ほどける時間
ツムギはミルゥと食堂にやってきた。
「ゼータ、いるかなぁ?」
キッチンからは、また香ばしい匂いが漂っている。
パンとは違う、どこか甘い匂いだ。
ツムギとミルゥは鼻をひくひくさせながらキッチンを覗く。
ゼータの後ろ姿が見えた。
声をかける前に振り返ったゼータが舌打ちする。
「ほわっ!」
思わずツムギは声を上げた。
ゼータの体に、何かが巻き付いている。
目をこらすとそれは──
ヘビだった。
透明で、太くて長いヘビ。
「あ、ギルターが言ってた、冷たい息を吐くヘビさん……?」
「急に来るのが悪いんですよ。──いま退けます」
ゼータがヘビを下ろして隠そうとするので、ツムギは慌てて声を張り上げた。
「えっ、なんでなんで?見せてよぉ」
「は?お前、これ大丈夫なんですか?」
ゼータが軽く目を見張る。
「ギルターに聞いたよ。えーと……ウスラギさん、でしょ。噛むの?危ない?」
「……危害を加えたら、噛みますよ」
「そりゃそうだぁ。危ないことされたら、あたしだって噛むもんねぇ」
ツムギは歯をカチカチさせてみせる。
ゼータは何とも言えない顔になった。
それでも、ため息をつきながら、そっとヘビを差し出してくれる。
「ほわぁ……」
ツムギはウスラギをまじまじと見つめた。
血のように赤い、澄んだ目がツムギを見返してくる。
真っ青な細長い舌が、ちろりと覗く。
ひんやりとした冷気が、ツムギの頬を撫でた。
「ここの生き物は、人間を怖がらないねぇ……」
「……お前が妙に動物じみてるからじゃないですか」
ゼータの視線は、ウスラギの息のように冷ややかだ。
「いくら見目がよくても、それでは嫁の貰い手がいなかったでしょう」
「う、失礼なぁ」
ツムギは唇を尖らせて反論を試みる。
「あたしだって、婚約者ぐらいいましたぁ」
「婚約者?!」
叫んだのはゼータではない。
「あ、ギルター」
いつの間にか、ギルターが背後に立っていた。
「ツムギ、婚約者がいたのか?!」
その剣幕にツムギは目を瞬く。
そこまで驚かれるとは思っていなかった。
「……そうだけど?」
「……ウスラギを放してきます」
ゼータは、さっとウスラギを抱えて扉へ向かう。
同時に、ギルターがツムギをミルゥから抱き上げた。
「ミルゥも悪いけど、ちょっと出ててくれ。ツムギに大事な話がある」
「──ミルゥ。果物を分けてあげますから、畑の手伝いをしなさい」
「ふぅーん」
ミルゥはピスピス鳴きながら、ゼータについていった。
ツムギは首をかしげたまま、食堂の椅子へ運ばれる。
「……ツムギ」
「な、なぁに?」
ギルターは、ツムギの前に跪いた。
その顔には表情がない。
──こんな顔、初めて見る。
「ツムギは……その人のことが、好きなのか?」
「えっ?」
予想外の言葉に、ツムギは言葉を失う。
「結婚を約束した相手がいたなんて、知らなかったんだ。ごめん……」
「ち、違うの!」
ツムギは慌てて手を振った。
ちょっと見栄を張っただけなのに。
まさか、こんなふうに真剣に受け取られるなんて。
「昔の話だよぉ、昔の!」
……婚約者がいたのは、本当だ。
でも、それはずっと昔、子どもの頃の話。
ギルターの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「そうなのか……。今でも、その人のことが好きか?」
ツムギは全力で首を横に振る。
「ぜんぜん!今でもっていうか、もともと、そういうんじゃなかったし……!」
それも本当だった。
相手は、大きな家の跡継ぎの少年。
父が意気込んで取り付けた、お見合いだった。
悪い子じゃなかった。
優しい子だった。
ツムギは、遠い記憶をそっと手繰り寄せる。
お見合いの席で、二人きりになったとき。
その男の子は、ツムギの手を握って優しく尋ねた。
「ツムギちゃんは、僕のお嫁さんでいいのかい?」
少年なのに、大人みたいな話し方をする子だった。
「うーん」
よく分からなくて、ツムギは首をかしげ、正直に答えた。
「あなたが、あたしでいいなら、いいよ」
「僕は、ツムギちゃんがいいと思った」
男の子は、迷いなくそう言った。
「そっかぁ」
ツムギは笑った。
──この子は、あたしがいいんだ。
そう思うと、胸の奥が少しだけ、あたたかくなった。
「じゃあ、あなたのお嫁さんになる!」
ツムギの返事に、男の子は綺麗に笑った。
ツムギが十六歳になったら、その家に嫁ぐことが決まった。
それからは花嫁修行だ、なんだと周りが騒がしくなった。
月に一度くらい、一緒に勉強したり、散歩したり。
健全で静かな付き合いが続いていた。
──けれど。
十一歳のとき、ツムギが歩けなくなって。
婚約は、向こうからあっさり解消された。
当然だと思った。
別に、その子のことを好きだったわけでもない。
それでも、やっぱりなんとなく、胸の奥が冷たくなった。
今はもう、その子の顔すらはっきり思い出せない。
──イオリの結婚式の写真だって、何度も見たはずなのに。
「そうそう。いまはもう、イオリの旦那さんだしぃ」
「え、妹ちゃんの?!」
ギルターが目を見開く。
「人間って、そういうのありなのか?!」
「あるよぉ。竜人さまは、ないの?」
「ねぇよ!」
