第二話 斬新! 目から鱗の実践物理授業
《十月五日 火曜日》
一組のクラスメイトたちは、この日の朝は学校へは向かわず直接JR松山駅前に集合した。物理担当の末成先生から、そうするように指示されていたのだ。
朝のホームルームもこの場所で行われることになっていたので、担任も来ていた。かなり迷惑そうな表情を浮かべながら。
「なっちゃん、末成先生ってけっこう面白い先生だよね。授業内容はチンプンカンプンだけど。髪型も最高。おでこの所が島みたいになってるんだもん」
「そうやな、あの“ターナー島型ヘアー”には最初見たとき笑ったわ。それに夏目漱石になんとなく似てて親しみやすいよな。今日は実験やるって言っとったけど、理科室やなくて野外でやるのも斬新なアイディアの持ち主や」
「語尾によく“ぞなもし”ってつけるけど、いまどきあんな伊予弁使う人いないよね」
「鹿児島弁のおいどん、ごわす並の絶滅危惧種やな」
久未と棗は笑いながら楽しそうに彼のことを話題にする。
「ほぼ一〇〇パー意識的にわざと使ってるんじゃろうけどね。ウラナリっちは中学の時も学外で何度か面白い実験やってくれたんよ。ワタシ、カッシーの次に好きじゃわ」
「確かに、授業は面白くて、髪の毛の生え方はとてもユニークなんだけど、わたしはあの先生大嫌いだな」
梨穂は顔をしかめながらそうつぶやいた。
八時十分。担任は連絡事項を手短に済ませて急ぎ足で学校へと向かっていった。一時限目から他のクラスで授業が組まれてあるのだ。
それからほどなくして、
「グッドモーニン、おまえさんら。おれのしょうもない授業なんかのためによう半数くらいは集まってくれたな。おれは今、ベリーハッピーぞなもし。出来ればクラス全員で参加してほしかったとこじゃけど。それではご褒美に、今から慣性の法則というものをお見せ致しますぞなもし! やっぱ物理っていうもんはな、ビジュアルで体験するんが一番脳内にインプットされやすいけんな。百聞は一見にしかずじゃ。おまえさんらもいっしょに路面電車に乗ってほしいぞなもし。通学でいつも利用しとる子も多いじゃろう?」
長袖赤シャツ姿で颯爽と現れ、微妙な発音の英語も交えてご挨拶した彼こそが末成先生だ。年齢は四十代半ばくらい。『末成り』の本来の意味とは正反対に、とても溌剌としていた。駅構内で二十名近くいる一組のクラスメイトたちに向かってマイクは使わず、なぜか”坊っちゃん団子“片手に大声で叫び回る。
「先生、うるさいよ。もっと小声で話しや」
四人が座っていた場所は彼のすぐ近くだったため、かなりの騒音域となっていた。
「妻鳥よ、おれのテノールボイスを迷惑がるとは一丁前ぞなもし。おれにカラオケで『きよしこの夜』歌わせたら右に出るもんはおらんのに。罰としてスマホの番号教えてほしいぞなもし」
末成先生は坊っちゃん団子を右手に持ったまま、棗ににじり寄ってきた。
「ちょっと先生。それ、セクハラちゃうん?」
棗は笑顔で対応した。しかし内心、迷惑している。
「まあまあ、ええやないか。なっ!」
末成先生はさらに顔を近づけてきて問いつめる。
「ナツメグ、ぜひウラナリっちに教えてあげて。今回の実験に使うだけやけん」
千陽は末成先生の髪の毛をペタペタ触りながら棗を説得した。
「わっ、分かった。千陽がそう言うのなら……」
こうして棗は、しぶしぶ末成先生に自分のスマホの番号を教えてあげたのであった。
「だんだん! それより越智よ、おれの髪、そんなに触り心地いいぞなもし? ハハハッ」
上機嫌な末成先生はスキップしながら、路面電車乗り場へと向かっていった。他のみんなもあとに続く。
運賃は全額各自自腹で負担してほしいぞなもし、とおっしゃっていた。
〈まもなく、発車します〉
車内アナウンスから約三秒後、扉が閉まった。そして動き出す。当然車内はぎゅうぎゅう詰めだ。事情を知らない一般利用客らは不思議そうにこの光景を眺めていた。
「狭苦しいぞなもし。マッチ箱みたいな電車じゃな」
