第5話:望郷の夜
この大地震でもさして被害を受けなかった宿屋は三階建てで、堅牢な石造りの建物だった。エントランスから入ったホールには人々がごった返し、思い思いの場所に陣取って身体を休めている。部屋の扉はほとんどが開け放たれ、数人で一部屋を共有しているようだった。
それを見ると、自分たちが一人で一部屋を使うのが申し訳ない気持ちになってくる。そう思い自分の部屋を返そうと申し出たのだが、断られてしまった。
俺は貸し出された自分の部屋に入ると、ベッドに仰向けに寝っ転がった。柔らかな感触の中で、俺は疲労感に包まれていた。考えてみれば、もう24時間以上連続で起きてるわけで、しかも肉体労働もしたわけで、そりゃ疲れてるはずだ。
暗い部屋には照明のようなものはなく、窓から月明かりが漏れさしている。
――あー、この世界にも月があるんだ。俺の知る月よりもなんか明るいなあ。
薄明かりの中で部屋を観察してみると、室内には大きめのベッドが一つと木製の机があり、その上にはなんか石みたいなものや調度品が乗っかっている。壁にはタペストリーがかけられている。飾り気のある部屋で、多分それなり以上には上等な部屋なのだろう。しかし、あの石は何だろう?
一人になってしばらく経ってから、俺は不意におぞましい寂しさに包まれた。
何だよ、畜生。割り切ったと思ったのに、いつもと違う天井を見ているともう戻れないかもしれない日常が急に愛おしくなってきやがる。
朝の遅刻ギリギリのチキンレース。
友人達との下らない雑談。
退屈な歴史の授業。
昼の購買でのパンを巡るデッドヒート。
眠気との死闘が繰り広げられる五時間目。
放課後の買い食い。
友人達とのカラオケパーティー。
何の変哲もない夕食。
そんな当たり前の平和な日々が、今は断絶の向こう側にある。
そして、胸が押しつぶされそうになったとしても、悩みを打ち明けられるような相手もいない。偶然にフェアリーゼと知り合ったとはいえ、やはり他人に過ぎないのだし、何より彼女は高貴すぎる存在だ。やがて自分の手の届かないところに帰るだろう。
孤独だという実感が、得体のしれない塊となってのしかかってくる。
頼れるもののない寂しさ。
どう転ぶとも分からない不安。
怖気が胸の奥からこみ上げ、涙を誘う。
絶望感と格闘していると、不意にドアをノックする音が聞こえた。
返事をしてドアを開けると、フェアリーゼの姿があった。彼女の顔を見て、なぜだか急にほっとした気持ちで満たされる。
「リュウ、どうしたんですか? こんな真っ暗で――あ」
言って、何かに気付いたようだった。
フェアリーゼが机の上に置かれた石に手をかざすと、『マリクト』と唱える。すると、石から光が放たれて室内を照らし出した。
「そっか、その石は照明魔法のデバイスだったのか」
「ええ。照光石と言います」
と、俺はいい加減「発語」の魔法を切ってもいいことに気がついたので、指輪に意識を向けて「レクト」と唱えた。
フェアリーゼがベッドに腰を下ろす。
「凄いですね、リュウは」
「何が?」
「あんな風に行動できるなんて、です。情けないですけど、私、リュウが動くまで何もできませんでした。まつりごとに携わる者として、失格ですね」
自嘲気味に言う。
「そんなことはないさ。俺だって、過去の経験がなかったら動けなかったさ」
「過去の経験?」
フェアリーゼが聞いてきたので、俺は昔大震災に巻き込まれたときのこと、そして何もしなかったことを悔いていることを話した。
「そんなことがあったんですか」
「ああ」
不思議と、こうして話しているとささくれていた気持ちが安らいでいくようだった。
「あと、これからのことなんですけど……今夜、この部屋で休ませてもらってもいいでしょうか」
と、はにかんで言った。
え? ちょっと待て。フェアリーゼが俺の部屋で? そ、そそそそそんな恋のステップを三段跳びに、いきなり大人の階段登っちゃうような真似が許されるなんて――
「さっき、部屋を引き払ってきたんです。この状況では一つでも部屋を開けて使ってもらった方が良いでしょうし」
――あ、何だそういうことか。テンション墜落大炎上。
