第2話:鳴り響く、厨房のサンバ
エマの食堂「まんぷく亭」での、僕の新しい生活が始まった。
あの不思議なパンの一件で、僕はエマに事情を(貴族だったことは伏せて)正直に話した。行くあてがないこと、そして、自分には人の感情を盛り上げてしまう、少し変わった力があること。
「ふーん、つまりあんたがいると、なんだか楽しくなっちまうってことかい。最高じゃないか!」
エマはあっけらかんと笑い、住み込みで働くことをあっさりと許可してくれた。屋根裏の小さな部屋と、三度の食事が僕の給金だ。勘当された身には、望外の幸運だった。
「ま、期待はしてないけどね! とりあえず、皿洗いとジャガイモの皮むきからだ!」
翌日、食堂の開店準備が始まった。僕に与えられた仕事は、山のように積まれた汚れた皿を洗うこと。ゴシゴシと無心で皿をこする。
(……もっと、楽しくできないかな)
そう思った瞬間だった。
―――ワッショイ!
また、頭の中にあの声が響く。
すると、僕の身体が自然とリズムを刻み始めた。
カチャカチャ、カッ、カッカッ!
皿と皿がぶつかる音が、打楽器のようになる。
ジャバ、ジャッジャー、ジャッ!
シンクに当たる水音が、陽気なシェイカーの音に変わる。
僕の動きは、もはや皿洗いではなかった。それは一種のダンスだ。腰を揺らし、ステップを踏みながら、リズミカルに皿を洗い上げていく。自然と鼻歌まで出てきた。
その楽しげなリズムは、伝染するらしい。
トントントントン…と単調にキャベツを刻んでいたエマの包丁の音が、いつの間にか「タン、タタ、タン!」と小気味よいアクセントを刻み始める。寸胴鍋をかき混ぜるお玉が、まるでサンバダンサーの杖のように、華麗な円を描いていた。
「な、なんだいこりゃ! 手が勝手に動くじゃないか!」
エマは驚きながらも、その顔は満面の笑みだ。
その頃、食堂の外では。
「ねぇ、今日のまんぷく亭、なんか変じゃない?」
町のガキ大将、赤髪の少女リナが、子分たちを引き連れて店の前で立ち止まっていた。いつもは静かな食堂から、聞いたこともないような、心躍るリズムが漏れ聞こえてくる。
子供たちが、そーっと窓から中を覗き込む。
そこにいたのは、信じられない光景だった。いつもは気だるげなエマおばさんが、まるで踊るように料理を作り、見知らぬ青年が、皿をジャグリングでもするかのように洗い物をしている。
「なんだか、足がムズムズしてきた…!」
「ワ、ワッショイ!」
誰かが叫んだのをきっかけに、子供たちは店の前で、めちゃくちゃなダンスを踊り始めた。
厨房の窓から、その光景が目に入った。
子供たちが、僕の作り出したリズムで、笑いながら踊っている。
昨日まで「不謹慎だ」と蔑まれ、自分自身でさえ疎ましく思っていた力が、今、誰かを笑顔にしている。胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「へぇ…」
一仕事終えたエマが、汗をぬぐいながら、窓の外で踊る子供たちと、それを見て柔らかく微笑む僕の横顔を、交互に眺めていた。
「面白い拾い物をしたもんさ」
その口元には、この町が少しだけ変わるかもしれないという、確かな予感が浮かんでいた。