末成先生は運転席のすぐ側に立ち、大声で不平を述べる。
「ここで一句、【秋の日に 女生徒運ぶ 路電かな】」
彼はポケットから万年筆を取り出し、投句用紙に書き記す。そして車内に設置されてある俳句ポストに投函した。
〈大手町駅前、大手町駅前です〉
この駅を出た直後、路面電車は急停車した。すぐ目の前にある踏み切りが鳴り出したためだ。伊予鉄道高浜線が平面交差しており、そちらが優先となる。
「うおっと」
末成先生は前方につんのめりかけた。
「見よ。これが慣性の法則じゃ。さっき電車の運転手が急ブレーキかけたじゃろ? でもおれや、おまえさんらは動き続けようする力が働くけんな」
熱弁を振るうも、クラスメイトたちのほとんどは彼の話を聞いておらず、お友達とおしゃべりをして過ごしていた。
次の停車駅、西堀端を出るとすぐに、路面電車はカーブに差し掛かった。
「おっとっと、見よ! これも慣性の法則じゃ」
末成先生は尻餅をつきそうになった。
「先生、大袈裟過ぎーっ」
クラスメイトの一人からようやく意見が出た。
「……それでな、おれやおまえさんらは、直進し続けようとする力が働くんよ。もう一つ見せたる。この中でジャンプするとどうなるかをお見せ致しますぞなもし」
そう大声で告げ、末成先生はピョンッと飛び上がり、ズンッと着地した。
「ほら見よ。同じ所に着地したじゃろ。これはな、電車の速度と同じ速度で、おれの方も動いてるけん、こういうふうになるわけじゃ。これはジャンプした瞬間の速度が関係してくるんよ。もし、運転手のやつが急ブレーキかけて減速しようものなら、おれは跳んだ位置より前に移動するわけなんよ。というわけで運転手、今すぐに実践してほしいぞなもし」
「……」
末成先生からの無茶な要求に、運転手さんはかなり迷惑そうな表情を浮かべる。
〈南堀端、南堀端です〉
その到着アナウンスが流れた直後、
「おれはここで降りるけど、おまえさんらは次の市役所前で降りて、少しだけ待っていてほしいぞなもし。さらにいいもん見せてやるけん。乗り過ごして道後温泉まで行ってしまわんようにな」
末成先生はそうおっしゃり、電車から降りた。
「あ、先生待ちや。運賃忘れてはりますよ」
棗が呼びかけるも、彼はそのまま走り去った。仕方なく彼女が立て替えてあげた。
クラスメイトたちは末成先生からの指示通り、市役所前駅で下車。その駅近くで数分待つと、棗のスマホに着信が入った。
「はいもしもーし。末成先生やろ?」
棗はやる気なさそうに対応する。
「ピンポーン! 正真正銘おれぞなもし」
末成先生はとても嬉しそうに応答した。
「続いては、相対速度をお見せしますぞなもし。おまえさんら、道路の方よく見といてな。もうまもなくバスが通りかかるけん」
それから数十秒後、
「あのバスですか?」
棗はそれらしきものを見かけ、末成先生に尋ねてみた。
「ほうじゃ。おれ今、そのオレンジライナーえひめ号大阪・梅田行きの高速バスに乗ってるんよ。この高速バスは今、時刻五十キロくらいぞなもし。つまり、観測者のおれの方から静止してるおまえさんらを見たら、相対速度はマイナスの符号がついて五十キロメートル毎時というわけじゃ……」
「分かったけど先生、声もっとしぼった方がええよ。ていうか車内で通話はあかんよ」
「まあまあ、そんな細かいこと気にせんでもいいぞなもし」
棗は注意するも、末成先生に悪びれる様子はまったくなし。
「ところで先生、これからどうされるつもりなんすか? それに乗ってもうたら終点まで降りられんやろ?」
「・……あっ、しまった。今気付いた。まあよいぞなもし。大阪観光を楽しむいい機会じゃ。というわけで、授業の残り時間は自習!」
高速バス車内にいる末成先生は、他の乗客の迷惑などかえりみず大声で叫び回った挙句、ようやく電話を切った。
「あっ、先生。それ、完全授業放棄やないですか?」
プープー音の流れる棗のスマホ。棗は即、メニュー画面に切り替えて彼の番号を着信拒否設定にしておいた。
