ふたりきりの海
まぶしいほどの青空の下、ツムギはワタリガメの背中で風を浴びていた。
「ツムギの全快祝いだ!」
ギルターが張り切った声で言う。
その子どもみたいな笑顔に、ツムギもつられて微笑む。
今日は、ミルゥも珍しくお留守番だ。
本当にギルターとツムギだけの、二人きりのデートだった。
服もいつもとは違い、二人とも水着姿だ。
ギルターは上半身をさらしている。
逞しい胸元に視線が吸い寄せられそうになって── ツムギは慌てて顔をそらした。
ツムギが選んだのは、露出の控えめな白いセパレートの水着だった。
髪もまとめて編み込んである。
緑色のパレオが足の傷を隠すように、ヒラヒラとまとわりついていた。
「俺の人魚姫……!」
ギルターが顔を覆ってうめきながら転げ回る。
ツムギは真っ赤になった。
やがてワタリガメは、いつも暮らしているネディラ島のすぐ隣の島に上陸した。
数十分で一回り出来そうな、小さな島だ。
ギルターに抱き上げられると、いつもと違って素肌同士が触れ合う。
……ドキドキした。
抱き上げる腕越しに、ギルターの鼓動まで伝わってくる。
目が合うと、ギルターがはにかんだように笑いかけてきた。
ギルターはいったんツムギを浜辺に降ろし、大きなお弁当箱や荷物を抱えて運ぶ。
ツムギはワタリガメに手を振った。
ワタリガメは甲羅を揺らし、ゆっくりと波の間に姿を消す。
それから、ツムギはギルターに抱えられて、島の縁をなぞるように散歩した。
「ほわぁ、いまの何?」
「こっちにもいるぞ」
白い砂の上をちょろちょろと走る小さな生き物。
木陰から顔を出して、すぐに隠れてしまう影。
ネディラ島では見かけない生き物たちに、ツムギは目を輝かせて身を乗り出す。
ギルターは歩調をゆるめ、ツムギが見やすいように体を傾けてくれた。
ひと通り島を歩き終えるころには、自然とお腹が空いてきた。
浜辺の木陰に戻ってくる。
「よっしゃ、お待ちかねの弁当タイムだぜ」
弁当箱を冷やしながら守っていた透明なヘビ──ウスラギが、シュルシュルと音を立てる。
ギルターが包みを解き、箱の蓋を開ける。
「ほわぁ!」
ツムギは歓声を上げた。
何段にも重なった弁当箱の中には、きっちり仕切られたサンドイッチと唐揚げ。
デザートには色とりどりの果物。
さすがはゼータ。
完璧すぎる仕事だ。
ギルターが、ウスラギの前にたまごサンドと唐揚げを置いてやる。
ウスラギは、つるんとそれを飲み込んだ。
透明な体の中を、たまごサンドが通っていく。
「いただきまぁす」
それを眺めながら、ツムギもプチトマトのような赤い野菜を口に入れる。
噛み潰すと、甘酸っぱい。
「いつもと違う場所だと、より美味しく感じるねぇ」
「本当にな!」
リスみたいに口を膨らませながら、ギルターがうなずく。
ギルターがたくさん食べるせいで、お弁当箱はミカン箱くらいの大きさだった。
ご丁寧に、具材の説明がびっしり書かれた紙まで入っている。
それを読みながら、ツムギはサンドイッチを頬張る。
挟まれたレタスがシャキシャキと音を立てる。
「ゼータとミルゥも、いま頃、二人でご飯食べてるのかな?」
「きっとな」
唐揚げを口に放り込みながら、ギルターが相槌を打つ。
「あの二人、どんなおしゃべりをするんだろねぇ」
「そりゃ、“ツムギがいなくて寂しいな”だろ」
「えー?もう、テキトー言ってぇ」
可愛らしくカットされた果物も楽しんで、満腹になる。
弁当箱は綺麗に空になった。
「──ごちそうさまでしたぁ」
ギルターが水筒の冷たいお茶を注ぎ足してくれる。
それを飲んでいると、ふと、大きな生き物がゆっくりと前を横切っていった。
「ほわっ!トカゲ!!」
ツムギは声を上げた。
「──あ、いや、イグアナ?」
鮮やかな緑色のイグアナだ。
かなり大きくて、尻尾まで入れるとツムギの身長くらいのサイズがある。
ギルターはうなずく。
「怖くないぞ。大人しいやつだ。オオノボリって言うんだ」
「オオノボリくんかぁ!近づいても平気かな。びっくりしちゃうかな」
「どうだろうな」
「えへへ、行っちゃお」
ツムギはかさかさと這ってイグアナに近づく。
「あっ、おい?!」
