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あたしの心の内側を

作者: 兆 晶(ちょう あきら)

 新水前寺駅前電停は、路面電車を待つ人達で溢れていた。

 その人混みの真ん中で、俺は夏の朝日にジリジリと焼かれていた。人いきれで息が苦しい。

 四月の熊本地震から三ヶ月が経っていた。街は、なんとか平穏を取り戻し始めている。だけど、俺の自宅の周囲には、まだブルーシートを被ったまま、傾きかけた家が取り壊しもされずに残っていた。それも、一、二軒どころではない。そのうえ、小さな余震は、まだ毎日続いている。

 電停で路面電車を待つ人達の顔も、どこか険しく、そのうえ疲れきってるように思えた。

(今年は地震のせいで夏休みに補修課外があるなんてなぁ。それって休みじゃなねぇよ)

 額に湧き出る汗をハンカチで拭いながら、俺は、心の中で愚痴を漏らしていた。高校の夏服も滲んだ汗で肌にくっついてくる。不快指数は我慢の限界を超えていた。

 東京の大学に通う兄に言わせれば、新水前寺駅前電停の混雑も、東京の電車の混雑に比べれば、たいした事はないそうだ。それでも、ここは熊本だ。ギュウギュウ詰めの満員電車なんて、ここぐらいだろう。

 路面電車が電停に止まった。既に車内は乗客でいっぱいだ。路面電車の乗車口のドアが開く。乗客の間の僅かな隙間を縫うように、電停で待っていた人が乗り込んでいった。それでも、乗れたのは十人ほどだ。まだ電停には、路面電車を待つ人々が溢れている。

 電停の人混みに押されるようにして、俺は一歩ずつ前へ進んだ。

「申し訳ございません。満員ですので、次の電車をご利用ください」

 路面電車のスピーカーから流れる運転手の声が電停に響き渡った。

 路面電車のドアが閉まった。電停に残された人達が恨めしそうに車内を見上げている。車内の乗客は、そんな視線を避けるように、誰もホームに目をやらない。

 路面電車が電停を出ていった。

(今日は、あと二台目くらいで乗れるかな。まぁ、課外には間に合うだろうけど……)

 俺は爪先立ちをしながら背伸びした。路面電車のレールを目で辿る。一つ前の電停を出て、近づいてくる電車が視界に入った。

 電停の人混みの中で身動きもできず、俺は真正面から強い陽射しを浴び続けていた。

(部活で日焼けするならまだしも、電停焼けとはシャレにならん……)

 次の路面電車が電停に入ってきた。

 俺は、電車の中の混み具合を見て、乗れるかどうか瞬時に判断できる。

 目の前に止まった電車は、既に車内がギュウギュウ詰めだ。今、俺は、電車待ちの行列の真ん中ぐらいにいる。

(こりゃあ、絶対無理だ……)

 俺は、すぐにこの電車を諦めた。次の電車を狙って、電車待ちの行列のポジション取りに専念しようと決心した。

 ふと前を見ると、目の前に一人を挟んで、五十代と思しきスーツ姿の男性の背中が目に入った。小柄な背丈に白髪混じりの後頭部。襟元が少し色褪せた紺色の地味なスーツ。いかにもウダツが上がらない感じのオジサンだ。

(おっ、勇者がいるじゃん!)

 俺は、このオジサンを秘かに勇者と呼んでいる。どんなに混んだ電車でも、乗り込む際には混雑を押し分けて突破していく。そして、オジサンが生み出したスペースに、電停で待ち続けた人々が次々に乗り込んでいくことができるのだ。

 紅海を開いたモーゼのように、まさに人々の導き手となる勇者だと、私はいつも心の中でオジサンを讃えていた。

(よしっ、次の電車で、勇者の後にくっついていこう!)

 電停で待っていた数人の客を乗せただけで電車は出発した。勇者のオジサンは、次の電車待ちの行列の一番前に立っている。

 次の電車が入ってきた。意外にも車内は結構空いている。俺は制服のポケットから定期を取り出した。

 乗車口のドアが開く。

 勇者のオジサンが乗り込んだ。そのまま電車の先頭に向かって、ズンズンと進んでいく。途中の空いている吊革には見向きもしない。

(さすが勇者!)

 俺は、乗降口のステップに足を踏み出しながら、定期のカードを読取り機にかざした。そのまま勇者の背中を追うようにして、電車の中を進んでいく。オジサンは、一番前の料金箱まで辿り着くと、ショルダーバックから文庫本を取り出した。料金箱の端に片手を添えて、もう一方の手に文庫本を持ちながら、一心に読書を始めている。

(吊革も使わないとは!うーん、すごい!)