「大胆な行動する先生じゃろ。ナツメグ、驚いた?」
「そりゃそうや。あんなんで、よう今まで教職務まっとるよな」
棗は彼の予想外の行動に拍子抜けしていた。
クラスメイトたちは学校へ向かって歩く。
「ウラナリっちは、時には体を張って物理現象を見せてくれるんよ。ベルヌーイの定理の時はもう少しで伊予鉄に轢かれそうになってたけんね」
「あいつ、関係ない人にまで迷惑かけすぎやろ」
棗は微笑みながらしゃべる。
「ナツメグ、今日のはまだマシな方なんよ。中学の時にやってくれたドップラー効果の説明の時はサイレンの音聞かすためだけに救急車と消防車とパトカー呼んでたけん。しかも大雨の日に。あのあとウラナリっち、隊員と警察官と校長にすごい叱られてたよ。見てて面白かったけどね」
「ワタシは遠心力の説明の時が最悪だったな。遠心力をお見せしますとか言って末成先生にワタシのカバン、廊下までぶん投げられたの。中に入ってた大事なペンケースや手鏡も割れたし。実践を通じて理解を深めるという末成先生のお考えはわたしも共感出来るけど、他人に迷惑かけたらダメだってことをもっと理解してほしいな」
梨穂は少しムスッとしながら中学時代のちょっと嫌な思い出を語った。
「傍若無人な漱石さんだね」
久未はにっこり笑った。
「私立やから異動もないし、三年間ずっとあの先生なんよな。なーんか頼りないわ。ただでさえ物理苦手やのに」
棗は眉をひそめながら不満を漏らす。
「ナツメグ、高等部でウラナリっちの授業受けれるんは理系だけやけん、楽しまないと損なんよ」
千陽はアドバイスしてあげた。
「みなさん、おかえりなさい」
学校へたどり着くと、次の二時限目・国語総合(古典)を担当している三十歳くらいの女の先生が快く出迎えてくれた。さっきの授業に参加していなかった半数近い子たちも先に揃っていた。
「あのう、先生。末成先生は授業ほったらかして大阪の方へ行っちゃいましたよ」
「これは昔からよくあることやけん、スルーしておいてね。あいつはね、私の恩師なんよ。もう十年以上は前になるな。当時からこんながさつな感じだったんよ」
棗の発言に対し、先生はさらりと言い張った。
「……そうなんすか」
棗は目を少し丸める。
古典の先生は、さらにこんなことも教えてくれた。
「あいつ、物理教師のくせして英語の方が詳しいもんやけん、みんなに“ニセ物理”なんてあだ名もつけられてたんよ」
それがきっかけでこの授業のあと、末成先生のことを“ニセ物理”と呼捨てするようになった女生徒が出始めたのは言うまでもない。
【三時限目 数学Ⅱ】
「ではでは、昨日予告した通り小テストを行うよーん。教科書ノートはしまって、机の上は筆記用具だけにしてねーん」
鹿島はそう告げて、プリントの束を教卓から見て左端、つまり廊下側の列一番前の席から配り始めた。
真ん中くらいの列に配る際、
「おーい妻鳥さん、今さら悪あがきしたって無駄だよーん。焼け石に水っさ」
「分かっとりますって」
鹿島は微笑みながら棗に優しく注意。彼女は指示されたあとも教科書を眺め続けていたのだ。しぶしぶ片付けた。
右端の列最後尾までプリントが行き渡ると、
「それでは始めてねん」
と、鹿島から開始の合図がかかる。制限時間は十分間。その間に五題の問題を解くようになっていた。一問二点の十点満点。
[問い1 次の2点間の距離を求めよ。O(0,0),A(3,-4)]
(えっ、えーと。3タス、-4のルートで……あれ? ルートの中がマイナスになっちゃうや。それじゃあ、3タス4で、ルート7、だよね)
久未、初っ端からうっかりミス。
(これ、公式に当てはめたらええだけやん。3の2乗タス-4の2乗のルートで、5やな)
棗は見事正解。
[問い2 2点A(1,3),B(5,-2)について、次のものを求めよ。
線分ABを2対3に内分する点、外分する点。《各1点ずつ》]
(こっ、これは、どういう公式やったかな?)
