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ニライカナイの花嫁  作者: 望月冴子
第3章:満ちていく気持ちと月

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ほどける時間

 ツムギはミルゥと食堂にやってきた。


「ゼータ、いるかなぁ?」


 キッチンからは、また香ばしい匂いが漂っている。

 パンとは違う、どこか甘い匂いだ。


 ツムギとミルゥは鼻をひくひくさせながらキッチンを覗く。

 ゼータの後ろ姿が見えた。


 声をかける前に振り返ったゼータが舌打ちする。


「ほわっ!」


 思わずツムギは声を上げた。


 ゼータの体に、何かが巻き付いている。


 目をこらすとそれは──

 ヘビだった。

 透明で、太くて長いヘビ。


「あ、ギルターが言ってた、冷たい息を吐くヘビさん……?」

「急に来るのが悪いんですよ。──いま退けます」


 ゼータがヘビを下ろして隠そうとするので、ツムギは慌てて声を張り上げた。


「えっ、なんでなんで?見せてよぉ」

「は?お前、これ大丈夫なんですか?」


 ゼータが軽く目を見張る。


「ギルターに聞いたよ。えーと……ウスラギさん、でしょ。噛むの?危ない?」

「……危害を加えたら、噛みますよ」

「そりゃそうだぁ。危ないことされたら、あたしだって噛むもんねぇ」


 ツムギは歯をカチカチさせてみせる。

 ゼータは何とも言えない顔になった。


 それでも、ため息をつきながら、そっとヘビを差し出してくれる。


「ほわぁ……」


 ツムギはウスラギをまじまじと見つめた。


 血のように赤い、澄んだ目がツムギを見返してくる。

 真っ青な細長い舌が、ちろりと覗く。

 ひんやりとした冷気が、ツムギの頬を撫でた。


「ここの生き物は、人間を怖がらないねぇ……」

「……お前が妙に動物じみてるからじゃないですか」


 ゼータの視線は、ウスラギの息のように冷ややかだ。


「いくら見目がよくても、それでは嫁の貰い手がいなかったでしょう」

「う、失礼なぁ」


 ツムギは唇を尖らせて反論を試みる。


「あたしだって、婚約者ぐらいいましたぁ」

「婚約者?!」


 叫んだのはゼータではない。


「あ、ギルター」


 いつの間にか、ギルターが背後に立っていた。


「ツムギ、婚約者がいたのか?!」


 その剣幕にツムギは目を瞬く。

 そこまで驚かれるとは思っていなかった。


「……そうだけど?」

「……ウスラギを放してきます」


 ゼータは、さっとウスラギを抱えて扉へ向かう。


 同時に、ギルターがツムギをミルゥから抱き上げた。


「ミルゥも悪いけど、ちょっと出ててくれ。ツムギに大事な話がある」

「──ミルゥ。果物を分けてあげますから、畑の手伝いをしなさい」

「ふぅーん」


 ミルゥはピスピス鳴きながら、ゼータについていった。


 ツムギは首をかしげたまま、食堂の椅子へ運ばれる。


「……ツムギ」

「な、なぁに?」


 ギルターは、ツムギの前に跪いた。

 その顔には表情がない。


 ──こんな顔、初めて見る。


「ツムギは……その人のことが、好きなのか?」

「えっ?」


 予想外の言葉に、ツムギは言葉を失う。


「結婚を約束した相手がいたなんて、知らなかったんだ。ごめん……」

「ち、違うの!」


 ツムギは慌てて手を振った。


 ちょっと見栄を張っただけなのに。

 まさか、こんなふうに真剣に受け取られるなんて。


「昔の話だよぉ、昔の!」


 ……婚約者がいたのは、本当だ。

 でも、それはずっと昔、子どもの頃の話。


 ギルターの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「そうなのか……。今でも、その人のことが好きか?」


