0.何かに足を掴まれて
「花ちゃんって、面白いね。いつも笑ってるし、悩みとか何もなさそう」
幼いころから新しい友人ができる度に言われた言葉だ。相手に悪気はないのはわかっているから、別に怒ったりはしない。
でも、たまにこう返したくなる。これでも悩みはごく一般的に持ち合わせているし、自分の暗い所を見せたくないだけなんだよって。
見せたらそのままずぶずぶと泥沼に嵌るように、あるいは壊れた水道からじゃばじゃばと水が噴き出すかのように自分の嫌な所がどんどん表に出てきて、どんどん相手を嫌な所に引き込みそうで怖いんだ。
そんな告白も、自分の嫌な所だからしたことないけど。
夏の朝は早い。
朝日が昇り始めて、暗かった空が少しずつ明るくなり始める。
花はぱちりと自然に開いた視界でぼんやりとカーテンの隙間からのぞく薄い光に、一日が始まったことをまだ夢から覚め切らない頭で悟った。
もぞもぞとベッドの中で横を向いたり、また仰向けに戻ったり、そうしているうちにどんどん目が覚めてくる。
ようやく枕元に置いていたスマホを手に取り、時間を確認してから大きな欠伸を一つ。
ついでに日付も確認する。今日は土曜日だった。
上体を起こして、ぼさぼさの頭を掻く。
おはよう、私。
この家には自分一人しか居ないから、心の中でそう呟いた。
連日の仕事で疲れた体を叱咤して、けだるそうベッドから降りて大きく伸びをする。
そのまま洗面所に向かって顔を洗い、歯磨きをした。
変わらない毎日。いつもの朝。ちなみに朝ご飯は面倒なので食べない派だ。
平日だったらこのまま着替えて仕事に向かっているが、今日は休日。
疲れ切ったメンタルを癒すために、唯一の趣味である花の水遣りをやらねば。
真っ白なじょうろに水を汲んでいると、いつも思い出すのは同じ趣味を持っていた母とのやりとりだ。
「お花ちゃんは水遣りが大事だから、毎朝ちゃんと水やりしないとねえ。枯れたら困るからねえ。」
誰が水不足のひび割れた大地みたいな肌だ。そう笑いながら肩を小突くと、肥料もあげないとねえ、栄養不足だと開花しないからねえ。と続ける母に二人して笑う。リビングでニュースを見ていた父が「あげすぎると太るぞ」と言えば、どっと笑いが溢れた。
花は花だけど、そっちの花じゃないんだわ。なんて、笑いながら返してみたりもして。
もうそんな賑やかな時間は訪れないんだけども。
はあ、と無意識に零れた溜め息の直後、じょうろから溢れた水の音ではっと我に返り、慌てて水を止めた。
ただでさえ収入が少ないのに、水の無駄遣いは勿体ない。
軽く頭を振って忘れ難い思い出を脳内から追い出すと、リビングの窓際に置かれた植木鉢に水を遣る。
大きな窓の前に置かれた幾つもの小さな植木鉢。すべて母が育てていた花だった。
左端から順に水遣りをしていく。小さな植木鉢に多肉質の葉を茂らせているのは、レウィシアという花だ。
母が一番好きだった花であるレウィシアは多種多様な花弁の色を持つが、その中でも桃色と橙色の複色がお気に入りである。明るくて悩みがなさそう、そう言われ続けた自分にお似合いの花だと思うのだ。
開花時期が過ぎてしまったため、次に美しい花弁を見れるのは来年の春か。そんな事を思いながら、ふと手を止める。
この花は、春先に咲く花なのだ。今は初夏とはいえ夏。乾燥には強いが、高温多湿に弱いため来年また花を咲かせるための管理が大変なんだ。
花は恐る恐る小さな植木鉢を両手で持ち上げた。
美しい桃色と橙色のグラデーションをした花弁が、こんにちは!と元気よく挨拶してきそうな勢いで大量に花開いている。
「ええ…」
思わず声が漏れる。
昨日までは確かに咲き終えた花が落ち、いかにも水分を含んでそうな肉厚な葉があるだけだった。
奇跡?奇跡なのか?母があの世から霊力パワーとかで花を咲かせたのか?