落胆を隠しつつ、俺は疑問をフェアリーゼにぶつける。
「けど、何て言ったんだ? さっき俺も店の人にそう言ったんだけど、にべもなく拒否されたぞ」
「えー、と……」
フェアリーゼがふと視線を逸らす。
「すみません、夫婦だから一部屋でいい、と言って納得してもらいました」
言われて、なるほどと思った。上手い説得だ。しかし、ここが小さな村で素性を一応隠してるとはいえ、変な噂が立ったりしないのかなあ、とちょっと不安になった。困るのは俺じゃなくフェアリーゼなだけになおさらだ。
だけど、嘘でもそういう方便をサラリと言ってのけるというのは、俺が想像している以上にフェアリーゼは芯が太いのかもしれないな。
しかしそうなると、俺が寝るのは床の上か……ま、いっか。まさかフェアリーゼを床に寝かせられるわけがないし。
「それにしてもリュウって力持ちなんですね」
「見かけによらず、ってか?」
「はい。……あ、いえ」
失言だと思ったのか、フェアリーゼが言い直す。
「あはは、いや、俺だって自分がこんなに力あったなんて驚いてるよ」
「あ、ひょっとして……」
またフェアリーゼが何かに気付いたようだった。
「もしかしたら指輪の効果なのかもしれません」
「指輪の効果?」
「ええ。お渡しした指輪には解語、発語の他に強化や防壁の魔法なんかも込められているんです。強化は文字通り身体能力を高めるものなので、その効果によるものかも」
「なんだ、それじゃ俺の力じゃなくて指輪の効果か」
ちょっと残念だった。異世界効果で本当に力持ちになってたりしたのかなぁ、なんて思ってたのに。ま、世の中そう都合良くはいかないか。
「いえ。普通、強化の魔法が目に見えて現れることは少ないんです。強化は随意型なのですが、効果を体感するには相当に強大な魔力が必要なんです」
説明するフェアリーゼの口調は何だか軽く興奮しているようだった。
「なので、もしそうだとするとリュウは凄い魔力を持っているのかもしれません。確かめてみますか?」
聞いてきたので、俺は頷いた。
「それでは……そうですね、指輪をつけたまま、その、ええと、聖堂のときみたいに、その……私を持ち上げてみてください」
薄暗がりにもフェアリーゼの頬に朱がさすのが分かった。恥ずかしいならそんなこと言わなきゃいいのに……と思ったのだが、部屋の中で力試しできそうなものといったら他にはベッドくらいしかないのか。適当っちゃ適当か。
俺は心臓が高鳴るのを押さえ込もうとしながら、フェアリーゼに近づいた。
「それじゃ……失礼」
ことわって、俺はフェアリーゼの背中とひざ裏に手を回して力を込める。華奢な身体がふわり、とはいかないがゆっくりと持ち上がる。何というか、10~20キロくらいのバーベルを持ち上げた感覚に似ているというか。
……女の子をバーベルに例えたなんて知れたらぶん殴られても文句言えないな。
甘い香りが鼻孔をくすぐる。洞窟では焦っていたから気付かなかったが、お姫様抱っこをすると顔と顔がすごい近い距離にくるのな。身体も密着しているし。俺はつい意識してしまい、フェアリーゼから視線をそらす。
しばらく堪能し、理性が本能を押さえつけていられる間に俺はフェアリーゼを下ろした。
「それじゃ、今度は外してやってみてください」
言われるままに指輪を外し、同じように持ち上げようとしてみる。
……ぐわっ、お、重い! ていうか、浮かない!
フェアリーゼが俺の首に手を回したことで、辛うじて少しばかり浮かせることができた……が。
「ぐ……が……お、重い……。……ごめん、無理!」
俺は諦め、フェアリーゼを下ろした。うへー、お姫様抱っこって本当はこんなにキツイのか。まあ確かにろくに身体を鍛えたことがないわけだし、元々の体力の無さには自信がある方ではあったのだが。
俺は指輪をはめ直す。
「……女の子に重いだなんて、失礼です」
むくれたように言ってきた。うわ、失言。なんつーベタな。ま、その口調は「ダメだぞこのっ」ていうような感じだけど。
「やっぱり、強化の効果でしたね。それと、リュウが大きな魔力を持ってるということも分かりました」
そっか。ってことは、俺も自分の意思で魔法を使ったりできるのかな?