 オジサンのおかげもあって、俺は、一番前の吊革を握ることができた。

 路面電車が走り出した。

 車内はエアコンが効いていて、ちょっと寒いぐらいだ。すぐに汗が引いていく。

 電車の揺れを両足で踏ん張って耐えながら、俺は腕時計を見た。

(降りる電停まで二十分ぐらいだし、充分余裕があるな。ラッキー!)

 満員の路面電車が走っていく。

 車内に詰め込まれた乗客の隙間から窓の外が見えた。夏の朝日を反射して、ビルの窓ガラスがキラキラと輝いている。

 

 ふと眼を落すと、一番前の座席に座っている女の子が目に入った。自分と同じ高校の女子生徒だ。

(あれっ、水沢だ)

 同じ三年生の水沢香奈だった。髪型は相変わらずのショートカットだったが、なんか痩せた感じがする。顔色も青白い。水沢は、座席に座って、眉間にシワを寄せながら一心にスマホをいじっている。

 水沢は、俺がキャプテンをしているサッカー部のマネジャーだ。でも、熊本地震からは、部活に顔を出したことが無い。たしか水沢の家は、東区で震源地に近いと聞いていた。きっと大変なんだろうと思い、これまでそっとしておいた。

 俺は、昨日の夜のことを思い起こした。突然、水沢のお母さんからラインでメッセージが送られてきたのだ。

〈岩田君、水沢香奈の母です。最近、香奈は部活には行ってないんでしょう。ご迷惑をかけてごめんなさいね。香奈は、何か思い詰めているみたいだから、もし良かったら相談に乗ってあげてください。哲也君、お願いします〉

 もともとサッカー部の連絡網でキャプテンの俺と水沢は、部員全員とラインのグループを組んでいる。それから、万が一のために、保護者のラインも登録していた。

(何か思い詰めてるって、どういうことだ?)

 水沢は、頭を下げてスマホに見入ったまま、俺に気づかない。水沢のスマホの画面がちょっと目に入った。

(バイト情報?いや、これって就職の求人だ……どういうことだ……)

 俺達が通う高校は公立で校則は結構厳しい。当然ながらバイトは原則禁止だ。それでも内緒でやってる同級生はいた。だけど、そんな連中は、とにかく遊ぶ金が欲しいってヤツがほとんどだ。水沢は、そんなタイプとは全然違う。部活のマネジャーでも献身的に働いてくれて、キャプテンの俺も心から信頼してる。

 水沢のお母さんからラインがきた後に、母から聞いた話が記憶に蘇ってきた。

 水沢のお母さんは、熊本地震の時にヒドい怪我をして、ずっと入院していること。水沢の家は、お母さんと水沢だけで、母一人、娘一人の母子家庭だってこと。

(思い詰めてるって……まさか学校……やめる……ってことかよ……)

 目の前に座っている水沢は、一心にスマホの上で指を滑らせている。頭を上げる様子もなく、画面を食い入るように見詰めていた。ちょっと近寄りがたいような鬼気迫るオーラを発している。

 俺は、吊革を握ったまま、水沢の手元のスマホの画面を盗み見るように、もう一度さりげなく視線を落とした。

(やっぱり求人情報だ……それも正社員の……)

