第28話 鬼の居ぬ間に胃痛の種を
――同日、東京都・虎ノ門
優輝はこの日、朝から直接監察課のオフィスで一人事務仕事に従事していた。と言っても、昼食を終えたあとはすぐにヨルムンガンドへ潜るのだが。
音声読み上げ機能などを駆使しながら、彼女は慣れた手付きでパソコンのキーボードやマウスを操り、作業を見る見る消化する。
誰もいないオフィスは、いつもより少し静かだ。別段に寂しい訳ではない。気楽で良いとさえ思う。北海道にも監視の人員を融通して貰えたので、不安もそれほど無い。
ただ、何か空虚だ。それは彼女が仕事を始めて、初めて抱く感情だった。いや、正確に言うと初めてではない。正しくは二度目だ。だが、最初のときとはまた違う毛色だ。
最初に抱いたときの理由は、自身でもある程度理解できている。仕事でヘマした挙げ句視力を失い、その尻拭いを上司にして貰い、命さえも助けて貰った。
見えていたはずの景色が見えない。約束されていたはずの将来が霧散した。そう言った細々した理由もあるが、やはり一番は、その上司を結果的に死なせてしまったことだろうか。
警察官になりたての頃から、指導役としてずっと目を掛けて貰っていた。今の立場があるのも、彼の口添えがあったから。
そんな上司を、恩人を、自分が死に追いやった。まだ幼い子どもも、目の不自由な奥さんも居るのに。
そのときは、流石に耐えられなかった。病院の屋上から、飛んでやろうかとも思った。でも、出来なかった。そうして彼女は今、ここにいる。
これは仕事だ。課長が憎い訳ではないが、彼からすれば自分は獅子身中の虫。バレればきっと、ただではすむまい。だから、またあのときのように気を許して、同じ轍を踏むわけにはいかない。
だと言うのに、だと言うのに、この感情は……なんだ? 優輝は、自分で自分が分からなくなりそうだった。
そんなとき、ふと廊下から足音が聞こえた。二人だ。
一つはカツカツと響く革靴の音。一歩一歩がもう一人より少し大股で、力強い。男だろう。
もう一つは、スニーカーの音のようだ。足音も少し軽い。女のように思える。
微かに話し声も聴こえてきた。……よし、どうもアタリらしい。相手は男女一人づつ。足音の向かう先は、
コンコンコン
ここか。優輝はイヤホンを耳から外し、「はい、どうぞ」とドアに向かってそう告げる。
ノックの主は「失礼します」と、低い男の声でそう言ってドアを開けた。
「初めまして。土肥直久と申します。それとこちらは、」
「新稲渚沙と言います! 北条充課長はどこにいますか?」
一行は、部屋に入るなりそう言って素性と目的を端的に話す。土肥に新稲、どちらも優輝には聞き覚えのある名だ。
土肥直久。所属は陸上自衛隊で階級は陸将補。
陸幕で人事部補任課長や、朝霞駐屯地司令等を歴任した後、現在は防衛装備庁に出向して自衛隊にフルダイブ技術を導入するためのプロジェクトに参加中。
自衛隊内では個人で『土肥学校』なる勉強会を開き、幹部候補生達を育てて輩出しているなど、精力的に活動。……北条充も、そこの出身とのことだ。
新稲渚沙の方は、もう少し得ている情報が少ない。充達と同じ大学の同じラボに所属し、フルダイブ研究に貢献。ユメカガク発足時の初期メンバーでもある。
そして、――これは眉唾な話だが、かつて北条充と同棲していたこともあるとか。
まぁ、この手の情報は、あまりあてにしない方が賢明だ。新しく情報が来るのを素直に待とう。
「土肥さんに、新稲さんですか。申し訳ありませんが、北条は今出張中で留守にしておりまして」
デスクの脇に立て掛けておいた白杖を手に取り、優輝は立ち上がって丁寧に腰を折る。
瞬間「えぇー!」と、大きな声がオフィスに響いた。新稲の物だ。あてが外れたのが、そんなにショックだったのか? そう思って、優輝は次の言葉を待つ。
「申し訳ない。いつ頃帰ってくるなんて話、彼はしていませんでしたか?」
少しの間をおいて次の言葉を紡いだのは、新稲ではなく土肥の方だった。物腰柔らかそうな、穏やかな声で彼は優輝にそう訪ねる。
……この声は、何かを繕っている声だ。
「いえ、なにぶん突然出張に行ってしまったものですから」
「…………そうですか。申し訳ない。それではまた、出直すことにします。あぁ、もしよろしければ、彼にこう伝えて頂いても?」
優輝は黙ってこくりと頷く。土肥は静かに、こう言った。
「――授業料が未払いだ。とっとと耳揃えて払いやがれ」