棗は即、諦めて次の問い3へ。
(……考えてみたけどダメだー、ここはとーばそ)
数分考えた挙句、久未が問い3に着手しようとしたところ、ピピピピピッとタイマーのアラームが鳴り響いた。
「はーいそこまで、後ろから集めてねーん」
ここで制限時限いっぱい。
(ギャアアアアアッ、もっ、もうタイムアップ? もう少しだけ。一文字だけでも……)
鳴り終わってもシャーペンを置こうとしない久未。
「あのう、兵頭さん」
(うーん、どう解くんだろう。えっと……)
「兵頭さーん!」
「……あっ、ごめんね」
後ろから集めに来た子は、久未がなかなか手渡してくれないので困り果てていた。
「今回の試験、すごーく簡単だったよねん? 意表をついて基礎中の基礎問題にしてあげたし。おそらくは、ほとんどの子が10点満点じゃないかな。まあもしも、6点未満だった子がいるようでしたら、放課後再試験してあげるからねん。このクラスの子では、まさかそういう子はいないとは思うけどな」
鹿島は回収されたプリントをパラパラッとめくり、にこにこしながらそう告げた。
(せっ、先生。わっ、私、まさしく再試験ですよーっ)
(うっ、うちも、確実やわーっ)
久未と棗は、背中から冷や汗がタラリと流れていた。
「今から鹿島先生から預かっていた小テスト、返却するわね。自分の分をとって後ろへまわしていってね」
帰りのホームルームで、担任は教卓から向かって右端の列一番前の席に座っている子に全員分の答案を手渡した。久未の席は同じ列後方なのですぐにまわってきた。
(やっぱり、再試験だった。の○太くんのレギュラーな点数とっちゃったよ)
10点満点中、久未は0点。
(予想通りやったな。一問目しか合ってへんかったわ)
棗は2点。よって二人とも仲良く再試験が決定した。
掃除が済んだあとに行われる。
放課後。一組の教室。
「すまんなあ、付き合わせてもろて」
「ちはるちゃん、りほちゃん。待たせちゃってごめんね。私、こんなにおバカで」
「そんなこと全然気にしなくていいよ。焦らずに落ち着いて考えて解いてね」
「公式に気づきさえすれば簡単に解けるんよ。クーミン、ナツメグ、頑張りな」
梨穂と千陽はすぐ側で応援していた。
「ハッハッハッ、きみたち、やっぱ予想通りだったな」
鹿島はかなり機嫌が良さそうにしている。再試験になったのは久未と棗、たった二人だけだったからなのか。
「6点ジャストの子はたくさんいたんだけどね。制限時間、今度は十五分間あげちゃうよん。さらにさらに特別サービス、教科書・ノート等見ながらやってもいいからねん」
鹿島はテスト用紙を二人に手渡すと「それでは始めてね」とお決まりの合図をかけた。
二人は教科書を手元に置き、懸命にシャープペンシルを走らせる。
「おっ、今度はめっちゃ簡単やん」
「教科書の例題と全く同じ問題が出てる! やったあ! 鹿島先生ありがとう」
スムーズに進む、進む。
そして十五分が経過。
「はーい時間切れ」
鹿島は二人の用紙を回収すると、その場ですぐに赤ボールペンで採点を始めた。
「ほい、兵頭さんは8点だよん」
「わーい!」
久未は受け取った瞬間、満面の笑みを浮かべる。
「おいおい兵頭さん、これでもまだ決して喜ぶような点数じゃないんだよん。満点取るのが当たり前だからね。妻鳥さんも同じく8点。合格点に達成だよーん。ほんとにきみたち仲良いな。二人とも次はもっと頑張ってねーん」
「なあ先生、次からはもっと簡単にして下さいよ」
棗はお願いしてみた。
「あれが一番難易度低い問題なのに。これ以上簡単にするなんてどうすればいいのさ」
しかし鹿島は苦笑いをしながらあっさりと断わる。
「ああもう。先生のケチッ!」
棗はぶつくさ言い放つ。
「ハッハッハッ、それではさらに難しくなる次回の小テストもおったのしみにー」
鹿島は笑いながらそう告げて、教室から立ち去った。
(うち、先生の秘密知ってるねんで)
そんな彼の後姿を、にやりと微笑みながら眺めていた棗であった。