心いっぱいに味わう
話は空腹から生まれることもある。
人はきっと、死んでいても腹が減る。
根拠はないが、私にはそう思えてしまう。
私が言っていることは、つまり、「死んでもなお、食べるものがない人は苦しむ」ということで、それは、まるで救いがない。いや、元より、死んだ先に救いがあるとは思っていない人間なので、こう考えるのも仕方がないのかもしれない。
どれだけ苦しんで死んでいても、やっぱり、腹が減ってしまうと思う。食べるものがなくて死んでしまっても、食べるためのものがなくなって死んでしまっても。どれだけ苦しくても腹は減るし、どれだけ楽しくても腹は減るし、なんにも無くても腹は減るのだ。どんなものでも食べないと、死んでしまう。腹が減るのは、恐ろしい。
いつか、「食べる行為は命の行為」と聞いたことがある。(たぶん、給食のおばちゃんが言っていた。)食べるのは生きるため。食べるのは生きているから。じゃあ、なんで人間とか魂を食べる妖怪とか、怪物とか、そういうものが言われているのだろう。
それはきっと、やっぱり、腹が減るからだ。腹が減っても食べるものがないなら、自分で食べ物を探して食べる。当然のこと。
私も死んだら、そうなるのだろう。死んだらきっと、食べ物がある天国には行けない。まず、そんな天国があるかも分からない。どうであれ、自由に食べ物を食べることはできないだろう。正しい食べ物の手に入れ方もわからず、そうなったら、結局は、ああなる。
正直に話すと、本当は、これはただの願望に過ぎないのかもしれない。
もし死んでも、腹は減ってほしい。死んでも食べる行為ができるとしたら、腹が減っていないのに食べるのはむなしい。それに、私に命があったことを証明する感覚を、忘れたくない。
死ぬ瞬間はきっと苦しい。痛い。どんな痛みがこの体を襲うのか、想像できない。想像できないくらい痛いはずだ。今まで感じた痛みとは比べ物にならない。想像することすらできない、未知の、死に至る痛み。死ぬ瞬間に意識がなくなっても、この体は死ぬ瞬間の筋肉のこわばりや、訪れた衝撃や、臓物を蝕むものを憶えているはずだ。そして、ふとした瞬間にフラッシュバックして、筋肉がこわばり、衝撃が意識を襲い、蝕まれる感触に焦がされる。
もし私が死んだとき、自分で命を投げ出したわけじゃないなら、その痛みたちを忘れるために食事をしたい。とても楽しい食事がいい。そして、腹が減っていたら、嬉しい。
どれだけ苦しくても痛くても死んでいても、きっと腹が減っていたら、食べるしかない。自分を生かすために。本能で手を動かして、口に入れて、咀嚼して、嚥下する。そうすれば、自分の痛みをどうってことないと思える。私には食事をする余裕がある、と笑える。自分が死んだことに対しても、そんなに悲しいことだと思わないはずだ。
人はきっと、死んでいても腹が減る。死んだ後でも誰かと一緒に食事出来たら、きっと楽しい。
食べるものがないなら、なんでも他の物を食べてやる。
「腹が減る」ことは恐ろしいことだが、幸せなことだから。
2025/03/28 03:51