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第16話:湯煙の中で

 入浴の習慣というのは、いま俺が考えているほど昔は一般的では無かったらしい。ことに中世ヨーロッパあたりにおいては、だ。


 そんなことを端的に表現しているのが、香水の発達であるらしい。彼らは肉が主食であったために体臭がキツかったということも理由にはあるらしいのだが、一方では入浴習慣がなかったことによる体臭を誤魔化すためにも香水は重要な役割を持っていたらしい。


 まあ、中世ヨーロッパの信じられない悪臭文化といえばトイレの話もあるのだが……。これはさすがに耳を疑った。ガルディ・ルー!


 入浴習慣のある文化圏でも、各家庭に浴槽が普及したのは最近のことだって聞く。江戸時代には、火事の恐れがあるからと家庭で浴槽を焚くのは禁止されていたらしい。中世ヨーロッパは……分からない。が、文化を紐解いたときに公衆浴場の話しか出てこないってことから、家庭に浴槽が普及していたとは考えにくい。


 要するに、だ。


 俺は昨日も一昨日も風呂に入ってないし――強制的に水浴びはさせられたが――運動してきたのだからして、ひとっ風呂浴びて汚れを落としたいと思うのは正常な心理だと思うんだ。


 そして、浴場というのはその性格からして湯が張られるのは日が沈んでからだ。こんな日が高いうちから湯を張っても、エネルギーの無駄遣いでしかないわけだ。


 しかし、エネルギーを無駄遣いしまくっても痛くもかゆくもなければ咎められることもない人たちがいる。


 つまりは特権階級である王族だ。


 ここ王宮には、一つだけ常設の浴場がある。すなわち――王族専用浴場。


 あろうことか、俺はいまエストから入浴のお誘いを受けている。生理的に断る理由も無ければ、お誘いを受ける必然性もある。


 そう、決して、断じて、天地神明に誓って、やましい理由からではないのだ。


「けど、そんな風呂に俺が入っちゃって大丈夫なのか?」


 いま、俺たちは王宮一階の通路を歩いている。他には洗濯物を抱えた女性たちが忙しそうに歩き回っている。


「大丈夫大丈夫、もともとそんなに厳密なものでもないしね。お客さんに使ってもらうこともちょくちょくあるくらいだから」

「ふうん……」

「それに、この時間帯からお風呂に入る人なんていないし、他に誰もいないから気にすることないよ」


 そうなのか、残念。


 ……って、違う違う断じて違う!


「けど、衛兵とかに呼び止められて『貴様何をしているかーッ!』なんて、ならない?」

「衛兵なんていないから大丈夫」

「でも、それって不用心じゃないか?」

「着いたわ。ここよ」


 俺の質問には答えず、エストが立ち止まり、壁に向き直る。


「ここ、って……何も無いんじゃ」


 見ると、壁には扉の枠を示すような溝はあるものの、どう見たって動かせたりできそうにはない。取っ手もない。そして、その脇にはブローチのようにあしらわれた壁飾りがあり、中央には紅いルビーのような石がはめ込まれている。


「ま、見てなさいって」


 と、得意そうな笑みを浮かべるエスト。


 壁飾りに向かって、左手の甲をかざす。その薬指には緑色の貴石のはめ込まれた指輪が装着されていた。エメラルド、かな?


 左手の薬指!?