火の玉とか雷撃とかぶっ放してみたいなあ。それとか津波起こしてタイダルウェイブ! みたいな。
タイダルウェイブといえば、あー、もうRPGもできないんだなあ……と思い、俺は携帯電話のことに気がついた。ゲームが数本ダウンロードしてあるじゃあないか。しかし、考えてみればバッテリーが持たないのだけれど。
やっぱ、バッテリーは何とかしておきたいなあ。
「あと……あんな風に抱っこされるのって、いいものですね」
と、舌を出して照れたように言った。その様子があまりにも可愛らしく――
「ぷ」
俺は吹き出してしまった。笑う俺に、フェアリーゼもクスクスと笑みをこぼす。
それにしても、文字通りの"お姫様"抱っこ、てなわけか。
「もう、笑うなんて失礼です」
「はは、ごめんごめん。つい」
「でも……不思議です。リュウが相手だと、飾らずにいられるというか」
「そっか」
言われて、俺はフェアリーゼの立場を考えてみた。お姫様ってくらいだから、立場柄あまり気楽に話せる友達とかもいないのかもしれないな。側近とかだってご機嫌伺いしてるばかりだろうし。
その一方で、俺はフェアリーゼが"お姫様"だと聞いたとしても「へーすごい」と思う程度のものだ。人対人のマナーくらいは当然のこととして気をつけるが、必要以上にへりくだるつもりも無かった。なんつーか実感無いし、そうする必要があるとも思えない。
フェアリーゼはそこら辺のことを言ったのかな。
「城では気を許せる人なんて、お父様か第三王女のエストくらいしかいませんから。……ねえ、リュウ」
「ん?」
「私と、友達になってもらえませんか?」
「何言ってんだ」
俺がそう言うと、フェアリーゼが露骨に悲しそうな顔をする。
「――もう、友達だろ」
フェアリーゼが微笑む。
「ありがとう」
そのついでに、俺はずっと心に引っかかってることを言おうとした。
「……あと、その、なんだ。一つ、謝らなきゃならないことがあるっていうか……えーと、ごめん。聖堂でやったこと、わざとじゃないんだ。アクシデントというか、事故というか、……だから、とにかくごめん」
頭を下げる俺に、フェアリーゼがきょとんとした表情を見せる。
「聖堂でやったこと……」
しばらくして、フェアリーゼの顔がリンゴよりも真っ赤に染まる。
「――っ!」
「ごめん」
「……リュウ。顔を上げてください」
「え?」
と顔を上げると、平手がパシィーンと飛んだ。突然の衝撃に、脳天がクラクラと揺さぶられる。
くぁー、効いた!
「これで、おあいこです」
ちょっとむくれたような、でも心底怒ってはいないような、そんな複雑な表情だった。
「……私だって、リュウがわざとじゃないってことは分かってます。だから許しますし、これで終わりです。蒸し返したら、今度は本当に怒りますよ」
「ああ、分かった」
もう、ごめんとは言わない。言ったらきっと怒るだろう。これであいこなのだから。
「それと……あそこで見たことはきれいに忘れてください」
んな無茶な、と言いたくなってしまうが、詰め寄ってにらみ上げるフェアリーゼに負けて「ハイ」と返事をしてしまう。
「それじゃ、そろそろ寝ましょうか」
言われて、俺は無意識に時計を探してしまう。壁掛け時計があるのを見つけて、俺は違和感に気がついた。自分の知る時計が12分割で24時間を計るのに対し、この時計は8分割しかない。8時間か、その倍数で一日が進行するということか。うーん、自分の常識が通用しないなあ。そもそも、一日の尺自体が同じっていう保証もないわけか。
ま、いっか。時間がどうだって。少しずつ慣れるさ。
フェアリーゼが布団に潜り込む傍ら、俺は床に寝っ転がった。絨毯が敷いてあるから、そんなに寝苦しくは無さそうだ。
「何してるんです?」
「何してる、って、寝ようとしてるんだけど」
「床でですか? ベッド、空いてますよ?」
言って、ぽんと布団を叩く。見てみると、フェアリーゼはベッドの片側に寄ってスペースを開けていた。
はい? 一つのベッドで、ですか?
いやいやいや、年頃の男女が一つのベッドで寝るなんてとんでもない。それともあれですか、これは遠回しに誘っておられるのですか? いや、そう言われても心の準備ってものが――ん?
俺ははたと気付いたことがあった。
時は江戸。大衆浴場は基本的に男女混浴という、今を生きる俺の常識では考えられないシステムになっていたそうな。つまり何が言いたいのかというと、要するに、フェアリーゼに他意は無いんじゃね? ってことで。
俺の常識でこそ男女同衾はすなわち愛を語らうことと同義なわけだが、風土も価値観も違うこの世界では特に深い意味は無いと考えるのが正しいように思える。いや、本当は意味があるのかもしれないけどさ。
実際、俺を見つめるフェアリーゼは無垢な表情にクエスチョンマークを浮かべているような感じだ。
考えるのもアホらしくなって、俺は素直にフェアリーゼの横に潜り込んだ。
体温と鼓動が微妙な距離を通じて伝わってくるようで、俺は思わずつばを飲む。
「それじゃ電気、消しますね。レクト」
照明が落とされる。窓からこぼれる月明かりだけが、うっすらと室内を照らし出している。
「それじゃ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
気持ちは割り切っても、寝付くには大分時間が必要なようだった。
……つーか、寝れねぇっつーの。