ギルターが驚いた声をあげる。
──しまった。
ギルターの前で這うのは初めてだったかもしれない。
ツムギはおそるおそるギルターの顔を見上げる。
「びっくりしたぜ。人間も這ったりするんだな」
ギルターが明るく笑っているのを見て、 ツムギは胸に詰めていた息を吐き出した。
「んーとぉ、這うのと這わないのがいるかなぁ」
「そうなのか」
ウソは言っていない。うん。
「人間にもいろいろいるんだな」
ギルターはうなずいている。
ツムギは再び安堵の息を吐いて、オオノボリに近づく。
「お邪魔しまぁす」
オオノボリの隣にゆっくりと寝そべった。
オオノボリはチラッと横目でツムギを見たが、すぐまた目を閉じる。
日光浴をしているらしかった。
日にきらめく鱗がまぶしい。
「綺麗……」
「俺もお邪魔しまーす」
ギルターが笑って、ツムギの隣に寝そべる。
空は、どこまでも青い。
両隣には、素敵な生き物たちがいる。
「幸せだなぁ……」
ツムギはつぶやく。
「なら、よかった」
ギルターが優しくツムギを見つめる。
しばらくするとオオノボリは、のっそりと歩いてジャングルの中へと帰っていった。
ツムギが起き上がってその後ろ姿を見送っていると──
ギルターが、こほんと咳をした。
ツムギはギルターを見る。
「……実はツムギに、プレゼントがある」
そう言って、ギルターはポケットから何かを取り出す。
首飾りだった。
紐の先端に括られているのは、大粒の真珠のような貝だ。
白と青が混ざり合い、内部で光がゆっくり渦を巻いている。
ツムギは息を呑んだ。
「祝珠って言うんだ」
一拍置いて、ギルターは続ける。
「竜人が、生涯ただひとりの伴侶に渡すもんなんだぜ」
──伴侶。
その響きに、ツムギの胸の奥が軽く震えた。
「人間の婚約指輪みたいなもんだな。──ほんとは満月の夜に渡すんだけど、待ちきれないから、もうやる」
ツムギは言葉が見つからない。
押し黙っていると、ギルターが腕を伸ばし、首飾りをそっと首にかけてくれる。
祝珠が胸元でひんやりと光る。
ツムギはそっと表面を撫でた。
「綺麗……」
「綺麗なだけじゃないぜ。それを付けてると、人間でも海の中で息ができるんだ」
「えっ?」
ツムギは驚いて目を見張る。
「何それ!魔法?」
「魔法じゃなくて、神気な」
ギルターは片目をつぶる。
「あ、そっか。竜人さまの神気……」
「うん。ふかいふかーい海の底にいる特別な貝に、俺の神気を込めてあるんだ」
「すごいねぇ!」
ツムギは目を輝かせて、祝珠を光に透かせる。
うっとりとそれを見つめていると、ギルターが顔を覗き込んでくる。
「な、海に入ってみようぜ」
「うん!入りたい……!」
ツムギはすぐさまうなずいた。
「よっしゃ」
ギルターが立ち上がって、ツムギを抱き上げる。
沖で飛び跳ねて遊んでいたナギウモたちが寄って来る。
ツムギはさすがにドキドキしていた。
海に潜るのは、本当に久しぶりだ。
しかも、海の中でも息が出来るって、一体どんな感じなんだろう。
「怖くないぞ。俺がいる」
ツムギはうなずく。
ギルターの腰あたりの深さまでやって来たところで、ギルターが言う。
「さぁ、潜るぞ」
ツムギはそっと海の中に降ろされる。
そのまま手を優しく引かれて、足を伸ばして顔を海につける。
海水が触れた瞬間——
祝珠が淡い青を放ち、ツムギの視界がすっと澄み渡った。
そして、次の瞬間。
ギルターの声が耳じゃなく、心に届いた。
(……聞こえるか、ツムギ?)
ツムギは目を見開く。
(ギルター……?)
(そうだ。これも祝珠の力だぜ。海の中で、心が近くなる)
(テレパシーなの?すごい!)
ツムギは口を開きかけたが、声は水に飲まれる。
けれど祝珠がそれを拾ってギルターに届ける。
ツムギは辺りをゆっくりと見回す。
見渡す限りの青。
その中を、ナギウモたちが周りを泳いでいる。
(ほんとに海の中だぁ……)
久しく離れていた海の中の光景に、ツムギの胸が感動に震えた。
足を怪我して泳げなくなって、もう写真やビデオでしか見ることはないと思っていた。
隣でギルターが微笑んでいる気配がする。
(怖くないか?)
