碧に焦がれて
窓を開け放すと、生ぬるい潮風が流れ込んだ。
知花ツムギは車椅子から降り、畳の上の座椅子にゆっくりと腰を下ろす。
ブラウン管テレビのリモコンを手に取る。
うちみたいな田舎の村で、リビングのほかにもテレビがあるのは、ちょっとした自慢だった。
棚には色あせたビデオテープの箱が十数本。
一番よく見た『海のいきもの②』はとっくに擦り切れて、巻き戻すたびにシャリシャリと音がする。
ツムギはリモコンを置き、結局いつもの図鑑を手に取った。
植物、星座と惑星、海の生き物──。
知花ツムギは歩けない。
だから今日も、この六畳一間が世界のすべてだった。
✳︎✳︎✳︎
ウミウシのページを眺めていると、ふすまがノックされる。
ツムギが返事をすると、美しい少女が静かに入ってきた。
妹のイオリだった。
「イオリ。久しぶりだねぇ」
「寂しかったわ、お姉ちゃん」
イオリは優雅に微笑む。
人形みたいなその美しさに、自分の妹ながら思わず見とれてしまう。
よく手入れされた、さらさらの長い黒髪。
お母さんに似た切れ長の目。
穏やかな笑みをたたえる口元。
何もかもが、ツムギとは正反対だ。
村一番の美人であるイオリは、つい最近、十六歳になると同時に嫁いでいった。
うちみたいな“ナンチャッテ”じゃない、本物の名家に。
ツムギはイオリのお腹に目をやる。
結婚してからすぐに妊娠して、いまは三ヶ月……だったか。
お腹がほんのりとふくらんでいる。
「いつ帰って来てたの?」
「いまさっきよ。お姉ちゃん、また図鑑を見ていたのね」
「他にやる事もないしねぇ」
ツムギは肩をすくめてみせた。
イオリは隣に座って一緒に図鑑をめくりながら、しみじみと言う。
「お姉ちゃんは、本当に海と生き物が大好きよね」
「うん。好き」
ツムギが即答すると、イオリはにこりと笑った。
再びノックの音がして、ふすまが開く。
エプロンをつけたお母さんが、盆を持って立っていた。
夕飯だ。
もう四十歳近いのに、お母さんはまだまだ若々しい。
座り込むイオリの姿に美しい顔をひそめる。
「イオリ、いつまでそうしているの。あんまり話し込んでると、赤ちゃんに悪いんじゃないかしら?」
「はい。いま戻ります」
静かに言って、イオリは立ち上がった。
「またね。お姉ちゃん」
「うん」
ツムギは手を振って、膳を覗き込む。
ゴーヤチャンプルーに、ラフテー丼。
(チャンプルー、そんな好きじゃないんだよなぁ……)
ツムギがそんなことを思っていると、お母さんは座卓に食事を置きながら言う。
「あなたも大人しくしていなさいね。外に出て村の人にあれこれ言われたら、お母さん悲しいわ」
「はいはい。わかってるって」
ツムギはまた肩をすくめた。
お母さんはツムギを心配しているわけじゃない。
この人はいつも、目の前にいる娘よりも、“周りの誰かからどう見られるか”ばかりを気にしている。
ヘタに反論すると、
「あなたを心配してるのに、どうしてわかってくれないの」
と、また泣かれてしまうのだ。
素直なツムギに満足したのか、お母さんは一階へ戻っていった。
「ふぅ……」
静けさが戻り、ツムギは小さく息を吐く。
イオリのふくらんだお腹を思い出した。
「いいなぁ、赤ちゃん」
自分の痩せた足を見下ろす。
「あたしも“お母さん”になってみたい……」
ツムギも、もう十八歳だ。
けれど歩けないこの足では、結婚することも、子どもをもつこともないだろう。
──ずっと、この部屋で。
死ぬまで、ひとり。
誰かがやってきて、そして去っていくのを眺めるだけの人生。
「……ぜいたくな話だよねぇ」
何の役にも誰の役にも立たず、それでも生かしてもらえているのに。
けれどもこの家の中にいると、息が薄くなる気がした。
「あれ」
ふと見ると、床に小さな蛾が止まっている。
「お前、お母さんに見つかったら殺されちゃうよぉ」
ツムギは四つん這いになって、ひらひら舞う蛾を悪戦苦闘しながら捕まえた。
窓から放すと、蛾は海の方へと飛んでいく。
崖と防風林のせいで見えないが、窓の外、十数メートル先には海があるのだ。
ツムギは、飛んでいく蛾と、闇の向こうに広がる見えない海を見つめていた。
そのとき。
ふと、歌のようなものが聞こえた──気がした。
ツムギは耳を澄ませる。
けれど、もう何も聞こえない。
きっと風の聞き間違いだろう。
ツムギは座卓の方へと這って戻る。
「ご飯、冷めちゃったかぁ」
チャンプルーを咀嚼しながら、ツムギはひとりつぶやく。
「……あたしも、どこか遠くへ行きたいなぁ」
海が見えるところなら、どこでもいい。
できたら、この村じゃない場所。