ギルターが珍しく本気で叫んだ。
「竜人は花嫁ひとすじだ!」
「ふぅん?でも奥さんが亡くなったら、次の奥さんをもらったりはするでしょ?」
ツムギは小首をかしげる。
「しねえよ!!」
「そうなの?」
さらに叫ばれて、ツムギは目を丸くする。
「逆にさ、旦那さんが亡くなったら、弟さんのお嫁さんになったりとか……」
ギルターは言葉を失っている。
「……とんでもないこと言うな、君……」
「そうかなぁ?昔は、そういうこと多かったらしいよぉ」
ツムギは軽く笑って続けた。
「──女の子は、子どもを産むための道具だから」
「違う!」
ギルターが即座に叫んだ。
「でもギルターだって、そのためにあたしを連れてきたんでしょ?」
……ギルターがこんなにも優しいのは、あたしに子どもを産ませるため。
ツムギは、そう理解していた。
それなのに、ギルターは必死に首を振る。
「違うんだ、ツムギ。君が嫌なら、子どもなんて産まなくていい」
「嫌なんて言ってないよぉ」
むしろ──
ツムギだって、それを望んでいる。
あたしの赤ちゃんに会いたい。
お母さんになってみたい。
「ツムギ。俺はただ……君と一緒にいたいだけだ」
肩に、大きな手がそっと置かれる。
海のような美しい青い瞳が、まっすぐとツムギを見つめる。
「──頼む。信じてくれ」
「……えっとぉ」
ツムギはとまどった。
心臓が、また早く打ち始める。
あの子と──元・婚約者くんと一緒にいるときには、こんなふうにドキドキしたこと、なかったのに。
どうして、この人と──ギルターといると、こんなに胸が騒ぐんだろう。
ドキドキするのに、全然怖くない。
むしろ、すごく安心していて。
可愛い生き物や、綺麗な海を見たときとも違う。
これは──
この感情は。
さっき読んでいた少女漫画が、ふっと頭をよぎる。
そんな……。
だって、まだ会ったばっかりなのに。
「ツムギ」
まっすぐで誠実な瞳が、ツムギを優しく射抜く。
なぜだか涙が出そうになった。
おかしいな。
あたし、こんな女の子じゃなかったのに。
「お願いだ」
「わ、わかった……!わかったから」
戸惑いながらも、ツムギはうなずく。
ギルターが顔を覗き込んでくる。
「……ほんとか?」
「……うん」
その答えに、ギルターはようやく笑顔になり、肩から手を離した。
代わりに、優しくツムギの髪を撫でる。
大きくて、あたたかい手のひら。
「ギルター……あのさ、」
言いかけた、そのとき。
ぐぅ、とお腹が鳴った。
「ほわっ」
ツムギが慌ててお腹を押さえると、ギルターは優しく笑う。
「おやつにするか。ゼータが、クッキー焼いたって言ってたぞ」
「えっ!」
ツムギが目を輝かせると、ギルターはキッチンからいそいそと小さなカゴを持ってくる。
蓋を開けた瞬間、香ばしい匂いがふわっと広がった。
「ほわぁ……」
「お、ナッツ入りのやつもあるぞ。朝、ナッツのパン美味しいって言ってただろ」
差し出されたクッキーを、ツムギは受け取ってかじる。
優しい甘さが、口いっぱいに広がった。
「美味しぃ……」
「よっしゃ。笑顔になったな」
ギルターが心底うれしそうに言う。
ツムギも笑みを返して、ふと尋ねる。
「──これ、ミルゥも食べられる?」
「おう。持っていってやるか?」
「うん!」
ギルターに抱き上げられ、ツムギはクッキーのカゴを抱える。
✳︎✳︎✳︎
裏口から外へ出て、果樹園にやってきた。
さわやかな風が吹き抜け、枝という枝に色とりどりの果物が実っている。
「ほわぁ……」
「ぷぅーん!」
ツムギが目を細めていると、背中に果物カゴを乗せたミルゥが駆け寄ってきた。
ゼータも、収穫する手を止めてこちらを見る。
「ゼータ!クッキーありがとう」
ツムギはにこにこと手を振る。
「別に。自分が食べたくて焼いただけです」
相変わらず素っ気ない言い方だ。
「そっか!お裾分けありがとう!」
ツムギが笑顔で返すと、ゼータは何か言いたげな顔になった。
ミルゥが、つんつんとツムギの足を押す。
「あはは、早く欲しい?」
ベンチに降ろしてもらい、ミルゥにクッキーを差し出す。
ミルゥは足元で、サクサクと小気味いい音を立てながら頬張った。
小さな尻尾がプンプンと揺れている。
「美味ちぃねぇ、ミルゥ。ご機嫌ですねぇ」
口に食べカスをつけながらおかわりをねだるヤギに、もう一枚クッキーを差し出す。
隣に腰を下ろしたギルターが笑った。
「ミルゥもさ、ツムギが笑ってるのが嬉しいんだよな」
「えぇ〜?」
「ツムギはモテモテだな!」
その言葉に、ツムギは思わず頬を染める。
いつの間にかゼータも隣に座り、涼しい顔でクッキーをつまんでいた。
穏やかな時間だった。
本当に……ほんの数日前まで、部屋で一人きりだったのが信じられない。
陽光はあたたかく、風はやさしい。
白い海鳥たちが頭上を飛んでいく。
ぼんやり空を見上げていると、ギルターがツムギの口元にクッキーを差し出してきた。
「ツムギも、もう一枚いるか?ほら、あーん」
「じ、自分で食べられるよぉ!」
「──昼食が入らなくなりますから、食べ過ぎないように」
ゼータの冷静な声が飛んでくる。
そのやりとりすら、不思議なくらい愛おしく感じられた。