 何者をも拒絶するかのようなピリピリとした空気を漂わせながら、スマホを見詰める眼差しは尋常じゃない。

 意を決して、俺は、

「水沢!おはよう」

 と水沢の頭のツムジへ向かって呼びかけた。

 水沢が顔を上げた。目の前の俺に驚いたようで、瞳を大きく広げている。

「おっ、おはよう。岩田」

 水沢は、慌ててスマホを鞄に仕舞い込んだ。

「水沢、久しぶりだな。元気にしてたか?」

 俺は、水沢に強張った笑顔を向けた。水沢は、ぎこちなく頷いている。

「なぁ、電車で会うのは初めてだな。いつもは、もっと早いのか?」

 水沢の瞳に少し陰が差したように見えた。

「先週……引っ越したんだ……だから……電車は……今日が初めて……」

 俺の問いかけに、水沢は、言い澱むように、言葉を刻んだ。

「そっ、そうだったのか……」

 俺の声は思わず上擦っていた。水沢は俯いている。

「じゃあ、これからは朝から顔を合わせることも多いんだな。よろしくな」

 水沢が顔を上げた。でも、伏し目がちのままで、俺と視線を合わそうとはしない。

「あのね、この前の地震で、前に住んでたアパートが住めなくなっちゃったんだ……それで引っ越したんだ……」

 水沢が独り言のように小さな声で呟いた。

「そっ、そっか……たいへんだったな……ところで、お母さん、入院してるって聞いたけど、大丈夫か?」

 沈黙が怖くて、俺は必死で思いつく言葉を口から絞り出していた。

「うん、まだ入院してる……」

 水沢の返事は短い。俺は、グルグルと頭の中で返す言葉を探していた。

 お母さんが入院してるんだから、今、水沢は独りで暮らしてるってことだ。たった独りで引っ越しも大変だっただろう。何よりも女子高生が一人で背負うには、水沢が置かれている状況は過酷だ。俺は、昨日送られてきた水沢のお母さんからのメッセージを思い起こした。

〈何か思い詰めている〉

 マジメで責任感の強い水沢のことだ。学校を辞めて、働く積もりなのかもしれない。水沢なら十分あり得る。

 俺と水沢の間には重苦しい沈黙が流れていた。

 路面電車が通町筋電停に止まった。

 街の中心部の電停だ。いつものように半分ぐらいの乗客が、どっと降りていく。

 急に車内が広くなった。前後の人の吐息を浴びるような満員状態の息苦しさから開放される。高校の近くの電停まではあと十分ぐらいだ。

 水沢の隣の席が開いた。俺はすぐに腰を下ろした。重い沈黙が流れるまま、痛々しい姿の水沢を、これ以上目の前で見ていられなかった。俺はポケットからスマホを取り出した。

 水沢も鞄からスマホを取り出すと、じっと画面を見つめていた。これならお互い視線を交わさないで済む。

 俺は、ラインを起動させると、水沢へメッセージを送った。

〈昨日、水沢のお母さんからラインがきたぞ〉

 水沢が握りしめているスマホが、ブルッ、と振動した。水沢がスマホにメッセージを打ち込む。すぐに俺のスマホが、ブルッ、と震えて着信を告げた。

〈お母さん、何だって?〉

 俺と水沢は、隣り合わせに座ったまま、それぞれの手元のスマホを凝視していた。

〈水沢が何か思い詰めているみたいだから、相談にのってやってほしいって〉

〈なにそれ、なんで岩田にそんなこと言ってんの。うちのお母さんって、まったく……〉

〈お母さんを責めるなよ、水沢。きっとお前のことが心配なんだよ。サッカー部のキャプテンの俺のラインなら知ってたから、とにかく手近なとこで頼んだんだよ〉

〈それにしたって、岩田だって、そんなこと言われても困るでしょう。まったく何考えてんだか。うちのお母さんも、人の心配してる場合じゃないつぅのよ〉

〈そう言うなよ。お母さん、入院中なんだろ。体の具合が悪いと、精神も不安定になるよ。それより、水沢は大丈夫なのかよ〉

〈なにがよ〉

〈いや、だから、部活もぜんぜんこないし。大変なんだろう、実際のところ。新しいアパートも独り暮らしなんだろ。大丈夫なのかよ〉

〈岩田が心配することないよ。あたしは大丈夫だから〉

〈そう言うけど、お前、だいぶ痩せたろう。顔色も青白いし。まぶたの下も、ちょっと窪んで、少しクマ出てるし。ちゃんと食ってるのか?〉

〈なんでそんなこと、あんたに言われなきゃいけないのよ。関係ないでしょ〉

 容姿のことに触れたのは、マズかったみたいだ。手元のスマホに顔を向けたまま、横目で窺うと、水沢は、しきりにまふたの下を擦っている。ふて腐れたような表情で口も尖らせていた。どうやら機嫌を損ねたらしい。