あたしが、あたしでいられる場所に。
──誰か、あたしをここから連れ出して。
小さな女の子みたいな願いが胸をよぎり、ツムギは、ふっと苦笑いした。
✳︎✳︎✳︎
夢の中で、ツムギは海に潜っていた。
ひとりぼっちじゃない。
海の生き物たちが一緒だった。
ジュゴンと、アシカ……だと思う。
真っ黒でつやつやした、綺麗な生き物。
そのアシカが青い瞳でツムギを見つめて、
「一緒に行こう」
と言った。
アシカがおしゃべりするはずないのに、確かにそう言った気がした。
ツムギの胸に小さな光が灯る。
「待ってて、妹を呼んでくるから!イオリも、生き物と海が大好きなんだよぉ」
ツムギは海から上がり、息せききって家まで走った。
玄関を開けると、顔を出したのはお母さんだった。
びしょ濡れのツムギを見て眉を寄せる。
「また海にいたの?“一人は危ない”って言ってるでしょう」
「一人じゃないよぉ。アシカさんたちと遊んでたの!」
ツムギの抗議に、お母さんは呆れたような顔をする。
「ここの海にアシカなんていません。あなたはまた、適当なことを……」
ツムギは肩をすくめた。
「いいからぁ。イオリはどこ?」
「夕飯のお遣いですよ。あなたも少しは……」
「またこんどね!」
ツムギはあわてて家を抜け出し、ひとりで海に戻った。
けれど──
青い瞳の生き物は、もういなかった。
✳︎✳︎✳︎
……そこで目が覚めた。
顔を上げて時計を見ると、小一時間ほど眠っていたらしい。
(変な時間に眠っちゃったなぁ……)
ツムギは大きく伸びをする。
夢の余韻がまだ身体に残っていた。
たとえ夢でも、また海で遊べたことが少し嬉しい。
(でも……いま思うと確かに、あれはアシカじゃないよなぁ)
ツムギは首をかしげる。
「アザラシ?セイウチ?……ゴンドウイルカでもないし」
図鑑をめくりながらつぶやく。
「……かなり、大きかったよねぇ」
そのとき、下の階が急にあわただしくなった。
お父さんが帰宅したらしい。
……平和な時間は終わりだ。
しばらくして、どすどすと階段を上がる音。
ふすまが開く。
「いい子にしてたか」
「うん。お父さん」
後ろから着いてきたお母さんが、静かに酒と杯を置いて出ていく。
お父さんは村役場の偉い人で、夕飯のあとは毎晩のようにツムギの部屋で酒を飲む。
酔いつぶれて、そのまま眠ってしまうことも多い。
ツムギが杯に酒を注ぐと、お父さんはそれをぐいとあおった。
いつものように、自分が解決したトラブルの話をまくしたて始める。
ひと通り話し終わって、ふと、
「そういえば」
とつぶやく。
「今日は、おばばが来てな。また、竜がどうこう騒いでいたぞ」
「ああ……おばあね」
ツムギは相槌を打つ。
おばあと言っても、ツムギの祖母ではない。
“ハナリ”と呼ばれる、村の祭事役の女性だ。
古い伝統や慣習ばかり口にするせいで、村人からは煙たがられている。
昔、おばあの家の近くで遊んでいたせいか、ツムギは、良くない意味で目をつけられていた。
「おばばが言うにはな。最近、ヒカンドリを見かけるらしい」
「ヒカンドリ?」
聞き慣れない言葉にツムギは首をかしげた。
「珍しい鳥でな。“竜の使い”だとかなんとか、おばばは言っていたぞ」
「へぇ……!珍しい鳥かぁ……」
ツムギは胸の奥がそわそわしてきた。
(どんな鳥なんだろう……)
けれどお父さんは、その気持ちを押さえつけるように言った。
「危険な鳥らしい。皆にも注意したが、お前も外に出るんじゃないぞ」
「……大丈夫だよぉ。どうせ出られないから」
ツムギは自分の足をとん、と軽く叩いてみせる。
お父さんは満足そうにうなずいた。
「女は大人しくしているのが一番だ。あのおばばのようになっては、お終いだ」
ツムギは曖昧にうなずく。
お父さんのいつもの決まり文句だ。
「お前のお転婆も、その足のおかげで落ち着いた。かえって良かったのかもしれん」
ツムギは胸の奥がひやりと冷えていくのを感じていた。
「あとは、嫁ぎ先さえ決まればな」
「……そうだねぇ」
ツムギはなんとか笑顔を作ってうなずいた。
「お父さんがいろいろ考えてある。お前はあまり思い詰めるな」
「……はぁい」
それで満足したのか、お父さんはふらふらと階段を降りていった。
今日はこの部屋で眠ってしまわなくて、よかった。
ツムギがほっと息をついていると、酒瓶を片付けに来たお母さんが言う。
「お父さんの言うことはちゃんと聞きなさいね。あなたのことを思っているんですよ」
「はいはい」
「“はい”は、一回よ」
「はぁい」
お母さんはため息をつき、雨戸を閉めると階段を降りていった。