(大丈夫だよぉ。ギルターがいるから)
ツムギが答えると、ギルターの心も少し震えた。
その震えが水の中を伝ってツムギに流れ込む。
照れも、嬉しさも、全部。
(じゃあ、もっと深くまで一緒に行こう)
ギルターに手を引かれ、ツムギはゆっくり深い方へ導かれていく。
祝珠の光が胸元で淡く揺れる。
海の中なのに、本当に息苦しさがまったくなかった。
二人は真っ青な海の中を沖へと進んでいく。
やがて、海の奥の方から、うっすらと淡い青と桃色が浮かび上がってきた。
ギルターが少しだけ笑みを含ませて心で囁く。
(ここが、ツムギに一番見せたかった場所だ)
ツムギは息を呑んだ。
光るサンゴたちが、まるで夜空の星みたいにゆっくりと脈を打ちながら輝いていた。
青。
薄桃色。
そして、金砂のような光があった。
なかには緑に揺らめく枝もある。
それらが一面に広がり、ゆるやかな潮の流れで揺れている。
サンゴの間を小さな魚が通り抜けるたび、光が舞い散るように弾けた。
(すごい……!こんなの見たことない……!)
ツムギの心の声が響く。
ギルターが胸を張る。
(“潮の森”。竜人がずっと守ってきた場所なんだ)
ギルターの心の声は誇らしげで、でもどこか切なそうでもあった。
(昔はサンゴも、魚も、もっとたくさんいたんだけどな)
(減っちゃったの……?)
(ああ。でも、ツムギがこうして見てくれて、なんか救われる気がする)
ギルターの指がツムギの手を強く握り返す。
(君に見せたかったんだ。この海を)
ギルターの心の声は真っ直ぐにツムギに響いた。
ツムギは胸が熱くなった。
ナギウモたちが潮の森の上を軽やかに泳ぎ始めた。
光るサンゴの上で、ギルターとツムギの影が一緒に揺れる。
海がふたりを包み、祝福するように光が舞った。
ギルターとツムギは、しばらくそれを見つめていた。
やがて光る潮の森を抜け、ギルターはツムギの手を引きながらゆっくり水面へと浮かび上がった。
海上に出ると、南国の陽光がいっきに二人を包んだ。
ツムギは大きく息を吸い込む。
「あったか……」
「体冷えちまったか?大丈夫か?」
ギルターが顔を覗き込んでくる。
「大丈夫だよぉ」
「そろそろ上がろうな──掴まってろよ」
ツムギを肩に掴まらせて、ギルターは悠々と岸へと泳ぎ出す。
「ほわぁ……」
「ほら、こっち来い」
たちまち浅瀬にたどり着き、ツムギを抱き上げる。
濡れた体が密着し、肌に海風が触れる。
どちらともなく、息が揺れた。
ギルターの腕はしっかり温かかった。
海で心と心が触れあったばかりで、距離の近さがやけに意識にのしかかる。
ギルターの胸に頬が触れ、心臓の音がはっきりと聞こえた。
「テレパシーは、海の中でだけ?」
「うん」
残念なような、ホッとしたような気持ちになる。
ギルターはツムギをゆっくりと浜辺に下ろす。
それから神気で水着を乾かし、荷物からタオルを持ってきてくれた。
ツムギが体と髪を拭いていると、今度はお茶を差し出される。
さっき冷たかったお茶は、今は湯気を立てている。
きっと神気パワーだ。
「ヤケドしないようにな」
「ありがとう」
ゆっくり口をつけると、ぽかぽかしてきた。
ツムギは、ほうっと息を吐く。
そのあとは、二人で浜辺に寝そべりながら、どうでもいい話をしてのんびり過ごした。
気づけば太陽はだいぶ傾いて、オレンジ色になっている。
「そろそろ帰らなきゃだねぇ」
「そうだな」
ギルターが身を起こす。
帰り支度をするのかな、とツムギも起き上がった。
しかし、ギルターは座ったままツムギを見つめている。
ツムギは首をかしげる。
言葉を探すみたいに、一瞬、ギルターの視線が揺れる。
「……ツムギ」
「なぁに?」
ギルターは真剣な顔で、ゆっくりと言葉を口にした。
「……俺の花嫁になってくれるか?」
ツムギは目を見張り──少し吹き出す。
「……前にも返事したよぉ」
笑ったままで、でもしっかりうなずいた。
「──はい」
ツムギの返事に、ギルターは泣き出しそうに笑った。
「……ありがとう!」
「ほわっ」
ぎゅっと抱き寄せられて、また肌と肌が密着する。
ツムギはしっかりとその背に腕を回した。




