勿論、人間以外の命の中で。
どうせ、数日後には、優等生に逆戻りだ。それなら、今だけ外道になっても構わんだろう。
私は、なんというか、馬鹿正直な人間だ。
目に見える不正は許せないし、ちゃらちゃらとした奴らと関わることなんてない。周りから見ると、真白で、真直ぐで、面白みのない真人間だったかもしれない。
でもそれは、私が、集団の中の私だったからだ。集団の中の私は、正しさを求めて生きていた。
厳密には、正しさが紐で縛って引き連れている、博愛という美しいものを。
集団の中の私は、なんでもやる。責任を問われる大きなことも、誰かの代理も、人が嫌がる雑用も、他の人間なら気の付かないような些細なことも、なんでも。
人が困っていたら助けるし、困難な状況でもあきらめない。類稀なる品行方正。真面目気取り、または小間使い。そう周りに言われても一切気にならないほど、集団の中の私は、真直ぐだった。
……恐らくは。
一人称と三人称で見え方が違うのは、誰しもが知っている当然のことだ。
しかし、周りに誰もいない状態の、個の私は。軟派者というか、軟弱者というか、とにかく救いようがない。自分のことすらできない駄目人間で、人間として生活する力がない。醜くてみじめで汚くて、柔らかくて真っ白な儚い命。
性格は最悪だし、生活も最悪。好きなことをして、生きるのに必要な分だけ食べて、朝まで起きて、無駄によく寝て、昼過ぎに起きるとまた好きなことだけをする。
ほかにもこんな生活の人間はいるだろうが、どうしても、私には他の人間と私が同じ生き物であるようには見えない。出来すぎている。
他の人間は、私より、出来すぎている。
周りの人間は、歩き方も走り方も息の仕方も完璧だ。文字の読み方も話し方も考え方も、私と比べると、出来すぎている。私はどれも、しようと意識すると、出来なくなるというのに。どこで教わったのか。
君たちはどうやって生きているのか。どうやって歩いて、走って、息をしているのか。
私は、ふとした瞬間、
先ほどまでどうやって歩いていたのか、
どうやって走っていたのか、
どうやって息をしていたのか、
どうやって生きていたのか、
そのどれもが、一切分からなくなるというのに!
息の吸い方を忘れ、母国語の発音方法も忘れ、考え方も忘れて、では私には何があるのか。
醜く生きてきた個の私の生き様と、輝かしい栄光の道を歩んできた集団の中の私の軌跡だけだ。
もはや美しく見えるほど掠れたそれらが、ただそこに在るだけだ。
そして、振り返るたび。集団の中の私は上から糸で引っ張られ、辺りに一切の隙間もないほど人を敷き詰められていたからこそ、真直ぐであれたのだと認識する。
周りの人間の足を踏み、腕を掴み、胸板を押して、頭突きをする。それでようやっと真直ぐ立っていられたのだ。何という愚行。何と純粋で、何と無様で、何と愛らしいことだろうねえ?
そんな私でも、たびたびぎこちなく思考を巡らせる。生きている人間の、なんたる不要なこと。不要で、そしてこの世界には欠かせないこと。
不要なのに欠かせないとは、これ如何に。はて、謎掛けでもしていただろうか。同じもので例えるならば、きっとそれにはあらゆる文明の利器があてはまるだろう。
人間というその存在ら全てが醜く、愚かで、美しい。ひどく可愛らしい。どうにも好ましい。私もそのうちの一人であることが、憎らしくも嬉しい。こんなに可愛らしく、そして汚く私が最も嫌悪する存在のうちの一つである自分の、何という無力感。必死にもがいて生きても、誰かの上に立つことも、誰かの下に這うことも、結局は叶わない。スグにひっくり返ってしまう。否、この場合のスグとは、神や星から見た「スグ」なのだが。
もし神がいるなら、神はきっと、世界にとっての人間の必要性などは一切考えずに人間を作られたのだろう。ただこの愚かさを愛でるために作られたのであれば、それはとても賢い選択と言える。
私一人だけで、こんなにちっぽけで壮大で、紙きれ一枚分の人生を贈ることができるのだ。きっと、人間という存在の生き様で本を作ることが、ずっと先の未来では、よく親しまれる娯楽になるだろう。
2025/03/19 2:16