の準備が……!」


 脳裏に浮かぶのは、あの優しい声と、穏やかな笑顔。


 ──あたしの、旦那さんになる人。


 そのとき。

 足音が近づいてきた。

 ツムギは息を呑む。


 足音は扉の前で止まる。


 ……けれど、ノックはない。


 ゼータが小さくため息をつき、勢いよく扉を開いた。


「おわっ!」


 焦ったギルターの声が響く。


「ゼータ!まだ心の準備が――」

 

 ツムギは思わず、首を伸ばして覗き込んだ。


 月光の中に立つギルターは、いつもよりもずっと美しかった。


 無造作な黒髪は後ろに流され、紐でまとめられている。

 漆黒の着物には紺色の紋様が刻まれ、光を受けるたび、鱗のような鈍い艶を浮かべた。


 海のような瞳が、深く、静かに揺れている。


「ギルター、すごい!綺麗!!」


 ツムギの歓声に、固まっていたギルターが慌てて口を開く。


「い、いや!ツムギのほうが、ずっと……!女神さまみたいだ……」


 ツムギは一気に顔が熱くなり、視線を落とす。


「大げさだよぉ……」

「大げさじゃねぇって。俺、どうしたらいいか……」

「私も。綺麗すぎて、怖いくらい……」


 二人とも、耳まで赤い。


 ゼータが咳払いした。


「時間です」

「あっ……お、おう」


 ギルターは背筋を伸ばし、深く息を吸ってから、ツムギに手を差し出した。


 大きくて、熱くて、わずかに震える手。


「行こう。ツムギ」

「……うん」


 そっと抱き上げられ、ミルゥの背に乗せられる。

 ツムギはゆっくりと手を伸ばし、ギルターの指先に触れた。


 ゼータに見送られ、ツムギはギルターと手を繋いで白い廊下を進む。


 足音が吸い込まれるように消えていく。


「あ、カガリ……」


 青白く光る霊鳥が、柱の陰にとまっている。

 ツムギが小さく手を振ると、カガリは頭をわずかに揺らした。


 ハヤシガニや、ウスラギたちの姿もある。


 誰も鳴かず、動かず、ただ静かに──

 二人を祝福するかのように、その行く先を見送っていた。


 ツムギは彼らにうなずいて見せる。


(ありがとう。頑張るよぉ)


 宮殿の奥から、淡く揺れる光が溢れ出している。


 光を漏らす扉の前で、ギルターが立ち止まる。

 静かに手をかざすと──


 がたり、と低い音を立てて、鍵が外れた。


「ミルゥも、ここまでだ」


 ギルターがそう言って、ツムギを抱き上げる。


「くぅーん」

「待っててね」


 心配そうなミルゥに、小さく手を振る。


 次の瞬間。


 重い音を立てて、扉が開いた。


 ──水の音。

 潮の匂い。


 ひんやりとした気配が、肌を撫でる。


 二人は、真珠宮の中心──


 “始まりの海”の間へと、足を踏み入れた。

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