一人ぼっちの頃
ゼータの“レアチーズケーキチャレンジ”はそれからも続いていた。
最近は、「これも違う」と告げると、あからさまに舌打ちされるようになった。
それでも、ゼータのことを怖いとは思わなかった。
ぶっきらぼうで、言葉もキツいのに──ギルターの弟だからだろうか?
……いや、それよりも。
ツムギは自分のお腹を見下ろす。
「体重の増加が、怖いかもぉ!」
最近、頬も少しふっくらしてきた気がする。
元が痩せぎすだったとはいえ、さすがに気になった。
(でも、運動しようにも……歩けないしなぁ)
「ギルターも、おでぶなお嫁さんは嫌がるよねぇ……」
「ん?どした?」
「ほわぁ!」
急に上から現れた端正な顔に、飛び上がりそうになる。
「ぎ、ギルター!びっくりしたぁ」
独り言を聞かれていただろうか。
「ごめん、ごめん」
ギルターは明るく笑うと、すっとカッコつけた顔になる。
「お姫さま。驚かせてしまったお詫びに、お飲みものをどうぞ」
ウインクつきで、グラスをすっと差し出される。
グラスには、お花と、オレンジ色の綺麗な液体が入っていた。
「……キザすぎぃ」
「作ったのは、ゼータだけどな!」
「あはは。いただきまーす」
ツムギは笑って口をつける。
さわやかな甘さが喉を通っていった。
「美味しーい……」
「よっしゃ」
ツムギは冷たい液体を飲み干す。
しかし、ダイエットを考えていたばかりなのに、甘ーいジュースとは……。
余計に太っちゃいそう。
ギルターとゼータの二人がツムギを甘やかすのが悪いんだ。
そんな責任転嫁な考えが頭をよぎる。
「なぁ。さっき、何考えてたんだ?」
「えっ」
ギルターはツムギの考えなどつゆ知らず、隣に腰かけて歌うように問いかけてくる。
「えぇっと……運動したいなぁ、って」
ツムギは答える。
ウソは言っていない。
「……ん」
珍しく、ギルターが押し黙った。
何か変なことを言ってしまっただろうか。
それともやっぱりさっきの独り言を聞かれてた、とか?
ツムギが首をかしげていると、ギルターが口を開く。
「言いたくなければ、いいんだけどさ」
「なぁに?改まって」
「……足のこと、聞いてもいいか?」
「あぁ」
ツムギは自分の足を見下ろす。
「子どもの頃は、普通に歩いてた……んだろ?どうしたのかって思ってさ」
ギルターはあくまでも優しく、気遣いながら言う。
「んーと、そんな、大層な話じゃないんだけどねぇ」
ツムギはギルターを安心させるように笑顔を作る。
目をつむると、遠い日の情景がまぶたの裏に浮かぶ。
──あれは、ツムギが、十一歳のときだった。
✳︎✳︎✳︎
その日は珍しく、イオリに誘われて、久しぶりに二人で海に出ていた。
このところ、どこか影を落としていたイオリが、その日は昔みたいに笑っていた。
太陽の光を受けてきらきらと笑顔が輝く。
それがあまりにも綺麗で可愛くて、ツムギはひたすら見とれていた。
──残しておきたいな。
そう思って、ツムギはカメラを取り出した。
そのときだった。
はしゃいでいたイオリの足が、ぐらりと崖の縁を踏み外した。
「……っ!」
考えるより先に、体が動いていた。
ツムギはカメラを手放し、イオリに向かって手を伸ばす。
岩場に落ちていくカメラが、ひどくゆっくりに見えた。
指先が、確かにイオリの手を掴んだ。
細い手首に、ぐっと力がかかる。
引き戻そうとして、足に力を込める。
──次の瞬間。
ツムギは、イオリの代わりに崖の下へ落ちていた。
命に別状はなかった。
ただ、足だけが、ひどく壊れてしまった。
イオリは泣いて、泣いて、何度も謝っていた。
けれどツムギは、不思議と落ち着いていた。
(すぐ治るでしょぉ)
そんなふうに思っていたのかもしれない。
だが、医者は静かに首を振った。
「立つことはできるでしょう。でも、普通に歩けるようにはなりません」
その言葉は、ひどくあっさりしていた。
それから先のことは、あまりよく覚えていない。
ただ、いろんなものが、音もなく変わっていった。
まず、婚約はなくなった。