 ……って、文化も何も違うんだったっけ。ああびっくりした。まさかエストに婚約者でもいるのかと思ってしまった。


「エントラッセ」


 そう唱えると、指輪から一条の紅い光が伸びて壁飾りに吸い込まれる。

 すると、壁の溝の内側――つまり扉に相当する部分が淡く光り、その姿を消した。


 通路が姿を現したのだ。


「……なるほど、だから衛兵も何も要らないってわけね」


 衛兵なんかいなくても、鍵を持ってない人間がどうこうすることはできないわけか。


「そういうこと」


 俺はエストの後をついていく。中に入ったところで、エストは壁の内側にあしらわれた同様の壁飾りに手の甲を向け、


「クロセット」


 と唱える。そして、通路が壁に塞がれる。


「もし、壁のところに人がいるのに塞ごうとしたらどうなるんだ?」


 素朴な疑問だったが、つい"いしのなかにいる!"を想像してしまって聞かずにはいられなかった。


「センサーが働いてて、人がいたら閉まらないようになってるの。まあ閉めちゃっても、ハマるだけで大事には至らないみたいだけどね」

「へえ」


 どうやら、壁と融合だとかそんな恐ろしい事態には至らないらしい。グロい想像をして、俺は頭を振った。


 通路を歩いていくと、湯煙が漂ってきた。心地よい蒸気の香りが視界を満たす。あぁ、この匂い、ほっとするなぁ。


 そして、脱衣場に出た。脱衣場は胸上ほどの高さの壁が中央にそびえ、そこから石の棚が突き出している格好だ。多分、ここに脱いだ服を置けってことなんだろう。そして、棚にはハンドタオルとバスタオルが等間隔に置いてある。


 俺がもじもじしていると、エストがついたての向こう側で大胆に服を脱ぎはじめる。しかし、肝心な部分はついたてに遮られて見えなかった。残念なような、ほっとしたような。


 エストが気楽に風呂に誘ったのも、部屋のこういう構造を知ってたからなんだろうな。


 さらに、棚には他の誰の衣服も無いことを確認して、俺はほっと一安心する。王族が何人いるのか知らないけど、知らない人に会うのは気まずい。ましてこんな場所では。


 俺も意を決し、衣服を脱ぎ始める。見えてないんだ。うん、気にするな。


 手早く衣服を脱いで一糸まとわぬ姿になると、そそくさと腰の部分にバスタオルを巻いて肝心な部分を隠す。バスタオルを使ったのは、ハンドタオルだと心許ないという情けない理由だったのだが、バスタオルは女性の身体を覆い隠すのに十分なだけの大きさが取られているようで、腰から下を隠すには少々大きすぎた。


 バスタオルが大きいのって、隠して入浴することを前提として作られてるからかな?

裸で入浴する習慣さえ、一般的とは言い切れないって聞くしな。


 一歩先に浴場に向かったエストもまた、身体にバスタオルを巻き付けて隠している。


 こうなってしまうと、水着でいるのと大差ないな。よし、割り切っちゃえ。


 ガラス戸を開けて中に入ると、ツルツルに磨かれた多分大理石だろう床面に、流線型の波打つような縁を持った浴槽が床下のレベルにしつらえられている。床面をくりぬいてお湯を満たしてあるような格好だ。


 広さはというと、ちょうど学校の教室くらいだろうか。広いと言えば広いし、王族風呂にしちゃ狭いって言えるかもしれない。が、贅沢な作りであることに変わりはない。


 俺の知る浴場との違いはというと、蛇口がないことだ。変わりに、お湯が絶え間なく流されている打ち湯みたいなものがある。


 俺はエストにならい、打ち湯で一通りの汗を流すと湯船に浸かった。お湯の温度は、ちょっとぬるい程度だ。40度弱くらいだろうか。


 そう言えば、日本の風呂って"熱い"部類に入るんだって聞いたことがあるな。


「うーん、極楽極楽」


 エストが大きく伸びをして言った。


「やっぱり、運動した後のお風呂っていいよねぇ」

「ああ、そうだな。……いつつ」


 俺はピリっと電気が走るような痛みを覚え、右腕を触った。両足の筋肉も痛む。


「さっきも"覚醒"使ったでしょ」


 さっきというのは、例の痴漢野郎のことなんだろう。


「ああ。っても、使おうとして使ったわけじゃないんだけどな。何ていうか、集中すると勝手に発動してしまうっていうか」

「そうかもね。魔法の性質上、発動しっぱなしにもできなければ、起動ワードをつけるような悠長なこともできないしね」

「何とも、不便だなあ」

「ふふ。リュウならそのうちコントロールできるようになるよ」

「そんなもんかねえ」


 何とも、魔法という物に不慣れであるからして実感が伴わなかった。


「けどまあ、いきなり違う世界にぶっ飛ばされたにしては、生活するに案外困らないもんなんだなあ……」


 呑気に風呂なんかに入っていると、ふと思ってしまう。


 ただ、それは"運が良かった"ということに他ならない。運良くフィーと出会えたことが、しくも俺に生活の基盤を与えてくれたのであって、出会った人によってはどう転がっていたかは定かではない。


