閑話1.一方そのころ
「アドロガンティス、戻ったのか」
高い天井に届くほど大きい両開きの扉が、護衛の兵士によって重厚な音をたてながらゆっくりと開かれた。
耳を劈くその音が漸く収まるころ、部屋の奥に置かれた天蓋の付いた寝台から弱弱しく老いた声が掛けられる。
アドロガンティス―――殿下は、余り足音煩くならないよう気を付けながら静かに声の持ち主の傍まで歩いた。
歩く度に着飾った装飾品の擦れる音だけが響く。
「父上、ただいま戻りました」
枕元の横に立った後片膝を着き、出来るだけ近寄り寝込む人物の顔色を窺う。
瘴気の病に侵された体は思ったよりも酷いようで、汗ばんだ顔は死人のように真っ白だった。
殿下の父である国王は、軋む体に鞭を打ち息子の顔を見ようとする。
そこに王としての覇気は無い。ただの死に際の老人が横たわっていた。
かつて憧れた父の変わり果てた姿に、眉間に皺を寄せながら胸より下で組まれた手を覆うように己の掌を重ねる。王は応えるように殿下へと視点を合わせた。
「花聖女に会ってまいりました」
「おお、そうか。どうであった?」
花聖女、といった途端に国王の声音が変わった。弱弱しさに少しだけ張りが戻った気がする。
話を聞くために体を起こそうとしたので肩を抑えて制止してから付近で待機していた側近を呼び、体に支障が出ないよう丁寧に上体を起こし、大きな枕を腰の後ろに挟んで凭れ掛かせる。その間ずっと体が痛んだのか、歪んでいた顔がやっと緩んだ。
「普通の、に…娘でした。守護獣も彼女に懐いているようで。教会で篤い待遇を受けておられました」
「そうか、そうか。この目で確認できないのが残念でならない」
「仕方ありません。直に体もよくなりましょう」
だとよいのだがな、と呟く国王の表情には少しだけの諦めと戸惑いが隠れ見える。
直によくなる、というのがどういう意味なのか国王は十分によくわかっていた。
花聖女が来たから、直によくなる。殿下はそう言っている。
国王はどうしてもそれが、素直に喜べなかった。
不意に傍から離れ、なにやら徐に近くの箪笥の上で何かの準備をし始めた殿下を尻目に、国王は暗い声音で続ける。
「今もこうして私と同じように苦しむ国民がいるだろうに、私だけ助かるのは権力を乱用しているような気がしてならない。……何をしておるのだ、息子よ」
「香を焚いております。しかたありません、王にはその権利があります。貴方が斃れたら誰がこの国を導くのですか」
「お前がいるではないか。もう二十五のいい大人だ、世を継いでも誰も文句を言わないだろう。現に賢く仁に篤いと聞く。…なぜそんなにも香を焚くのだ、息子よ」
「良い香りだからです。買い被りですよ、それは。いずれ王を継ぐ私に尻尾を振っているのです」
「おまえはまたそんな事を。…少し匂いが強いな息子よ」
「気のせいです。我慢してください」
花聖女が臭い人間だなんて、とても今の国王には言えない。
そんな事を言えば浄化を断念するなどと言いだしそうで怖いのだ。殿下はなんとしても国王に良くなってほしかった。
蝋燭の火で棒状の香に火を着け、すぐに手を振って火を消し煙を出す。筒状の容器に何本も入れてはまた別の所で香を焚き、三回ほど工程を繰り返せば広い部屋は十分なほどに香りが充満した。
「いいですか、今日は夜までずっとこの香を焚いてください。体にいいそうです」
「先ほどいい香りだからと言っていなかったかのう…」
「そうですいい香りだからです。匂いを嗅いで集中するんです」
「集中してどうなるのだ…」
「瘴気への抵抗力が増します」
「う、ううむ…?」
「では、執務がありますので。後ほどまた様子を見に来ます」
国王は納得いかなさそうに唸るが、適当な理由付けだと悟られる前に側近に大量の香を押し付けて小声で決して香を焚くのを辞めるな、と念を入れる。
それから王に向き直って綺麗に一礼し、来た時と同じように重厚な扉をくぐった。
護衛の兵士がまた重そうな扉をゆっくりと閉める。
その音を聞きながら足早に歩を進めると、廊下の両端に並んで待機していた数人の側近達が慌てて殿下の後を追い始めた。
「よろしいのですか、花聖女の手を借りるなど」
側近の内の一人、殿下の斜め後ろにピタリと付いていた男が口を開く。
殿下は問いかけに歩を緩めることなく、前を向いたまま返事をした。
「些か不安が残るがな。利用できるものは利用する」
「臣下が黙っていませんよ」
「お前が治せるなら治してみよと伝えておけ」
「殿下!」
殿下とて、花聖女の存在を認めたくない。認める訳にはいかない。
あの娘が浄化をしたら最後、この国の五千年間の努力が全て無駄になってしまう。
国を挙げて対処してきた長い歴史が、突然現れた娘の、しかもかつて戦を仕掛けてきた人間と同じ種族の花聖女によって水の泡にされてしまう。
あの娘は気に入らないのは何かと問いてきた。人間の癖に、獣人に臆する事無く。
気に入らないのは花聖女だと答えたが、そこに間違いはない。
花聖女の空位が余りにも長すぎた。殿下はそれが本当に憎くて仕方なかった。




