第十三話 病院なんて大嫌い
《十一月二十九日 月曜日》
今日は、芸文祭の代休となっている。
朝、八時半頃。
「くみ、そろそろ起きなさい! 休みだからって寝すぎはダメよ」
お母さんは叫びながら、久未のお部屋へ。
「お母さん、私、今すごくしんどいの。お熱があるみたい。ケホッ、ケホッ」
久未は上半身をゆっくりと起こし、咳をしながら伝えた。
「確かに、しんどそうね」
お母さんは久未のおでこに手を当てる。
「あらま、ほんとに熱いわ。大変。ちょっと待っててね」
慌てて体温計を取りにいった。
「くみ、お熱計るわね」
「うん」
久未はパジャマの胸ボタンをはずし、わきに挟んだ。
一分ほどして体温計がピピピっと鳴ると、久未はそっと取り出しお母さんに手渡した。
「37.6分か。微熱だけど、念のため小児科へ行った方がよさそうね」
「えーっ、いっ、いやだ。絶対行かない。お注射されるもん」
久未は途端に焦りの表情を浮かべ、再び布団にもぐりこんだ。
「もう! くみったら。またカメさんになる。しょうがないわね」
お母さんは助けを求めようと、棗にお電話をしたのであった。
「久未、風邪引いてもうたんですか。うちが代わってあげたいな」
「いらっしゃい。棗さん、どうぞ上がってね。くーみ、棗さんが来てくれたわよ。下りてらっしゃい」
母は階段下から大声で叫ぶ。
「……」
しかし返事は返ってない。
「もう、くみったら。居留守なんかして」
「おばさん、あと二人、助っ人を呼んでますよ」
それからしばらく、久未のお母さんと棗は居間で紅茶を飲みながらおしゃべりして過ごす。
「おはようございます、はじめまして、おばさま。馬越梨穂です」
「越智千陽と申します。はじめまして。クーミンは大丈夫ですか? 昨日くらいから急に寒くなったけんね」
例の二人もやって来た。
「あらあ、いらっしゃい。あなたたちが生物部のもう二人の部員ね。いつも久未がお世話になっております。みなさん、無理やりにでも連れ出していいからね」
お母さんはにこにこしながら伝えた。三人は二階へと上がる。
「久未、具合はどないや?」
棗は、彼女のお部屋のドアをコンコンッとノックした。
「……」
またも返事がない。
「もう久未ったら、おるのは分かってるねんよ」
構わずドアを開け、三人は中へ押し入った。
「ほら見てみぃ、あそこにお山がひとつあるやろ?」
棗はベッドの上を指差す。
「分かりやすっ。クーミン、隠れてるの丸分かりなんよ。頭隠して、おしりもちゃんと隠れとるけど。せめて押入れか屋根裏とかにせな」
千陽はくすっと笑った。
久未は、パジャマ姿のまま分厚い冬布団にしっかり潜り込んでいたのだ。
「バレちゃったの?」
その状態のまま問いかける。
「入った瞬間、いや入る前から久未のとる行動は予測出来とったよ。久未、病院行こう!」
「やだやだやーだ」
「ほっといたら肺炎にかかってまうかもしれへんのよ」
「でも、でもう、でもう」
「早めに行った方がええよ」
「わっ、分かってるけどう」
棗はお布団を揺さぶりながら説得を続ける。
「クーミン、まるで幼稚園児みたいよ。それがまた萌える」
「久未ちゃん、カタツムリさんみたいでかわいいな」
千陽と梨穂はその様子を微笑みながら眺めている。
「ほら久未、小児科医さんは久未のご来院を心から待ってはるよ」
棗は両手で力いっぱいお布団を引っ張る。けれども久未は、彼女の体格からは信じられないような驚異的な力でしがみ付いていた。久未の体温はますますヒートアップ。
「あかん、動かせへん。千陽も手伝ってーな。馬鹿力モードの久未には、うちの力だけでは通用せえへんねん」
「了解! ワタシにまかせなさい。力学的に考えると……」
二人力を合わせて冬布団を引っ張り始めた。
「棗ちゃん、千陽ちゃん。頑張って下さいね」
梨穂は側で楽しそうに応援している。
「「せーの!」」
二人の息の合った掛け声。
「コチョコチョコチョーッ」
千陽は片方の手を布団に突っ込み、久未の足裏をくすぐったりもした。
「アハハハッ、やっ、やめてちはるちゃん……ケホッ、ケホッ」
馬鹿力モードの久未も、さすがにこれにはギブアップ。布団から手を離した。
「いったたた!」
「クーミン、瞬間的な力はものすごい強いね」