 もし、奴隷売りだとか闘奴の調教師みたいなものに出会っていたらと思うと、ぞっとする。そんなものがいるのかどうかは知らないが。そう考えると……奈美や理子は無事でいるだろうか。謙也はどうでもいいけど。むしろ剣闘士でもやってろって感じだ。


 しかし……運が良かったと考えるのは、何となくフィーやエストを"利用している"ようで嫌だった。彼女らが優しいからこそ、それを裏切るような邪な気持ちを抱いてしまうことに嫌悪感を覚えてしまう。


 だから、自分で食い扶持を稼いで、生きていけるということを示したくもあった。幸いにして、お金を稼ぐ方法はエストに教えてもらった。あとは実行に移せばいいだけだ。魔力という武器もあるようだし、いざとなれば知恵もある。何とかなるだろう。


 そんなことを考えてしまうのは、あるいは心に幾ばくかの余裕ができてきたということなんだろうか。う~ん……


 考えながら、心地よい空間に身をゆだねる。エストもいまは快楽を堪能することに専念しているのか、特に何かを喋ろうとはしない。


 沈黙の中、打ち湯の音だけが規則的に鳴り響く。気まずさは無い。


 はぁ、いい湯だ。欲を言うなら、もうちょっと熱い方が好みではあるけど。


 のんびりとくつろぐこと、数分。


 ガチャン、と入り口の方で音がした。


 その音が誰かの来訪を告げるものだと気付くのに、時間は要しなかった。


 湯煙の向こう側から現れた姿は、良く見知った顔だった。熱気のせいか、その表情はやや上気しているように見える。


「やっぱり、リュウでしたか」


 フィーも身体にバスタオルを巻いて、右手は胸元でキュッと握りしめている。それがガードの堅さを示しているかのようだった。


 ちゃぽん、と湯船の中に入ってくる。


「姉様、どうしたの? こんな時間に」

「公務が一段落ついたから、ね。仮眠を取る前に身を清めておこうと思って」

「仮眠って……まさか、昨日帰ってきてからずっと公務をやってたのか?」


 照れくさそうに微笑む。俺が惰眠を貪って魔法でばちばちどっかんやってる間に、フィーは頑張って仕事をしていたわけか。何か自分がすっげぇ情けなくなってくる。いいのか、俺。


 そしてエストも似たような感情を抱いているらしく、ばつが悪そうな表情を浮かべている。


「三日前の大地震で、事務書類がたまってるんです。でもお父様たちは現地視察に出ているから、私が代わりに処理してるんです」


 代わりに、ね。言うほどそれが軽いものではないことは俺でも分かる。それだけの信頼を置かれ、仕事を任されているというのは、フィーの能力と人徳がなせるわざなのだろう。


「何か手伝えることってないか?」


 何とはなしに罪悪感が口をついて出る。無駄だろうと分かっていても、訊ねずにはいられない。


「ありがとうございます。でも、本当に一段落付いたので、もう大丈夫です」


 言って柔和に微笑む。


 そうは言うが、さっき"仮眠"と言ったのを聞き逃してはいない。つまり、仮眠を取ったらまた公務につかなきゃならないってことなんだろう。


 しかし"大丈夫"って言ってるのを、問いつめるわけにもいかない。無力だなあ。何かしてやれることはないもんだろうか。


「なあ、フィー」

「何です?」

「昨日は、ごめんな。俺が悪かった」

「いえ。……本音を言えば、嬉しかったんです。でも、あの状況だとリュウをかばうことができなかったんです。余計、立場を悪くしてしまうから。本当に……ごめんなさい」


 言って、申し訳なさそうに目を伏せる。


 そう言われて、俺は自分の推測が間違っていなかったことに安堵した。そう思ってはいても、本人の口から聞くまではやっぱり確証を持てないわけで。フィーがどう思っているのか、不安があった。