 ツムギは全力で首を横に振る。


「ぜんぜん!今でもっていうか、もともと、そういうんじゃなかったし……!」


 それも本当だった。


 相手は、大きな家の跡継ぎの少年。

 父が意気込んで取り付けた、お見合いだった。


 悪い子じゃなかった。

 優しい子だった。


 ツムギは、遠い記憶をそっと手繰り寄せる。


 お見合いの席で、二人きりになったとき。

 その男の子は、ツムギの手を握って優しく尋ねた。


「ツムギちゃんは、僕のお嫁さんでいいのかい?」


 少年なのに、大人みたいな話し方をする子だった。


「うーん」


 よく分からなくて、ツムギは首をかしげ、正直に答えた。


「あなたが、あたしでいいなら、いいよ」

「僕は、ツムギちゃんがいいと思った」


 男の子は、迷いなくそう言った。


「そっかぁ」


 ツムギは笑った。

 ──この子は、あたしがいいんだ。


 そう思うと、胸の奥が少しだけ、あたたかくなった。


「じゃあ、あなたのお嫁さんになる!」


 ツムギの返事に、男の子は綺麗に笑った。


 ツムギが十六歳になったら、その家に嫁ぐことが決まった。


 それからは花嫁修行だ、なんだと周りが騒がしくなった。

 月に一度くらい、一緒に勉強したり、散歩したり。

 健全で静かな付き合いが続いていた。


 ──けれど。


 十一歳のとき、ツムギが歩けなくなって。

 婚約は、向こうからあっさり解消された。


 当然だと思った。

 別に、その子のことを好きだったわけでもない。


 それでも、やっぱりなんとなく、胸の奥が冷たくなった。


 今はもう、その子の顔すらはっきり思い出せない。


 ──イオリの結婚式の写真だって、何度も見たはずなのに。


「そうそう。いまはもう、イオリの旦那さんだしぃ」

「え、妹ちゃんの?!」


 ギルターが目を見開く。


「人間って、そういうのありなのか?!」

「あるよぉ。竜人さまは、ないの?」

「ねぇよ!」


 ギルターが珍しく本気で叫んだ。


「竜人は花嫁ひとすじだ!」

「ふぅん?でも奥さんが亡くなったら、次の奥さんをもらったりはするでしょ?」


 ツムギは小首をかしげる。


「しねえよ!!」

「そうなの?」


 さらに叫ばれて、ツムギは目を丸くする。


「逆にさ、旦那さんが亡くなったら、弟さんのお嫁さんになったりとか……」


 ギルターは言葉を失っている。


「……とんでもないこと言うな、君……」

「そうかなぁ?昔は、そういうこと多かったらしいよぉ」


 ツムギは軽く笑って続けた。


「──女の子は、子どもを産むための道具だから」

「違う!」


 ギルターが即座に叫んだ。


「でもギルターだって、そのためにあたしを連れてきたんでしょ?」


 ……ギルターがこんなにも優しいのは、あたしに子どもを産ませるため。

 ツムギは、そう理解していた。


 それなのに、ギルターは必死に首を振る。


「違うんだ、ツムギ。君が嫌なら、子どもなんて産まなくていい」

「嫌なんて言ってないよぉ」


 むしろ──

 ツムギだって、それを望んでいる。


 あたしの赤ちゃんに会いたい。

 お母さんになってみたい。


「ツムギ。俺はただ……君と一緒にいたいだけだ」


 肩に、大きな手がそっと置かれる。

 海のような美しい青い瞳が、まっすぐとツムギを見つめる。


「──頼む。信じてくれ」

「……えっとぉ」


 ツムギはとまどった。


 心臓が、また早く打ち始める。


 あの子と──元・婚約者くんと一緒にいるときには、こんなふうにドキドキしたこと、なかったのに。


 どうして、この人と──ギルターといると、こんなに胸が騒ぐんだろう。


 ドキドキするのに、全然怖くない。

 むしろ、すごく安心していて。


 可愛い生き物や、綺麗な海を見たときとも違う。