棗と千陽は引き離された勢いでバランスを崩し、床にしりもちをつく。
「お医者さんなんか行きたくないよう!」
久未は、今度はベッドにもう一枚敷かれてあった薄い夏布団に潜り込もうとした。
「つかまーえた!」
しかし梨穂が久未の背中にすばやく抱きついてそれを阻止。
「ぅわーん」
久未は身動きを封じ込められた。
「ナイス梨穂! ようやった」
「嫌、嫌、嫌ーっ。助けてーっ、タ○トマン!」
ご当地ヒーローの名前を大声で叫ぶ久未。しかし当然来てくれるはずはない。役目も違う。
「久未、小児科なんて全然怖い所やないって。むしろ待合室には久未の大好きな絵本とか児童書とかいっぱい置いてあって、超楽しいアミューズメント施設になっとるよ」
棗は久未の頭をなでてなだめる。
「久未ちゃん、お願いです。小児科へ行って下さい! わたし、これ以上久未ちゃんがお熱に苦しんでいる姿を見たくないの」
「やーだーよーっ! 風邪は早く治したいけど、お医者さんには絶対行きたくなーい!」
久未は体を揺さぶって必死に梨穂を振り払おうとしている。梨穂は苦しい表情だ。
「クーミン、今まさに公共で習った葛藤状態やね。ぺろぺろキャンディーあげるから大人しくお医者さん行こうね」
千陽はポーチの中から袋に包まれたそのお菓子を取り出す。予め久未の喜びそうなものを用意してきたのだ。
「食べたい、食べたいけど、私今、食欲がわかないの」
「そっか。じゃあワタシが食べちゃおう」
千陽はそれを自分の口元へ近づけた。
「あーっ、ちはるちゃん、やめてやめてーっ。私、あとで食べるからーっ。ケホッ……」
「ほうか。ほんじゃクーミンが小児科行ってくれたら、これプレゼントしてあげるよ」
千陽がそう言い放った途端、
「ほっ、本当? それじゃ私、お医者さん行くよ」
久未の態度が一変。何事もなかったかのようにピタリと大人しくなった。
「千陽、いいこと言うなあ。魔法の呪文やな」
「まさか、こんなに上手くいくとは思わなかった……」
千陽は自分の発言が久未にもたらした効力に驚く。
「早く支度しなくちゃ」
久未は汗びっしょりになったパジャマを脱いで、余所行きのお洋服に着替え。コートも
しっかり着込んでお出かけ準備を整えた。
「それじゃあ行こう」
「あ、久未、鼻水垂れてるよ。これで鼻シュンってしい」
棗はベッドのすぐ横に置かれてあったボックスティッシュから何枚か取り出し、久未の
お鼻の下にそっと押し当ててあげた。
「ありがとうなっちゃん」
そして久未は鼻をかむ。そのさい鼻水がちょっぴり、棗の手についたらしい。
「みなさん。いってらっしゃい」
「いってきまーっす。ねえ、お母さんも、一緒についてきてほしいな」
久未はしんどそうに、玄関前で見送るお母さんのスカートの裾をグイグイ引っ張りながら頼み込んだ。
「ダーメ。久未も、もう高校生でしょう。本当は一人で行くべきなのよ。みなさんごめんなさいね。久未がこんなにご迷惑おかけしてしまって」
「あーん。お母さんもいてくれたら私、もっと安心出来るのになあ」
「お母さんは十時半から見たいテレビ番組があるのよ。だからついていけないわ」
微笑みながらおっしゃった。始めからついていく気はなかったようだ。
今日行く小児科医院へは、汽車を乗り継ぐ。お母さん一人おウチに残し、いざ四人で出陣。おしゃべりしながらおウチ最寄り駅への道を歩き進む。
「私、今年の初め頃にもお熱出しちゃって、内科へ行ったらお注射打たれたの。まさかされるとは思わなくて、めちゃくちゃ痛くて、今でもトラウマになってるんだ」
「クーミン、トラウマ多いね。ワタシも注射にはものすごい痛い思い出があるんよ。ワタシも小学校の頃は注射される時、怖くて暴れてたんよ。ある時、針がポキッて折れて腕の中に入り込んでもてね、取り出すために腕をナイフでざっくり切り開かんとあかんなったんよ。それで血がドバーって噴き出て……」
「ひっ、ひいいいいいいい」
久未は怯えた表情で、ふらふらとした足どりで側にあった電柱にぎゅっとしがみ付いた。
「クーミン、冗談じゃって」
「千陽、あんまり変なウソは教えないでね。久未、お漏らししちゃうかもしれへんから。中三の時、インフルエンザの予防接種の日にね……やっちゃってん。休み時間に教室で」