「昔から、ああいう理不尽なのって許せない性格なんだ。周りからは、良くガキだなあなんて言われたりするけど、さ。俺も、大人にならなきゃいけないのかな」


 俺は苦笑する。


「そんなことありませんよ。素敵だと思います。私も、リュウみたいに振る舞えたらなあって思うことはあります」


 微笑んで言う。


 フィーは立場柄、自分を押し殺さなきゃならないことも多いだろうしな。


 けどこういうもめ事を起こす度に、もっとうまいやり方があったんじゃないだろうか、と思う。もめ事を起こさずに、自分の意思を伝えられて、丸く収める方法が。多分、それが大人になるっていうことなんだと思う。


 もっと、大人になりたい。


 物理的にじゃなく、精神的に、だ。


「……なーんかいい雰囲気ねー、お二人さん」


 ぶっ。


 おもむろに何を言い出しますか。


「そ、そんなんじゃ……」


 と、手を振ってさせて慌てるのはフィー。


「そんなんじゃ、何?」

「……」

「違う、とか?」


 エストの誘導に、フィーは小さく頷いた。頷いたと言うべきか、頷かされたというべきか。


 これは……なんだ。まさか、脈があったりするのか?


 ……ンなわけねえか。フィーのことだから、拒否するのも苦手とかそんな感じなんだろう。


「ふーん」


 エストが両手を組みあわせて腕を前に伸ばす。ぱちゃん、としぶきが飛ぶ。そして、俺のそばによって腕を絡ませてくる。


「じゃ、あたしがもらっちゃってもいいんだよね?」

「んなっ!」

「!」


 俺はエストの突然の発言に、思わず固まってしまう。そしてフィーも何故か、驚いたような表情を浮かべて硬直していた。


「本気……なの?」


 軽い口調で言うエストとは対照的に、フィーが神妙な面持ちで問う。


「うーん……半分冗談で、半分本気、かな」


 言って微笑む。


「いいな、って思ってるのは事実だよ。でも、まだ好いた惚れたには早すぎるかなあ、っていう感じ」


 ストレートに「好きだ」って言われるよりも、遥かに生々しくて説得力のある台詞に俺は思わずどきりとしてしまう。まあ、確かにたった半日の間だというのに色々あったわけだけど、まさか自分がそんな風に思われていようとは夢にも思っていなかったわけで。


「けど……もし姉様が本気なら、あたしは本気になる前に諦めるから」


 うつむき加減に、言う。そう告げる表情は、どこか寂しそうだった。


「ちょっとのぼせたみたい。テラスで涼んでくるね」


 憂いを帯びた表情を打ち消すように、微笑んで立ち上がると俺たちに背を向けた。


 俺はちらりとフィーの方を見やる。フィーはどこか物憂げな表情を浮かべていた。


「私は……心配なんです」


 ぽつり、と呟く。


「昔から、あの子は私に対して遠慮することが多いんです。人はそんな性格を『さばさばしてる』って評価しますけど……私は、きっと無理してるんだろうと思うんです。考えすぎ、でしょうか……?」

「遠慮、か……」


 半日の付き合いで、確かにそんな雰囲気というのは感じていた。良く言えば分をわきまえてるとも取れるわけだが、それも度を過ぎればきっと歪みになって鬱積するわけで。


「なあ。フィーってエストと喧嘩したことってあるか?」

「喧嘩、ですか? ええと……覚えている限りでは、無いです」

「だよなぁ……」


 二人が喧嘩してる姿なんて想像も付かない。


 なんでこんなことを聞いたのかというと、喧嘩でもする間柄ならエストの鬱積も晴れる余地があるんじゃないかと思ったからだ。俺は、適度な喧嘩は潤滑油だと考えている。


 まあ、考えすぎなのかもしれない。心の底からあっけらかんとした性格であるからして、全く気にしていないということも考えられる。考えられる、わけだが……


「まあ、心に止めておく程度しか、できないかなぁ……」


 何とも、微妙なもどかしさだった。

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