〈すまん。言いすぎた〉

〈うっせー。ほっとけー、あたしのことは〉

〈ほっとけねーよ〉

〈なんでよ。あんたに言われる筋合いはないでしよ。部活も、あたし、やめるんだから〉

〈マジか。水沢〉

〈そうだよ。そんな余裕なくなったんだよ〉

〈なぁ、水沢〉

〈なによっ〉

〈部活、やめんのはいいけど、学校やめんなよ〉

 一瞬、水沢の体が固まるのが、隣に座っている俺には分かった。少し間を置いて、再び俺のスマホが、ブルッ、と振動した。

〈そんなこと、あんたに関係ないでしよ。あたしがどうしようと!〉

 取り付くシマもない水沢の返事に、俺は切羽詰まった。今の水沢には何を言っても頑なに拒絶されてしまう。もはや返す言葉が見つからない。


 俺は、途方に暮れて手元のスマホから顔を上げた。並んで座る俺と水沢の向かい合わせの座席に、小学六年生ぐらいの女の子と、まだ低学年と思しき男の子が並んで座っていた。二人は手を繋いでいる。きっと姉弟なんだろう。二人とも小さなリュックを膝の上に載せていた。夏休みを利用して姉弟二人でどこか遊びにでも行くのだろうか。

 弟くんが、繋ぎ合わせた手を自分の胸元に引き寄せた。お姉ちゃんが弟くんの方に顔を向ける。その拍子にポニーテールに束ねた髪が小さく揺れた。

「まだ着かないの?」

 弟くんの問いかけに、お姉ちゃんが弟くんの真ん丸な瞳を覗き込んだ。

「もうすぐだからね。お母さんの病院は」

「赤ちゃん、会えるかなぁ?」

「うん、お父さんから生まれたって電話があったから、きっと会えるよ」

「そっかぁ、楽しみだなぁ」

 そう言って、弟くんは、大きな瞳をクリクリと躍らせながら微笑んでいる。

「そうだね、楽しみだね」

 お姉ちゃんも優しげな微笑みを返していた。

 たぶん二人の姉弟のお母さんが赤ちゃんを産んだのだろう。地震の影響も残る中での出産は、きっと大変だったに違いない。自分たちの弟か妹となる赤ちゃんに会うために、この姉弟は、今、路面電車に乗っているんだ。

 弟くんがお姉ちゃんの顔を下から覗き込みながら、

「ねぇ、カナちゃん、ノドが渇いた」

 と呼びかけた。お姉ちゃんの名は、カナ、というらしい。俺の隣に座ってる水沢香奈と同じ名だ。

 カナちゃんが自分のリュックの中からペットボトルを取り出した。慎重に蓋を回して外すと、

「テツヤ、はい」

 と言って、弟くんに差し出す。

 弟くんの名前は、テツヤ。岩田哲也、俺の名前と同じだ。

 コックリと頷いて、テツヤくんは、ペットボトルを受け取った。カナちゃんが、

「こぼさないようにね」

 と優しく言い聞かせている。

 テツヤくんは、ペットボトルを両手で捧げ持つようにしながら、パクッと口に咥えた。ゴクッと喉を鳴らしながら、ドリンクをゆっくりと飲み込んでいく。その様子を、隣に座っているカナちゃんが、真っ直ぐな瞳でじっと見つめていた。

 ドリンクを飲み終えると、テツヤくんは、隣に座っているカナちゃんに、ペットボトルを差し出した。それを受け取ったカナちゃんは、蓋を閉めてリュックの中に入れた。

 その時、突然、路面電車が急ブレーキをかけた。プォー、という警笛の音が車内に響く。

 その拍子に俺の肩に水沢の肩がぶつかった。それでも、水沢は、身を固くしたまま、じっとスマホを睨んでいる。

 再び電車が走り始めた。

 ふと正面を見ると、テツヤくんの様子がおかしい。真っ青な顔で額に汗を流しながら、ガタガタと震えている。隣りに座っているカナちゃんが、テツヤくんの手を握りながら、背中を擦っていた。

「テツヤ、今のは地震じゃないからね……大丈夫……大丈夫……大丈夫……」

 カナちゃんが、大丈夫という言葉を、優しく宥めるように、ゆっくりと何度も囁いている。しばらくすると、テツヤくんは震えが止まり、顔色も元に戻ってきた。

「ねぇ、大丈夫でしょう、テツヤ」

 カナちゃんの言葉に、テツヤくんが大きく頷いた。

 今、俺の目の前にいるテツヤくんは、地震で心に傷を負っているに違いない。その傷を癒すことができるのは、その傍に寄り添うカナちゃんなんだ。カナちゃんがテツヤくんの心の内側を支えている。