棗は千陽の耳元でささやいた。
「ほうなん? そんな出来事があったん? 修学旅行でのおねしょといい、この目で見たかったなあ」
千陽はくすくす笑い出した。
「あああああっ! なっ、なっちゃん、恥ずかしいからそれ以上言わないでーっ」
久未にもそれがしっかり聞こえたようで、とっさに電柱から手を離し、棗にダッシュで駆け寄り彼女の口を右手で塞いだ。
「うっ、ごふぇん、ごぇんくむ(ごめん、ごめん、久未)」
「もう! ちはるちゃんも笑わないでよ」
「ごめんな、クーミン」
「むぅーっ」
「わたしにも、聞こえてたよ」
梨穂は懸命に笑いを堪えていた。
「ちはるちゃんもりほちゃんも、このことはすぐに忘れてね!」
久未は不機嫌になると、顔を紙風船のようにぷっくりふくらませる癖がある。その仕草がますますかわいい、と三人は感じていた。
小児科最寄りの伊予市駅を降りてからは、久未の歩く速度がかなり遅くなっていた。
「クーミン、どないしたん? 今日は風が強いけん、進みにくくなったん? 口数も急に少なくなったし」
千陽はにこにこしながら話しかける。
「あっ、あそこの角を曲がったら、お医者さんがあったような気がして足が進まないの」
久未はそう言ってピタリと立ち止まった。
「まだもう少し先やから安心しい」
棗は落ち着かせようとしてくる。
「そっ、そっか。もう少しあるんだ」
久未はホッとした表情を浮かべ、再び足をゆっくり進めてその角を曲がった。
するとすぐ目の前に、
「あああああああっ!」
まさしくどこからどう見ても小児科医院なる建物がどっしりと構えていたのだ。
「さあ久未、着いたで」
棗はにやりと微笑んだ。
「やっ、やっぱり、こっ、ここだったんだ……」
医院の看板を目にした途端、久未は手をバタバタさせ暴れ始めた。
「ちょっとタイムーッ! あと一時間くらいしてからにしようよ。まず、お昼ごはん食べてから。ねっ。私、まだ心の準備が――」
久未は、くるり180度体の向きを変え、タッタッタッと走り出した。おウチへ引き返そうとしたみたい。
「あかん。十一時に予約しとるねんから。時間オーバーしたらあとの患者さんに迷惑かけちゃうよ」
棗はそんな久未にすぐに追いついた。
「さあ、もう逃げられへんよ」
お姫様抱っこして、有無を言わせず連れてゆく。
「うわーん、なっちゃん、やめてやめてーっ」
足を水面下の白鳥のごとく必死にバタつかせる久未。千陽と梨穂はそんな彼女を微笑ましく眺めていた。
中に入るとすぐに待合室がある。そこには、まだ就学前であろう幼い子を連れた親子連れなどが十人近くイスに座って待機していた。
四人も並んで座って待つことに。
時間の経過と共に、久未の顔の表情はますます暗くなっていく。
「ひっく……うっ」
院内の雰囲気にも恐怖を感じたのか、とうとう泣き出してしまった。置かれてあった乳幼児向けの本にも手が伸びなかった。
「久未、そんなに怯えんでも」
「なっちゃん、怖いよーっ、怖いよーっ」
棗の膝を枕代わりにしてしがみ付く。棗は久未の頭をそっとなでで落ち着かせようとする。
「お姉ちゃん、大丈夫? 怖いの?」
久未のすぐ隣に座っていた、六歳くらいの男の子が心配そうに声をかけてくれた。
「ううん。私平気だよ」
久未はピタリと泣き止む。そして一瞬でスマイルに変わった。自分よりもずっと年下の子に慰めてもらったことは、さすがに恥ずかしく感じたみたい。
「ボクも平気だよ。お医者さんなんかよりママが怒った時の方がずっと怖いもん」
「一人で来たの?」
久未はその子に尋ねてみた。
「うん! だってボクんちすぐ近くだもん」
嬉しそうに答えた。
「すごいねえボク、私なんかすぐ隣にあったとしても絶対一人では行けないよ」
男の子は受付の人から名前を呼ばれると、ひるむことなく堂々と診察室へと入っていったのであった。
それから、十五分ほどが経過した。
「兵頭久未さん、診察室へどうぞ」
ついに呼ばれた。その刹那、
「ぎゃっ、ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
と、久未は甲高い断末魔の叫び声を院内に響き渡らせた。他の来院客も振り向く。
