第32話 凪の終わりは音もなく
「はぁ!?」
札幌市内の某ホテルのロビーで、充は思わず大声を上げた。瞬時に冷ややかな目が注がれる。
「あっ、やべ……ちょっと待ってくれ」
逃げるようにその場から離れてホテルの外に飛び出した充は、再びスマホを耳に当て、話を続けた。
「それ、ホントか?」
「ええ。本当です。お昼頃、オフィスの方に直接来られました。何でも、授業料が未払いだとか」
スマホの向こうの優輝は、冷静にそう返事する。時刻はもうそろそろ七時が近い。車の音やら喧騒が聴こえてくるあたり、彼女も仕事を終えて外にいるのだろう。
二人の話題は今日の昼。オフィスにやって来た土肥直久達についてのことだ。
彼らが辞した後優輝はすぐに充に電話を掛けたが、そのときは丁度小町らと話をしていたため、この時間まで延びてしまった。
「マズったな……先生のとこにはそろそろこっちから行こうと思ってたんだが」
「何か問題が?」
「今度会ったときに飲み代奢らされる」
「それは確かに一大事ですね」
大きなため息をついて、充は土肥の顔を思い出す。
浅黒い日焼けした肌に、五十代前半にして白くなった頭を五分刈りにした、細身で気の弱そうな男性。右眉から額に至るまでの大きな傷跡が、穏和な彼に陸自幹部としての威厳と箔をつけている様にも思えた。
階級部門問わず別け隔てなく接する優しさと、仁王の如き厳格さや責任感を持つ理想の上司であり、充にとっては敬愛すべき師匠。
そして大江静総務相、和田正義防衛相らとともに、彼を三十歳という前代未聞の若さで一等陸佐に昇進させた、北条充を作った男。
「毎年恒例なんだけど、あの人に酒代奢ったら破産しちまうんだよなぁ……わかった、後の事はこっちで済ましとく。ありがとな。明日の昼には土産と共に帰るから」
苦々しげな声で充はそう言って、通話を切ろうとする。そのとき、
「あっ、課長一つよろしいですか?」
「ん? どした?」
引き留める優輝の声に、充は慌ててスマホを元の位置に戻す。何か言い忘れでもあったのだろうか?
「新稲渚沙さんって、ご存知ですか?」
「…………」
*
数十分後、充は通話を終えて大誠の部屋に戻ってくる。
「おっ、帰ってきたか。ほれ、サッポロビール。北海道に来たなら、これ飲まねぇとな」
赤い顔で、大誠は帰って早々の充にビールの缶を差し出した。通話中に、すでに幾らか飲んでいたらしい。テーブルの上には、空き缶が数本転がっている。
「あー……いや、今は良いや。気分じゃねぇ」
差し出されたビールを、充はそう言って大誠に戻す。ずいぶん気分が悪そうだ。顔色もまるで優れない。
「珍しいこともあるもんだ。ホントに大丈夫か? 一応念のためにノンアルもあるぞ」
「あぁいや、ちょっと気が乗らんだけだ。ノンアル飲むわ」
心配そうに、ビールをノンアルコールにすげ替えて差し出す大誠からそれを受け取り蓋を開け、充は一気に飲み下す。
「……っだぁ!!」
がしゃり。充は空になった缶をテーブルに叩きつけて握り潰す。一息に飲んだからだろうか、呼吸も少し上がっている。ここまで荒れている彼を見るのは、大誠も数年振りだった。
「何かあったか?」
困惑と心配の入り交じったような顔で、大誠は充の顔を覗く。眉間にシワを寄せ、うつむいた充はしばらくそのまま何を言おうか迷った挙げ句、握っていた缶から手を離し、だらりと垂らして力なくボソリと呟いた。
「ナギが、うちのオフィスに顔出したらしい」
はじまりは、彼らの大学時代にさかのぼる。
窓の外が騒がしい。強い風が、吹き始めたらしい。