第95話 背を押す係
「大江さん、大丈夫ですか?」
静以外誰もいない大臣執務室に、困り顔の和田が訪れた。
「私は大丈夫よ。和田君こそ、板挟みに合わせちゃってごめんなさいね」
「あ、いえ、そんなことは……」
そう言いつつも、これまでの人生で見たこと無いほどに疲れはて、しおらしくなってしまった静に、和田は困惑の表情を隠せない。
高校の頃から後輩として彼女のことをよく知っているが、こんな大人しい姿を見るのは初めてだ。
「和田君。私に弟が居たの、知ってるわよね?」
パソコンのキーボードから手を離し、大きなため息をついて大江は天井を仰ぎ見る。和田は小さく頷いた。
「高校ん時、良く自慢してきてましたもんね。妹と違って弟の方は可愛いんだって」
「あら、そんなこと言ったかしら? まぁ事実だけど」
和田は静の言葉に苦笑する。
確かにこの姉妹の関係は、血肉分けたる仲と言うよりはビジネスパートナーのように見える。
北条ラボ支援の時に静がその妹の口座を経由したのも、二人の利害が一致したからに他ならない。
お互いに利用価値がなくなれば切り捨てる気マンマンなのだ。
「……北条君、うちの弟そっくりなの。見た目とかじゃなくて性格がね。優しくて、熱血で、真っ直ぐで、それでもどこか冷静で、普段はそれを隠そう隠そうとする」
静は少し息を吸う。
「うちの姉弟三人で、一番政治家に向いてたのが弟だった。やる気もある、自制心もある。それでも熱血で、バカで、一生懸命なところが、私達姉妹の誇りだった」
もう二十年ほど前になるだろうか。彼女の弟は、その期待に答えることなく夭逝した。
事故だった。
「私多分、北条君をあの子に重ねてるんだと思う。歳も似たようなものだし。だから……」
「喪うわけにはいかない、訳ですか」
「そう。そうよ。北条君の頭脳が必要だからとか、あの才能を失うリスクを負いたくないとかそんなんじゃない。ただの私の、ワガママよ」
言い終わる頃には静はどこか、すっきりしたような表情になっていた。
「私も母親失格ね。部下と我が子とを天秤にかけて勘定するなんて」
静は自罰的にそう呟く。和田はそれを、否定することが出来ないでいる。
自分も、静とさして変わらない。
「和田君、ありがとうね。私の話聞いてもらって」
「昔から俺はそんな立場ですから、静先輩」
久々に和田は、静をその名で呼んだ。
政界に飛び込んでからはずっと大江さん呼びだったので、少し気恥ずかしい感じはするが、それでもこっちの方が呼びやすい。
「うん、うん……なら、そんな可愛い後輩にはご褒美あげなくっちゃね」
しばらく無言の間を開けた後、静は意を決したように椅子から立ち上がると、和田の前まで歩みでた。
「責任は全て私がとります。貴方にはなにも責任はとらせない。だから、選んで。北条君の案をとるか、否か」
静の手には二つの資料。一つは和田が手渡したJr.の資料。もう一つは、なにも書かれていない白紙のコピー用紙。
いつもそうだ。いつも、実行役として華々しく表舞台に立つのは静で、その屋台骨を支えつつ参謀役まで勤めてやるのが和田なのだ。
学園祭の衣装も、音楽のセッティングも、難しい決断を迫られた静の背を押してやるのも。いつも、和田の仕事なのだ。
損な役だと自覚はしている。結局上手く使われているだけだと言うことも重々承知の上だ。
それでも、それでも良いと思えるのはきっと、かつて惚れた弱みからなのかもしれない。
……全く、難儀な病にかかったものだ。
和田はそっと、Jr.の資料を手に取った。
「先輩、こっちで行きましょう」
「マサの目、信じるわね」
「ええ。俺の選択で失敗だったこと、無かったでしょう?」
二人は目を見合わせて、そう大きく頷いた。
執務室の扉の向こうで動いた人影に、二人が気づくことはなかった。
「……上手いこと運んだみたいです、土肥さ――いえ、トンビさん」
小さなピンマイクのようなものを口元に近づけ、女はしてやったりと笑みを浮かべる。
軽やかな足取りだ。望み通りの展開になって、嬉しさが動きに出ているらしい。
「直にそっちに発注の電話がいくと思いますので、よろしくお願いしますね。それでは、京極さんにはこちらから。はい、はい。失礼します」
総務省の廊下の窓から、鮮やかな西日が射し込んでくる。
西日は、思わず凶悪な笑みを滲み出させた渚沙を、まるで浮き彫りにするかのように明るく照らした。
「ナンコー君。良かったねぇ~……」