第35話 同じ夢は二度見れない
窓とカーテンを閉めきった、夜の真っ暗な部屋。充はゆっくりと黒いヘッドギアを外して、重い目蓋を持ち上げた。
「どう……?」
不安げな顔で、渚沙は呆然とした充の顔を覗く。
充はしばらくそのままの状態で俯いていたが、やがて気が付いたように顔を上げ、呟くようにこう言った。
「出来た」
そうしてまた顔を下に向け、感覚を確かめるように目の前で手のひらをグーパーグーパー繰り返す。次第に頭にかかったもやが消え、思考がクリアになってゆく。
瞬間、体が背後に押し倒された。畳に背中を押し付けられ、上体を優しく、力強く締め付けられる。
「やったね、ナンコー君!!」
渾身の笑顔を弾けさせ、渚沙が顔を埋めた彼の胸元で叫ぶ。嬉しくってたまらない。あまりに愉快で仕方がない。そう言うような声色だ。
「私達勝った! タインにも、教授にも、世界中のいろんな学者連中全員に!」
バッと両手を充の頭を挟むように畳について腕を伸ばし、なおも渚沙は満面の笑みを絶やさない。
閉めきった窓のお陰で、じっとりと蒸し暑い部屋。エアコン代わりの古い扇風機だけが、虚しく首を左右に振る。彼女の額から垂れた汗が、充の頬にポツリと落ちた。
「それじゃ、早速このデータUSBに移さなきゃだ!」
まるでクリスマスプレゼントを貰った子どものように、渚沙は素早い身のこなしでパソコンの前に転がり込むと、キーボードの操作を始めた。
快晴のような笑顔の彼女とは対照に、充の表情は曇天模様。
憂いを帯びた、等と言う綺麗なものではない。もっと見るに耐えない感情を無理に抑えて、それでも力が足りずに溢れてしまっている。そんな様子だ。
夢が叶った。その多幸感が無いわけではない。父を超えた優越感が無いわけではない。ただ、それとは異なる感情もまた、こぼれてしまいそうなのだ。
決断が迫られている。
秘密の研究が実を結んだ今、渚沙と共に暮らす理由は失われた。
彼女の無言の想いに答えるか、それとも、それを断るか。
「よし、完了!!」
シャーペンで文字の書かれた、白いマスキングテープをUSBに貼り付けて、渚沙はそう大きく延びをして振り返る。
「ナンコー君、ありがとね」
今度の笑顔は、ほんの少し寂しそうに見えてしまった。
一週間後。二人はどちらから言い出すでもなく、アパートを後にした。
お互い別れの言葉すら告げずに、二年に及んだ共犯関係は、ここに終結した。
*
「……これは」
「お前なら、見覚えがあるはずだ」
「…………どっから手に入れた?」
大誠の差し出したスマホの画面を見て、充は険しい顔をする。
表示されているのは、常人では何がなんだか理解の及ばぬであろう数式の羅列。だが、これが何なのか、充には良く理解が出来ていた。それ故に、理解が出来なかった。
「七年前の十二月二十五日。朝気が付いたら、俺の家のポストん中にコイツの入ったUSBが投函されていた。お前じゃないのか、みっちゃん」
充をじっと見つめる大誠も、眉間にシワを寄せて厳しい顔を崩さない。
「USBは東京のしんちゃんに渡してきた。今頃、ナギに事情を聴いてることだろう。……これがお前らのだって気付くのに、ずいぶん時間がかかったけどな。みっちゃん、俺より先に、完成させてたんだな」
「おい待てよ!」
大誠の言葉をかき消すように、充はテーブルを力強く叩いて叫ぶ。
「確かに、これは俺とナギの二人で作った。忘れもしねぇ六月二十日だ。でもな、誓って俺はお前の家にUSBを投げちゃいいない。そもそもその日はお前、花の命日じゃねぇかよ」
大誠の婚約者であり、充や信也の幼馴染みでもある花は、前日の昼に交通事故に遭った。
丸一日以上昏睡した彼女は、結局翌二十五日の夜に永眠。家に荷物を取りに行っていた大誠は、その死に目に立ち会うことは出来なかった。
「あの日、俺は丸一日病院に居た。花の親父さんに聞いてみろ、きっと同じことを言うはずだ」
「そういや、死に目に会ったのもお前か。なら、これを俺の家に投げたのは……」
顔を上げた二人の、目と目が合う。答えはただ一つ。というか、そもそも二者択一の状況だ。
「東京に帰ったら、ナギに直接会うしかねぇな。俺だったら、多分話してくれるはずだ」
「よろしく頼む」
「おう」
険しい顔を直せぬまま、充は席を立って部屋を出ようと歩き出す。
ドアノブに手を掛けたとき、ふと気になって聞いてみた。
「なぁだいちゃん。そういやそのUSBの持ち主、探してどうするんだ?」
質問に少し驚いて目を見開いた大誠は、柔らかな笑みを浮かべてこう言った。
「ありがとうって、言うんだよ」
*
――七年前、冬、東京都
「それじゃあ北条君は、ユメカガクには合流しないの?」
大学の敷地内。人通りの少ない隅の方で、大江静は不思議そうな顔をして言う。そんな彼女に、充はあっさりとこう答える。
「ええ、まぁ。あそこにはもう居づらくなっちゃいましたし」
ユメカガクの代表である実父、北条繁との仲は壊滅的。大誠とも、主義主張が正反対。そして何より、渚沙が居る。充の居場所があるようには、少なくとも今は思えない。
「ならこれから、どうするんだい?」
大江の半歩後ろに控えていた和田正義が、興味本位でそう聞いてくる。面倒見の良い親分肌の彼だ。純粋に充の今後を気に掛けてくれているのかもしれない。
そんな彼に、充は待ってましたと言わんばかりに「もう決めてるんです」と微笑んでみせ、ポケットからあるものを取り出した。
「これは……」
「へぇ」
「これを手土産に自衛隊に入る。なんて、許されると思いますか?」
充のごつごつとした手のひらの上には、貼られたマスキングテープに「Jr.」と書かれた、小さなUSBが乗っていた。
「大江さん。貴女の援助のお陰で、俺は教授を超えられた。その恩を、貴女の提唱していたフルダイブの防衛転換の確立という形で返したい。いかがでしょう?」
この日、北条充は新たな道に踏み出した。親友達とは一線を画す、新たな夢へと。