そんな突拍子もないことを考えながらまじまじと綺麗な花弁見つめていると、誰もいない部屋から聞いたことのない声がした。
「あ、いたいた。いました。」
透き通った女性の声が小さく遠く、だがはっきりと聞こえた。
どこから聞こえたのかはわからない。天井からのような気もするし、窓の外からのような気もするし、寝室からのような気もする。
いや、気のせいかな?なんて思いながら辺りを見回すと、もう一度先ほどの声が聞こえてきた。
「うーん…多分合ってると思うんですが。間違いないと思います。」
「へ……へっ!?」
突拍子もない声が出てしまう。先ほどよりも近づいた声に驚き、思わず落としそうになった植木鉢をしっかりと胸元で抱え込むように持ち直す。
声は足元からだ。誰かと会話しているようだが、直後足首にひんやりとした感覚が訪れる。
「引っ張ります。準備はいいですか?」
「っ…え!?なに!?なになになに!?」
真っ白でとても人のものとは思えない手が、足首をしっかりと掴んでいた。きらきらと光る白い手は魚の鱗のようなものに覆われていて、真っ白な爪がとにかく長い。それでいて鋭い。
普段なら、ギャル顔負けネイルだな、なんてツッコミをしているだろうが、今はそんな余裕がなかった。
真っ白な手は床からにょきっと生えている。更に、ぐいぐいと足首を引っ張ってくる。
「あ、あひっ!ちょちょちょこわこわこわなになになに!!??」
「落ち着いてください。抵抗すると危ないんです」
「危ない!?見ればわかるわ!床から手が生えてる時点で危ない状況なんだわ!」
んはひぃっ、と情けない悲鳴とも呼吸ともとれない声が洩れる。
やばい、多分これ幽霊的なあれだわ。母の霊感パワーだとか考えていた直後の出来事なのでどうしても心霊現象と結びつく。
手を振りほどこうと足を動かすが思いのほか力が強く、後ろに尻餅をつきそうになるところをなんとか耐える。尻餅って結構痛いのだ。
「うおおおあ、あぶ…」
危なかった、と声が零れる前に、ズボッと勢いよく下半身が床沈んだ。
思わず真顔になる。脳が理解を拒んでいるのだ。
「………は?」
「ああ、だから言ったのに…このままだと体が真っ二つに…」
「はあああ!?ちょっと、出せ!ここから早く出せ!あたしまだ死にたくないまだ22、」
歳、と。渾身の叫びが終わる前に更にズボッと上半身も床に吸い込まれた。
何これ、どうなってんの。植木鉢は無事か。さようなら職場の人。大嫌いだったよお局様。あーなにこれ死ぬんかな私。
状況がわからず、来るかもわからない衝撃が怖くて強く目を閉じる。抱え込んだ植木鉢は多分無事だ。
「目を開けて。もう大丈夫です」
先ほどの声が真後ろから聞こえた。恐る恐る瞼を上げると、目に飛び込んできたのはまるで。
「宇宙…?」
科学の本とか、小学校の理科の教科書とか或いはドキュメンタリー番組か。見覚えのある景色に、パチパチと瞬きをした。
前も後ろも、上も下も、右も左も全部真っ黒。なのに奥行きがあるとわかるのは、そこら辺を漂う光の塊があるからだろうか。
「世界の道、と我々は呼んでます。さあ、こちらへ」
再び聞こえてきた綺麗な声は、花の横を通り過ぎて前へと進んだ。
その姿を見て、思わず眉間に皺が寄る。
真っ白な手からして人じゃないな、と思っていたが全身を見て改めて思う。
まじで、本当に人じゃなかった。
形は人に似ているけど、少なくとも人間は全身を羽毛に包まれたりしていない。
更に言うと、背中から翼が生えたりもしていない。
声の主は、花を振り返るとコテン、と可愛らしく小首を傾げた。
白銀の長い髪の毛がキラリ、と漂う光を反射した。
ネコ科を思わせる大きな目は、真っ赤な色をしている。その瞳が眩しいものを見るかのように細められた。
立ち止まったまま歩き出さない花を不思議に思ったのか、恐らく女性だろう、胸に膨らみがある彼女は花の頬に指を優しく添えた。正確には長い爪だが。
「突然の事で困惑しているのでしょう?安心して、説明はちゃんとします。とにかく早くここから出ないと…」
困ったように言葉を区切らせた彼女は、そのまま続けた。
「体が細切れになります」
「いやさっきから怖いんだわ」
真っ二つの次は細切れか。
花はもう一度植木鉢を抱えなおして、得体のしれない彼女に促されるまま歩を進めた。