第72話 勝負どころはここからで
五メートル先すら見えないホワイトアウトの世界を、茶々丸は太刀を片手に突き進む。風圧と吹き付ける雪の感触が、彼女に寒さを錯覚させる。
不意に、正面に赤い二つの光が見えた。まるでクリスマスツリーの飾りつけのようにも見えるそれを見留めて、彼女は太刀を構えて嘆息した。
「また、か」
瞬間、その光は突如として上空高くへ飛び上がり、一直線に茶々丸の脳天に目掛けて迫り来る。
今だ。そう思った刹那、彼女は渾身の力で光に向かって太刀を振るう。
「キュッ!!」
太刀がそれを撫でた直後、そんな小さく高い声が響いた。雪中行軍を始めておよそ一時間。最早耳にタコが出来る程聴いた声だ。
――エビルラビット
それが光の正体だ。空路で到達できた前回は出会うことのなかった、ブリューナク近郊の雪原に登場する敵性モンスター。
弱い割に数だけやたらと多いので、必然的にエンカウント率が高い。茶々丸も、ここに足を踏み入れてからもう三十体以上と出くわしている。
「ドラゴン、悪天候で飛べませんって……」
そりゃ無いでしょ、と最後まで言い切る気力体力が勿体ない。太刀に弾かれてウサギの墜落したらしき場所に落ちているアイテムを回収した茶々丸は、重い足を引きずりながら行軍を再開した。
それにしても、この状況下で一人と言うのは流石に気が滅入るなと、彼女は心の中で呟く。
単純に一人で全方向に注意を配らなければならないと言う事情も勿論あるのだが、それ以上に誰の声も聴こえないと言うのは相当に心に来る。それほどに彼女はパーティーに感化されていた。
いっそのこと気分を紛らわせるために、九龍とボイスチャットを繋げながらと言うのも考えたが、それでは環境音が聴こえづらいと思い止まった。視界が悪い今の状況、聴覚まで制限されるのはなんとしても避けたいところだ。
「はぁ、こんなときに先輩が居てくれれば」
彼が隣にいれば、少なくともこの沈黙に苛まれることはまず無い。やかましいほどに賑やかで、かと思えばしっかりと周囲に気を配っている。
北条充は最早、作業対象でありながら、伊藤優輝がその実最も安心出来る存在になってしまった。その事に、彼女は危機感以上の喜びのような何かを抱いている。
「って、なに考えてんだ私」
ハッと冷静になった茶々丸は、そう呟いて首を横に振る。彼までこちらに閉じ込められれば、それこそ大事だ。
彼女の替わりはごまんと居るが、彼の替わりは誰一人として居ない。少なくとも茶々丸はそう考えている。だからこそ、今彼女がなすべきなのは、
「一刻も早く九龍さん達と合流しないと」
現実の事は先輩がなんとかしてくれる。史上最年少一佐かつフルダイブ開発の当事者で、大江大臣の秘蔵っ子だ。
だったら仮想の事は、私がなんとかしなければ。
そんな決意を胸に、茶々丸は雪を踏み締める足に力を込める。
「もう二度と、ダメエルフとは呼ばせませんからね……!!」
*
『総務省及び官邸として、我々は本事案解決のための現場責任者に北条充を任命する方針です。よって今後、御社の皆様方は彼の指揮下に入って頂きます』
充のスマホから会議室全体に響き渡るスピーカーになった大江の声に、役員の多くが目を見張る。中には椅子から転げ落ちそうになっている者までいる始末だ。
「それはまた突然ですね、大臣」
『事は一刻を争いますので』
驚嘆した顔で発言する役員に、大江はさらりとそう返す。普段の彼女からは想像もつかない冷静な態度だ。
「しかし彼はここの役員でもなければ、総務省の職員でも無いわけではないですか。何か事があれば取り返しがつかないのですよ?」
『彼はそもそもフルダイブ技術開発の第一人者です。この場にいる方々の中にも、彼の腕前を知る方は多いと思いますが?』
瞬間、大学時代の充を知る役員達が一斉に納得した表情を見せて頷き始める。こうなれば、外部役員の面々も食い下がらざるを得ない。
先ほどまで静に噛みついていた役員が椅子に座り込むのを見計らい、充はすぐに立ち上がった。
ここからが本当の勝負になる。この決断に、何十万、何百万の人々の今後と、この国の未来が掛かっている。
「それでは最初に、優先して防御するサーバーの指示を行います。全ての責任は言わずもがな、私が取りますので」
充はそう言って、一同の顔を見渡した。