 これは──

 この感情は。


 さっき読んでいた少女漫画が、ふっと頭をよぎる。


 そんな……。

 だって、まだ会ったばっかりなのに。


「ツムギ」


 まっすぐで誠実な瞳が、ツムギを優しく射抜く。

 なぜだか涙が出そうになった。


 おかしいな。

 あたし、こんな女の子じゃなかったのに。


「お願いだ」

「わ、わかった……!わかったから」


 戸惑いながらも、ツムギはうなずく。


 ギルターが顔を覗き込んでくる。


「……ほんとか?」

「……うん」


 その答えに、ギルターはようやく笑顔になり、肩から手を離した。

 代わりに、優しくツムギの髪を撫でる。


 大きくて、あたたかい手のひら。


「ギルター……あのさ、」


 言いかけた、そのとき。

 ぐぅ、とお腹が鳴った。


「ほわっ」


 ツムギが慌ててお腹を押さえると、ギルターは優しく笑う。


「おやつにするか。ゼータが、クッキー焼いたって言ってたぞ」

「えっ!」


 ツムギが目を輝かせると、ギルターはキッチンからいそいそと小さなカゴを持ってくる。

 蓋を開けた瞬間、香ばしい匂いがふわっと広がった。


「ほわぁ……」

「お、ナッツ入りのやつもあるぞ。朝、ナッツのパン美味しいって言ってただろ」


 差し出されたクッキーを、ツムギは受け取ってかじる。

 優しい甘さが、口いっぱいに広がった。


「美味しぃ……」

「よっしゃ。笑顔になったな」


 ギルターが心底うれしそうに言う。


 ツムギも笑みを返して、ふと尋ねる。


「──これ、ミルゥも食べられる?」

「おう。持っていってやるか?」

「うん!」


 ギルターに抱き上げられ、ツムギはクッキーのカゴを抱える。


✳︎✳︎✳︎


 裏口から外へ出て、果樹園にやってきた。

 さわやかな風が吹き抜け、枝という枝に色とりどりの果物が実っている。


「ほわぁ……」

「ぷぅーん!」


 ツムギが目を細めていると、背中に果物カゴを乗せたミルゥが駆け寄ってきた。

 ゼータも、収穫する手を止めてこちらを見る。


「ゼータ!クッキーありがとう」


 ツムギはにこにこと手を振る。


「別に。自分が食べたくて焼いただけです」


 相変わらず素っ気ない言い方だ。


「そっか!お裾分けありがとう!」


 ツムギが笑顔で返すと、ゼータは何か言いたげな顔になった。


 ミルゥが、つんつんとツムギの足を押す。


「あはは、早く欲しい?」


 ベンチに降ろしてもらい、ミルゥにクッキーを差し出す。

 ミルゥは足元で、サクサクと小気味いい音を立てながら頬張った。

 小さな尻尾がプンプンと揺れている。


「美味ちぃねぇ、ミルゥ。ご機嫌ですねぇ」


 口に食べカスをつけながらおかわりをねだるヤギに、もう一枚クッキーを差し出す。

 隣に腰を下ろしたギルターが笑った。


「ミルゥもさ、ツムギが笑ってるのが嬉しいんだよな」

「えぇ〜?」

「ツムギはモテモテだな!」


 その言葉に、ツムギは思わず頬を染める。


 いつの間にかゼータも隣に座り、涼しい顔でクッキーをつまんでいた。


 穏やかな時間だった。

 本当に……ほんの数日前まで、部屋で一人きりだったのが信じられない。


 陽光はあたたかく、風はやさしい。

 白い海鳥たちが頭上を飛んでいく。


 ぼんやり空を見上げていると、ギルターがツムギの口元にクッキーを差し出してきた。


「ツムギも、もう一枚いるか?ほら、あーん」

「じ、自分で食べられるよぉ!」

「──昼食が入らなくなりますから、食べ過ぎないように」


 ゼータの冷静な声が飛んでくる。


 そのやりとりすら、不思議なくらい愛おしく感じられた。


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