表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

無知は美しい。



 あの人に会いたい。





 あの人の笑顔を思い出すたびに苦しくなる。声を思い出して、会話を思い出して、褒められたことを思い出して、そして嫌なシーンを思い出す。好きなのに腹立たしくて、嫌いで、世界で一番美しくて、思い焦がれている、あの人。会いたい。ひどく、会いたい気持ちだけが募っている。


 あの人より美しい人なんて、この世にはいない。相当する人だっていない。きっと、あの人ほど美しい人は、ずいぶん昔に息絶えてしまっている。あの人は、きっとずっと昔の、何世代か前の人間くらい、純粋で美しい。その美しさに、目がくらんで、耐えがたい気持ちになる。


 ひどい気分だ。涙が出そうなくらい、ひどい。




 あの人は、私が悩んだ些細なことを理解できない。共感もできない。口先だけではなんでも言えるが、本当は理解していないから、的外れなことを言う。的外れなことをする。私はそれが好きだった。


 そして、私のことを理解しているように言ってくれるのが好きだった。私を分かり切っているように散々言って、それとは違う意味や違うなにかがあっても、何も言わない。まったく違っても、何も言わず、私は笑顔で肯定する。だって、それが好きだから。肯定するたびに、自慢げな顔をするのも、困ったように笑うのも、どうでも、好きで好きで仕方がない。あの人が理解している私になっていくのも、あの人が私を頭の中で作り上げるのも、全部好き。きっと、あの人は私のこの肌も、手も、胴の細さも、肉の汚さも、体内に蔓延る醜い魔物も、全部知らない。


 あの人が私の考えを理解できないのも、しようとしないのも、先入観で考えを思い込むのも、全部好きだった。好きで、好きで、好きで、大好きで、仕方ない。




 でも、あの人はきっと、もう私を覚えていない。あの人の記憶に、あの人が作り上げた私はいない。私がどんな人間なのか、きっとぼんやりとしか覚えていない。きっと私を思い出そうとしても、風の強い日に落ちている木の葉を集めるような、途方もない思考整理を行うことになるだろう。


 あの人の中に残っているのは、私が面倒な奴だったという印象だけ。雑草の根のように、それだけが根付いて、余計な記憶だけを結びつける。


 あの人に、心の僅かな軋みさえ見せたからだ。すべては私が悪い。


 あの人のすべてを知りたいわけではなかった。でも、あの人に、他の人よりは私のことを知ってほしかった。その選択肢を間違えたから、私はあの人に私のことを理解してもらうことは諦めて、あの人が理解する私に近付く努力をした。




 ただ、一つだけ、大いなる間違いを犯した。


 私はただ、風の噂で聞いたことを応用して、あの人に尋ねたのだ。それを、どうして私が、どうして。私が悪いことをしたのか、私の自覚がないだけで相当のことだったのか、分からない。私は、それこそ、前述した「近付く努力」をしただけだった。ひどいくらい、私にしては珍しいくらい、純粋で単純な質問だった。でも、たぶん、きっと、私が悪い。あの人の中の私は、もっと弁える子だった。私が、努力不足だった。私が、もっとちゃんとしていれば、私がもっと理解していれば、もっと気を付けていれば、もっと純粋じゃなかったら、それか、いや、もう分からない。


 あの人に真意を尋ねることはできない。あの人は私を嫌っている。少なからず、私と話したいとは思っていない。


 あの人の言葉全てを信じて、期待した私がばかなのだ。おろかなのだ。こどもっぽくて、みじめで、きたなくて、ばかだ。




 お世辞であることは分かっていた。社交辞令なんて、私が一番使うものだった。今までの言葉が本心からの言葉ではないことなんて、普段の私ならわかっていた。いや、実際に、毎日毎日、毎時間、毎分毎秒、あの人と話していない間、ずっとあの人を疑う気持ちはあった。それなのに、あの人と話していると、その顔を見るたびに、言葉を交わすたびに、疑う気持ちを忘れて、あの人に夢中になってしまう。


 使っている言葉が正しいのか分からない。言葉が不自由な私は、ありきたりな言葉で結びつけることしかできない。


 でも、あの人と目を合わせるたび、あの人の顔を見るたび、あの人の声を聴くたび、あの人の言葉は何に阻まれることなく脳に入ってきて、思考能力を奪っていった。普段なら社交辞令だと思う返答を、素直に受け取って期待してしまった。


 ありきたりな言葉で言うなら、それはきっと恋慕のもの。あの人に夢中で、少しでも振り向いてほしいから媚びを売って、勘違いをして舞い上がっただけ。


 それでも、それとは少し違う。この微妙な違いを、どう説明すればいいのか。あの人の、世界の汚さを知らない綺麗な脳みそなら、分かるだろうか。私よりも聡明で、美しくて、なんだか少しわがままで、愛嬌のある、あの人なら、分かるだろうか。




 いや、あの人は絶対に、私のこの醜い魔物を理解することはない。醜いものを見ないあの人の目に、私は今後一生映ることはないのだ。だからこそ、あの人は美しいのだ。



2025/04/08 22:07

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