「ひっ!」
梨穂はビクリッと反応した。
「ぅ……ぅっ、うわあああああああん!」
診察を終えて、診察室から出て来た先ほどの男の子も、びっくりして大声で泣き出してしまった。
「ごめんね、ボク」
棗が代わりに謝っておいた。
一方、受付の人はにこにこ微笑んでいた。
「わっ、わたし、今心臓が止まりそうになったよ」
梨穂は胸を押さえる仕草をとる。
「クーミン、すんごい声出すね。ワタシもちょっとびっくりしたよ。狼男のコスプレしたカッシー見た時よりも強烈じゃった。ホラー映画の効果音にも使えそうじゃ」
「うちは久未のあんな声、聞き慣れてるよ。病院連れてったら毎度のことやから」
棗は楽しそうに言い張った。
「なっ、なっちゃん。怖いから一緒についてきてね」
久未は怯えた眼差しで棗の顔をじっと見つめ、袖をぐいぐい引っ張る。
「分かった、分かった。しゃあないな。高校生になっても一人では行けんのやな」
棗は久未の背中を、大相撲の決まり手でいうならば送り出しのような感じで押して診察室の方へと連れていった。
久未は手をプルプル震わせながら受付の人に問診表を手渡す。
棗が戸を引いて、二人いっしょに診察室の中へ。
「こんにちはっ、お久しぶりです森岡さん。また久未のこと、よろしくお願いしますね」
棗はそのお方に向かって愛想よく挨拶した。
「はいはい。お任せ下さいな」
この森岡さんとおっしゃる小児科医は、これまで何度か久未の診察に当たったことがある。久未の幼少期からの馴染みの人だったのだ。
「久未は今年から高校生になったんやけど、小児科でもよかったんかな?」
棗は質問してみた。
「久未ちゃんなら全く問題ないでしょう」
森岡さんはにこにこしながらきっぱりとお答えになられた。
久未は診察イスに座った。というより棗に座らされた。
「あわわ、あわわ」
カタカタカタカタ震えていた。
「こんにちは久未ちゃん、ちょっとポンポン見せてね」
「はっ、はいー」
久未はびくびく震えながらも大人しく服をめくり上げた。
聴診器を胸と背中に当てられる。
「はーい、いいよ。次はお口あーんてしてね」
「ぁー」
大人しく開けた。
一方、こちらは待合室。
「なあ、リホ。クーミンは大丈夫なんかね? ここからちらりと見えたけど、お爺ちゃんじゃん。注射打つことになったらクーミン絶対暴れるじゃろうし危ないのに、さらにあのお爺ちゃんの手がプルプル震えてもうたらえらいこっちゃよ」
「わたしもそれ心配してる。久未ちゃん、どうかご無事でありますように」
千陽と梨穂は久未のことをかなり気にかけているようだ。
○
「よっ、よかったーっ。お注射されなくてーっ」
久未は安堵の表情を浮かべて、診察室から戻って来た。
「よかったね、クーミン。にしてもすごいな、クーミンを大人しくさせたまま診察済ませれるなんて」
「あのお方は中学生以下のいたいけな女の子の裸を楽しそうに診察し続けて五十年、この近所に住むPTAの方たちからは“ロリ岡子規”って呼ばれてるほどの名医やねん。美少女フィギュアも趣味で作ってはるんよ」
棗は嬉しそうに教える。
「すごいお爺ちゃんじゃな。アンダーフィフティーンの女の子の人体構造にはかなり詳しいじゃろうし、精巧に作っておられるんじゃろな」
「プロも顔負けの技能があるって自慢してはったよ」
「わたしは診察されたくないな。恥ずかし過ぎる」
梨穂は頬を少し赤らめながら、小声でつぶやいた。
「あのお爺ちゃん、癒し効果があるから私は好き」
無事診察も済んで、笑顔いっぱいの久未。お母さんからもらった診察費を財布から出して支払う。
「久未ちゃん、またいらしてね」
受付の人は微笑みながら言った。
「お爺ちゃんには会いたいけど、お注射されるなら来たくないな」
久未も微笑みながら言い返す。
あとは併設されている薬局で、お薬をもらうだけ。
窓口の人に処方箋を手渡す。
「子供用の風邪のお薬は、三種類あるわよ。ストロベリーとメロンとバナナ」
「私、メロン味の風邪薬がいいな」
久未は迷わず答えた。
「メロン味ね、はーい、どうぞ」
「ありがとう、おばちゃん」
満面の笑みで受け取り、帰路に就く。
おウチへ帰ってお薬を飲んで、ぐっすり睡眠。
翌朝には、すっかり元気になった。




