第96話 雪融け
充は久々に家に帰るなり、布団も敷かずに畳の上で泥のように眠った。
気づかなかったが、体は随分と限界寸前だったらしい。夢の一つも見ることなく、彼は深い眠りの底へと落ちた。
薄れゆく意識の中辛うじて目覚ましをセット出来たのは、最早本能に近い部分があるかもしれない。
それから、いくら時間が経っただろうか。
充は唐突に目を覚ました。
目覚ましの時間まであと一時間半ほど残っている。部屋の中も、窓の外も、まだまだ暗い夜闇の中。
それでも充の意識は、不思議なほどに澄んでいた。
「……っ、あぁ。痛ぇ」
着替えることもせずに直接畳の上で眠ったからだろう。体の節々が痛い。
三十代前半。口ではともかく内心まだまだ若者気分で居たが、どうやら我が身を過信しすぎていたらしい。
重たい体をどうにか起こした充は大きく伸びをする。体の節々から、小気味の良い音が鳴る。
元々アラームの時間は、いつもより随分早めにセットしておいた。出発まで、まだ相当時間がある。
充はその場に着ていた服を脱ぎ捨てると、まずはシャワーを浴びに浴室へと向かった。
*
充がシャワーで身を灌ぎ、アイロンを当てた着替え直して朝食を摂る頃には、窓の外はもううっすらと明るみを帯び始めていた。
事件発生から一ヶ月。テレビの朝のニュースでは、今なお盛んにこの事件に関して報道がなされている。
テレビだけではない。
ネット掲示板でも、SNSでも、Webニュースでも、やはり事件はメインで取沙汰され、様々な憶測が飛び交っている。
流石にその話の中で自分の名前が頻出していることは予期できなかったが。
ふと、スマホの着信音が部屋に響いた。
相手は渚沙の様だ。
「もしもし」
『ナンコー君おはよ~。昨日は良く眠れた?』
「お陰さまでぐっすりだ。頭も冴えてる。今ならノーベル賞だって取れるだろうよ」
『それは高望みし過ぎ』
「ひでぇな」
充はそう言いながらクスリと笑う。まともに笑ったのも、もしかすると久しぶりかもしれない。
「んで、用件は? 朝の目覚ましだけじゃねぇだろ?」
『うん。昨日決まったことで特に重要な案件を幾つかお知らせしようかと』
電話越しに、渚沙が息継ぎする声が聞こえた。
『一つは、米国フルダイブゲームE・F・Oでもプレイヤーの死亡が確認されたこと。政府には、赤坂経由で随分圧力かけてるみたい』
「いよいよそこまで進んできたか……」
ここまで来ると、日本の立場は一層悪いものになっていく。
日本だけではない。
フルダイブ技術そのものへの敵視が世界的に加速していくだろう。
フルダイブを用いた日本の地位向上と言う目論見が、土台から崩れ落ちていくのは明白。早急に何とかしなくては。
「それで、他は?」
『うん。二つ目は一転かなり良いニュース。聞いて驚かないでよ?』
「お、おう。なんだよ?」
『ふっふーん』
そう勿体振った様子を見せる渚沙は、やがて大きく息を吸い込み、こう言った。
『大江大臣が遂に首を縦に振った。Jr.搭載機器を用いたヨルムンガンド決死隊の案を飲んだの』
「……それは、マジか?」
『マジマジ、大マジ。早速朝の会議で決死隊の隊員を決めるみたいよ』
「分かった。すぐ行く」
『うん。気をつけてね~』
充は急いで電話を切ると、コートのボタンを留めることすら忘れて玄関から飛び出した。
季節は未だ冬真っ只中。
冷たい空気が鼻から肺へと突き刺さる。
そんな都内を、充は白い呼気をあげながらただひた走っていた。
(伊藤、待ってろよ)
充はそう、右手に持つカバンの持ち手を握り締め、霞ヶ関へ向かう電車に乗り込んだ。
停滞していた状況が、じわりじわりと動き始める。