第69話 夢見る羊達
あの人は……。茶々丸は思わずそう呟きかけて、声が出ないことに気が付いた。それどころか、身じろぐことすら出来ない。
金縛り。そんな単語が頭をよぎる。だが、これもイベントの演出なのだろうか? なんにせよ、気持ち悪いことに変わりはない。
「本クエストのクリア条件はただ一つ。二ヶ月以内にこの世界のどこかに出現した特別ステージ、『最果ての塔バベル』をクリアし、私を打倒すること。その間プレイヤー諸君は外部との連絡、及びログアウトが不可になるので、予めご了承願いたい」
無機質で無感情な顔色を一切変えること無く、男は淡々と、流れるように説明していく。……おい待て。今、なんと言った? 茶々丸は思わず自分の耳を疑った。
この男、今ログアウト出来ないと言ったか?
「あぁ、その間の衣食住その他に関してはご安心を。イベント開始時刻と同時にDDの安全システムから滞在地域の救急へ連絡が入っていますので」
まるで新入社員説明会を担当させられた、面倒くさがりの説明係のような口調で、男は何の感慨も無さげに、心底気だるげに言葉を紡ぐ。
茶々丸は頭がどうにかなりそうだった。こんな荒唐無稽で、現実離れした話、瞬時に理解しろと言うほうがおかしい。
そんな、小説やゲームでしか見たことの無い展開、あり得るわけがない。あり得て良い訳がないのだ。
そうだ、これはイベントだ。プレイヤーに没入感を与える語り口調に違いない。彼女はそう解釈することで。なんとか心の平穏を取り戻そうと試みる。しかし、
「次に、皆さんメニュー画面にご注目下さい。ライフバー上の赤い三つの丸アイコン。これが皆さんの二ヶ月の残基になります。制限時間がゼロになるか、残基がゼロになると強制的にゲームオーバーになります。つまり死にます」
そんな相変わらずの軽々とした語り口と共に、自身の意図と関係なく開かれたメニュー画面を目の当たりにして、彼女はついに自分の心を誤魔化せなくなった。
三つの丸いアイコンの付随したライフバーの下に連なる様々なアイコン達の中から、ログアウトが消えている。
その事実を認識してしまった途端、男が最後に呟いた一言が耐え難い重りと化して彼女の背にのし掛かった。
つまり死にます。
死刑宣告も同義じゃないか。全身からサッと血の気が引いていくのがわかった。動かないはずの体がガクガクと震えるようだ。
嫌だ、嫌だ。こんなところで死ぬなんて。理性が、本能が、肉体と電脳の垣根を超えてそう叫ぶ。しかし、それでも声は出なかった。
「もっとも、実際に死ぬのは肉体だけですのでこれまたご安心を。ライフがゼロにならない限り、二ヶ月経ってもこのゲームの中で電脳体として居きることは出来ますので」
そんな、最早何を安心すれば良いか分からないような、何のことかさっぱり理解できないことをひとしきり説明し終えた後、男は先程までとは打って変わって、堂々とした口調で言い放った。
「運命に抗いたくば剣を取り我が首刎ねよ。さもなくば二ヶ月後に来る楽園を夢見て生き延びよ」
瞬間、消えたテレビを点けなおしたように、世界に光が戻ってきた。クリスマスツリーは粒子になって舞い上がり消失し、男は既にそこに居ない。
茶々丸は、突如何の準備も心構えもなく突き付けられた受け入れがたい現実に、思わず膝をついて項垂れた。
協定世界時十二月二十五日午前零時(日本時間午前九時)。仮想世界は、現実世界と乖離した。
*
「はいもしもし、直監課の北条です」
辞書のような書類をデスクの上に投げ置いて、充はいつもと変わらぬ口調で手元にあった固定電話の受話器を取る。
この時間に外線で掛けてくる相手は、基本的に静かユメミライかのどちらか。さぁ、今日はどっちからの電話だろう?
「北条君無事!?」
耳に当てた直後、女性の焦ったような声が充の鼓膜を貫いた。正解は静だった。
それにしてもこの焦り様、どうしたのだろうか?
「無事じゃないですよ大臣。お陰でフルダイブ出来ずなんでリアルタイムでのイベント参加あきらめて延々書類の確認作業してるんですから。何かありました?」
「フルダイブしてないのね!! 良かったぁ……」
充の皮肉たっぷりの返答に、静は心の底から絞り出したような安堵のため息をこぼして言う。本当に、何があった?
「あの、大臣? どうしたんです? 何かあったんですか?」
ぞわり。得たいの知れぬ何かが足下に忍び寄るような感触が走る。生まれつき勘は鋭い方だったが、それにしてもこんな感覚、美幸の結婚報告の電話に出たとき以来だ。
「北条君、覚悟して聞いて頂戴」
静はそう、低く震える声で充に言った。
「ヨルムンガンド・オンラインから、ログアウトが出来なくなった」
窓の外から、救急車のサイレンが近づいてくる。充は受話器を放り投げ、優輝の居るフルダイブルームへと駆け込んだ。