理由を聞くまでもなかった。
歩けない嫁など、どんな名家にとっても歓迎される存在ではない。
家の中では怒鳴り声が増えた。
レアチーズケーキが出てくることもなくなった。
二階でふすまを閉めていても、両親の言い争いが聞こえてくる。
ツムギは布団をかぶり、息をひそめていた。
最初のうちは、見舞いに来る人もいた。
けれど、数ヶ月もするとそれもなくなった。
村には中学校がない。
子どもたちは皆、村の外へ通うか、寮に入る。
「ツムギには無理だろう」
そう言われて、その話は終わった。
代わりに家庭教師がつき、家の中で勉強する日々が始まった。
義務教育の期間が終わってからは、さらにやることがなくなった。
「外に出たい」と言っても、返ってくるのは「危ないからやめなさい」という言葉だけだった。
何度かそれを繰り返して、ツムギは、訴えることもやめた。
一日中、図鑑を見るか、ビデオを流すか。
時間になれば、お母さんが食事を持ってくる。
それを食べて、また、ニセモノの海を眺める。
お父さんが来たらお酌をして、話し相手になる。
少なくとも、その間は、怒鳴り声が聞こえてくることはない。
──“ハナリ”のおばあだけは、なぜか変わらず訪ねてきた。
車椅子のツムギを前にしても、気まずそうに目を逸らすことも、じろじろ見ることもない。
ただ、静かにツムギを見つめて、同じことを聞く。
「本当に、出られないのかい?」
「だから、こうしてるんだよぉ」
ツムギは苛立ちを隠さず、そう答えていた気がする。
おばあが来た日は父の機嫌が悪くなるから、ツムはこの人が苦手だった。
それでも、なぜか「もう来ないで」とは言えなかった。
やがて、ツムギが嫁ぐはずだった相手のもとへ、イオリが嫁いだ。
「お互いに気まずいだろう」
そう言われて、ツムギは式には出なかった。
とにかく。
六畳一間のこの部屋が、ツムギの世界のすべてになった。
✳︎✳︎✳︎
「……ツムギ」
ツムギが話し終えると、ギルターが優しくツムギの頭を抱き寄せた。
「……つらかったな」
「まぁね!」
ツムギは、ぎゅっと抱かれたまま、少しだけ笑う。
「でもさ、いま思えば……ずいぶん、ぜいたくだったんだよねぇ」
胸の奥を探るみたいに、言葉を選ぶ。
「何にもできないのに、毎日ごはんとか運んでもらえて。テレビとか、図鑑とか、たくさん買ってもらってさ。それなのに、海に行けないってだけで不満に思ってた」
小さく、息を吐く。
「“お父さんとお母さんは、あたしのことなんてどうでもいいんだ”って……ずっと拗ねてたけど」
そこで一度、言葉が止まる。
「……どうだったんだろうねぇ。ほんとは」
あたしが望んだやり方とは、ぜんぜん違ったけど。
あの人たちなりに、できることをしてくれていたのだと思う。
ギルターは、何も否定せずに、静かに首を振った。
「不満に思っていいんだぜ。“もっとちゃんと愛されたい”って、願っててよかったんだ」
「……ありがと」
胸の奥がきゅっとなる。
「……神気で治してやれたら良かったのにな。これ、生き物を治したりは出来ないんだ」
ギルターは心底悔しそうに言う。
「あはは。大丈夫だよぉ」
涙がこぼれるのをごまかすように、ツムギは明るく声を上げる。
「いまはミルゥのおかげでどこにも行けるし。毎日、海が見られるし。美味しいご飯が食べられるし。みんながいる。……幸せだぁ!」
「……なら、よかった」
ギルターが微笑む。
ツムギもギルターに微笑み返す。
その、美しくてどこまでも優しい顔をツムギは見上げる。
「……これもまだ、ちゃんと言ってなかったねぇ。ギルター」
「ん?」
ギルターが首をかしげる。
「──あたしを、あそこからを連れ出してくれて、ありがとう」
ツムギは言って、再びギルターの胸に顔を寄せる。
ギルターはツムギを強く、でも優しく抱きしめた。
「……こっちこそ。俺のところに来てくれて、ありがとう」
ミルゥが「ピスー」と鳴いて、ツムギに身を寄せる。
ツムギは笑ってふわふわに手を伸ばす。
──満月まで、あと三日。




