20.イチコロ
黒わんこ改め陰湿嫌味糞男改めドールス卿の姿が完全に見えなくなった頃、ずっと息を潜めていたピレティがにゃあ、と涙ながらに鳴いた。
同時に姿を消していたフェロニアが瞬時にその場に現れる。すごい、魔法みたいだ。
とか感心していると、押さえつけられていた頭の上に乗る手に力が込められてギリギリと絞められた。
「いだだだだだだだだだ」
「お前な!お前な!!ほんとドブだなお前はな!!」
語彙力がなくなっている。殿下は相当焦っていたらしい。
マグナスもやれやれと吐息交じりに言いながら眼鏡を掛け直している。流石に殿下の暴力を止める気にはならないようだ。
しかし二人の誤魔化しがなかったら危なかった。今回ばかりは反省するが後悔はしていない。
「バレなくてほんとに良かったですう、私何も出来なくてすみません!」
「いや、お前はどこぞの馬鹿と違ってよく気配を消していた。守護獣も咄嗟の判断、見事だった」
「ありがとうございます」
殿下は絞める手を緩めないまま二人を褒める。私は?と聞いたら余計に頭を絞められた。
痛みに呻きながら必死に殿下の手を引き剥がそうとするが中々手が離れない。
「しかし不味いな。香の匂いが薄まってきている」
「私、匂袋を持ってきています!あと大神官が塗香も、と仰っていたのでそちらも!」
「メイドは優秀だというのに主であるお前は…はあ…」
「いや、ほんとすみません…」
やっと手を放してくれたと思ったら溜息交じりに言われた。しかも憐れみさえ滲んでいてなんだか己の迂闊さに物悲しくなる。
「一旦近くの部屋でドブを隠すぞ」
「ドブの臭いですからね?ドブは付いてませんからね?」
「こっちだ、今なら見回りの兵士しかいない」
「聞いてます?」
どうやら聞こえていないようだ。その大きな耳は飾りか。無視されてるという可能性は考慮しない。
回廊へと続く純白の扉を潜り、周囲に誰も居ない事を確認して近くの部屋に入る。
ここでお茶を嗜んだ後すぐ傍の庭園へお花を楽しみに、と女性のお茶会用に作られた部屋のようだ。白色の石膏壁には薄彫りの花模様が敷き詰められていてとても優雅だ。
ピレティに誘導されて薄桃色の一人掛けソファに座る。ふかふかなソファは先ほどの緊張で張り詰めた心を癒すほど気持ちいい。その触り心地を楽しもうとした右手をフェロニアに掴まれ、ピレティが用意した粉末状の塗香を手の上に少量だけ振りかけられる。
こうやるんですよ、と言いながらフェロニアは己の掌とレウィシアの掌をすり合わせた。
「わ、いい匂いが染み込んだみたい。塗香って初めて使いました…」
「こうやって体の各部位に塗り込んでいくんです。首元などにやるとより香りが強まりますよ」
「へー、じゃあとっととやっちゃおう」
「少量じゃ足りん、全身にぶっかけろ」
多分殿下の言う事は聞かなくてもいいだろうな。そう思いながら右手に付いた漢方のような、シナモンのような独特な香りを存分に嗜んでいると、マグナスが塗香を少量手に取りながらレウィシアの左手を持った。
「えっいやそんな急に!はわわ!」
「はい、これで擦り合わせてくださいね」
「あ、はい」
急に左手を持つものだからてっきりフェロニアのようにお手々にぎにぎをしてくるのかと思ったらただ粉末を掌に振りかけただけだった。
なんだ、と肩を落としながら自分の両手を擦り合わせる。決してイケメンのドキドキタイムが訪れなかった事に落胆したわけではない。
「…先ほどは、ありがとうございました」
「え?何かやりましたっけ?」
「お前は寧ろ謝罪しろ!」
「はいすみません!本当にごめんなさい!マグナスさん、せっかく我慢してたのに台無しにしてしまって、」
殿下の言う通りだ。つい頭に血が上ってマグナスの努力を無駄にしてしまった。ソファの左手側に片膝を着いて礼を言ったマグナスに思いきり頭を下げると、彼は手でそれを制止した。ふふ、と嬉しそうに笑うものだから思わずその笑顔に見惚れてしまう。なんと美しい笑顔か。
「いえ、私の為に怒ってくださった。それがとても嬉しかったのです。だから、ありがとうございます」
「んひょえー!イケメン!その顔好き!(いやいやそんな、あんなの誰だって怒りますって!)」
「…(うわあ…)」
言葉で例えるならふわぁ、だろうか。或いはキラァ、だろうか。柔らかくも輝かしい、それでいて少し照れたような笑顔はレウィシアの心をドキュゥンと貫いた。思ってる事と言おうとした事が逆に出てしまうほどの破壊力だ。斜め向かいの横に広いソファに腰かけた殿下が顔と心の中でこれでもかとドン引きしている。
「いや、今のは違くてですね、」
「えっと…ありがとうございます…?」
「いやほんと色々とごめんなさい忘れてください!」
「…(うわあ…)」
突然の顔好き発言に困ったマグナスが取り敢えず礼を言うので、居た堪れなくなって顔面を両手で覆うと塗香の臭いが顔中に広がった。しまった、今のは本当に恥ずかしい。勢いで告白した挙句空振りしたみたいじゃないか。殿下はもう一度ドン引きしてるし、レウィシアの心の中はしっちゃかめっちゃかである。
一人でキャーキャーどうしよう!と騒いでいると「匂袋はどうします?」「口の中に突っ込んどけ」という我関せずな殿下とピレティのやり取りが聞こえた。
おいそこの二人、聞こえてるぞ。
本当に突っ込もうとしないでピレティさん。
恥ずかしさに悶えながら、口の中へと匂袋を突っ込もうとするピレティから上半身を逸らして逃れるレウィシアは気づいていないが、マグナスは笑顔のままほんのりと頬を染めていた。