 そんな二人の向かいに、今、同じ名前の香奈と哲也が座っている。

 まるで小さな奇跡のような偶然だ。

 不意に、サッカーのフィールドの映像が、俺の頭の中に浮かんできた。

 フィールドのライン際で、俺は、膝に両手を突いている。はぁはぁと激しく息を切らしながら、下を向いていた。視界に映る地面の芝生の中に、突然、人影が入ってきた。

 ゆっくりと顔を上げると、目の前に水沢が立っている。水沢は、俺に向かって

「岩田、はい」

 と言って、スクイズボトルを差し出した。

 息を切らせたまま、俺は、そのボトルを受け取った。天を仰ぐようにしながら、目を閉じて大きく口を開ける。右手でボトルを高く掲げながら、力一杯握り締めた。ボトルから噴き出す水が、ドッと口の中に流れ込んでくる。とたんに乾ききった喉が潤されて、全身に生気が蘇ってきた。

 水を飲み終わると、俺は、ボトルを目の前に立っている水沢に差し出した。水沢は、ボトルを受け取りながら、

「頑張って、岩田!」

 と呟いた。水沢の瞳は、真っ直ぐに俺に向けられている。強く祈りを込めたような、その視線は、痛いほど眩しい。

「ああ」

 照れ隠しもあって、そんなぶっきらぼうな返事を残しながら、俺は、フィールドの中に駆け出していく。

 頭の中の映像が消えた。

 俺が今まで頑張ってこれたのは、こいつのおかげだ。こいつが、水沢が、いつも 傍にいてくれたから、俺は、これまでやってこれたんだ。

 地震のせいで生活が一変し、今、水沢の心は、きっと深く傷ついているに違いない。今の水沢は、頑なに誰も近づけようとしない。でも、それは裏返しなんだ。傷を負った水沢の心は、誰にも助けを求めることができず、苦しげに呻いているんだ。その傷を癒すのは、優しく声をかけながら背中を擦るように、その傍に寄り添うことしかない。

 俺が水沢の心の内側を支えたい。


 俺は、手元のスマホの画面の上で指を走らせた。

〈俺にも関係はあるよ〉

〈なんの関係がよ!〉

 俺は、もうこれしかないと思い定めて、メッセージを打ち込む。一度フーッと大きく息を吐くと、呼吸を止めて送信ボタンを押した。

〈俺、水沢のこと、好きだから〉

 隣に座る水沢の体が硬直したのが分かった。

 俺も水沢も手元に握りしめたスマホから顔が上げられない。

 しばらくして水沢がスマホを指先で叩き始めた。また、俺のスマホが振動する。

〈なんなのよ、いったい。どういうタイミングで言ってんのよ〉

〈タイミングもなにも考えてねぇよ〉

〈あんたねぇ、最近、あんた目当てに集まった女子生徒がグラウンドでキャーキャー言ってるから調子に乗ってんでしょ〉

〈乗ってねぇし。それこそ俺に関係ねぇよ〉

〈だいたいそんな浮ついてるから、いつまでたっても三回戦負けなのよ!〉

〈今年は絶対突破するし、三回戦!つぅか、今はお前の話だろ〉

〈なによ、それっ〉

〈だから、学校やめんなよ、水沢〉

〈だから、あんたに言われる筋合いはないって言ってんの〉

〈まだ分かんねえのか〉

〈分かんないわよ!〉

 もうこうなったら、行くとこまで行くしかない。そう覚悟を決めた俺は、震える指でメッセージを打ち込んだ。もう一度、息を止めて、送信ボタンを押す。

〈俺、水沢と結婚したい〉

 何かに取り憑かれたように、俺は続けざまにメッセージを送った。

〈本気だ〉

 そのままスマホの画面を睨むようにして、俺は、じっと待ち続けた。でも、水沢から返事は返ってこない。

 俺は、何かに突き動かされるように、またメッセージを送った。

〈だから、お前は俺の未来の奥さんで、お前のお母さんは、俺の未来のお母さんだ。そう思ってる〉


 あたしは思考が停止した。目の前の〈結婚〉の二文字に。

頬がカッと熱くなる。背中に変な汗まで出てきた。頭の中が真っ白で何も考えられない。呆然としたまま、スマホの画面を見つめていた。

 ハッと我に返ると、スマホには更にメッセージが重ねられている。

〈未来の奥さん〉

〈未来のお母さん〉

 いつの間にか口の中に溜まっていた唾を、あたしは、ゴクッ、と飲み込んだ。手元のスマホの画面の上で、猛然と指を走らせる。

〈あんた、頭オカシイでしょ。告白ならまだしも、プロポーズってなによ!〉

〈なんと言われても、俺の正直な気持ちだ〉

〈アホか、あんたは!〉

〈アホかもしれん。だけど、お前のこと、本気で好きだから言ってるんだ。学校、やめんなよ〉

 岩田がグラウンドでボールを追ってる姿が、ふと頭によぎった。こいつは、夢中になると後先考えずに行動する時がある。だけど、それがチームのピンチを何度も救ってきた。苦しい時にこそ、頼れるキャプテンだ、岩田は。そのことを、傍でずっと見てきたマネージャーのあたしは知ってる。

〈もう、こっちまで頭がオカシクなる。分かったよ。やめないよ!〉

〈ホントか?水沢〉

〈ホントだよ。あーぁ、岩田と話してたら、悩んでるのがアホらしくなったよ〉

〈それゃぁ、良かった〉

〈ぜんぜん良くない!あんた、あたしがどれだけ大変か分かってんの!〉

〈すまん。正直言うと、よく分かってない。だけど、俺の父さんは市役所に勤めてるから、すぐに相談するよ。というか、もう、さっきラインで相談した〉

〈そしたら、どうだって?〉

〈お前の未来の奥さんのためなら、なんだってやってやるって。そう言ってくれた〉

〈あんた、いったいなにを相談したんだよ!未来の奥さんってなんだよ!〉

〈いや、その、俺の本気度を父さんに分かってもらうためにも、そこまで言うしかなかったんだよ。すまん〉

〈あんたなぁ、それゃぁ、こっちは困ってんだから助けてもらうのはありがたいよ。ありがたいけど、結婚を条件になんてできるわけないだろうがぁ!〉

〈分かってる。水沢、俺は返事が欲しい訳じゃないんだ。俺の気持ちが、そうだってだけだから。俺は、ただお前の力になりたいだけなんだよ。ホントだ。今、伝えておかないと、俺、きっと一生後悔する。ただそれだけなんだ〉

 なによ、それっ。押し付けがましいにも、ほどがあるっうのよ。

 それゃぁ、将来、あたしだって、いつかは結婚するだろう。子供だって産まれるだろうし。二人か、三人ぐらいは欲しい。あたしが一人っ子だったから、兄弟はたくさんいたほうが絶対いい。

 それで子供が成長して、小学校の高学年ぐらいになったら、きっと聞かれるんだろう。なんでお母さんは高校を途中でやめたの、って。そんなこと聞かれたら、あたしだって困るわよ。大きな地震があってね、お母さんもしょうがなかったんだよ、なんてテキトーな言い訳ぐらいしか、どうせ思い付かないし。それでダンナが、お母さんは大変だったんだよ、なんて口を合わせてくれてさ。いっ、いかん。ダンナの顔が岩田になってる。もうダメだ……あたし……完全に調子がオカシクなってる……

 あたしは、天を仰ぐように顔を上げた。目の前で路面電車の吊革が小さく揺れている。正面には小学生の姉弟が、仲良く手を繋ぎながら座っていた。

 再び手元のスマホに目を落とすと、あたしは、ゆっくりと指を滑らせた。

〈岩田、分かった。もうこの話はここまでにしようよ〉

 頬が火照って熱い。たぶん真っ赤になってるはずだ。全身から汗も噴き出してきた。今のあたしの姿を、岩田にだけは見られたくない。こっちを向くんじゃねぇ、と、あたしは、隣に座っている岩田に向けて、必死で念を送っていた。

 あたしのスマホが、ブルッ、と震えた。

〈学校、やめないよな、水沢〉

〈やめない。それに、あんたのお父さんにも助けてもらう。それでいいだろ、岩田〉

〈ありがとう。水沢〉

〈こっちこそ、ありがとう〉

 路面電車があたし達の降りる電停に止まった。

 あたしと岩田は同時に座席から立ち上がった。あたしは、降車口に進むと、カードの読取り機に定期のカードをタッチした。

 ピッ、と甲高い音がした。まるでゲーム開始を告げる短いホイッスルみたいだ。

 あたしは、出口のステップを駆け下りて、ピョンと飛び出した。電停に両足でトンと着地する。

 照りつける夏の陽射しが眩しい。

まるで小さな奇跡でも起きたみたいに、陽射しを反射して、周囲の風景がキラキラと輝いている。

 振り向くと、岩田がいた。陽射しを正面から浴びて、眩しそうに掌を額にかざしている。

 その後ろには、さっき並んで座っていた姉弟が、手を繋ぎながら、降車口のステップを踏み締めるように、一歩ずつ降りているのが目に入った。

 あたしと岩田は、肩を並べながら、学校の校門に向かってゆっくりと歩き始めた。

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