第10話:空へ
「っと、その前に着替えなきゃ」
言って、エストはタンスらしき棚の引き出しを開ける。そしてそこから衣服を取り出す。
ああ、それじゃ俺は外で待ってた方がいいな……と思ったときは既に遅かった。目の当たりにした光景に、俺の心臓が咳き込む。
エストがドレスの肩ひもを外す。ぱさり、とそれが落ち、膝丈程度の薄い肌着姿になったかと思うと、それの肩ひもも外し、床に落とす。脱いだエストは、ブラジャーのような胸下ほどの長さの肌着とショーツを身につけているだけだった。
俺は慌ててエストに背を向ける。まだ動悸が収まらない。
これは一体何を表しているのだろう。エストがまだそんなことを気にしないような子供だってことなんだろうか。しかしそれにしては成長途中とはいえちゃんと女性らしい体型をしてると思うわけで。ぱっと見、胸の大きさはフェアリーゼとそんなに変わらないような気がする。フェアリーゼがちょっとちっちゃいのかもしれないが。
あるいは、この世界じゃ男がいてもそんなことは気にしないっていう説も考えられる。しかしそうするとフェアリーゼの前例――聖堂で大騒ぎをしたこととのつじつまが合わないか。
それともあれか、俺を路傍の石ころとでも思っているってことですか。泣くぞ。
俺は一つ、どうでもいいのだがひょっとしたら重要かもしれないことに気がついた。エストの身につけていたブラジャーもどきはストンと布が下がるだけのタイプで、形を補正するような機能は無いように見えた。つまり……ちゃんとしたブラジャーしないと、垂れちゃうんじゃね? と。
いや、この世界の人にとっては垂れることが当たり前なのかもしれない。しかし多分フェアリーゼも似たような下着を着けていることだろうし、ほっといて垂れてしまうのはちょっと――いや、すっごく嫌だった。それはまさに芸術に対する冒涜と言える。
つまりは、補整下着としてのブラジャーを知っている俺が頑張って開発して、あの芸術的肢体をキープしてやるべきだ、って思うわけで。
……どこまで変態だよ、俺。ちょっと自己嫌悪。
大体、作る方法があるとしてどうやってサイズを取る? フェアリーゼに「測らせて」なんて言ったらド変態の烙印押されかねない。いや、烙印じゃなくて事実かもしれないけどさ。
「何やってんの? 背中向けちゃって」
背中の方からエストの声がしたので、俺は振り向いた。
ったく、人の気も知らないで。
エストは綿のシャツにズボン、革のジャケットらしきものをまとっていた。全体に茶系統で統一された服装だ。俺は何となく、そんな姿が騎手に似ているように思えた。
「さ、行こ」
俺は部屋を出て行くエストに続いた。
「練習ってどこでするんだ?」
「んー、そうね。町はずれの軍事演習場にでも行こうかなって思ってる。そこなら周り気にせずに魔法使えるし」
軍事演習場か。そんなところに行って大丈夫なのか? と思ってしまう。軍隊と鉢合わせなんてしたら嫌だぞ。
「まあ、エスト様! なんて格好をしてらっしゃるの!」
「あ、やば」
少し年かさがいってそうな淑女に言われ、エストが声を漏らした。
「リュウ、走るわよ!」
「お待ちなさい!」
俺は制止する声を無視して走り出したエストの後を追った。うわ、足早いなあ。身体能力が強化されてるはずの俺でもついて行くのがやっとだ。
エストと俺は階段前にきて、俺は下り階段の方へ――って、あれ?
エストは上り階段の方に入っていった。俺は慌てて軌道修正する。
どうしてだろうと思いつつ、俺はエストについて行く。
「さっきの人は?」
「教育係のハイネおばさま。説教好きのオールドミス。だから婚期を逃すのよ」
おいおい、さらりと毒舌吐くなあ。三枚おろしの件といい、何気に怖いことを言う御方のようだ。
5階の階段を上がると屋上に出た。
空は雲もまばらに、太陽が強い日差しを放っている。高い場所であるせいか風が強く、衣服がぱたぱたとはためく。
「リュウ、耳ふさいでた方がいいよ」
言って、エストがポケットから先の尖った小さな角笛みたいなものを取り出す。俺は言われたとおりに耳を塞ぐことにした。
エストが角笛に口をあてる。するとお湯が沸いたときにやかんが鳴らすような音を思いっきり強烈にしたようなものが、ふさぐ手を通して鳴り響いてきた。うわあ、うるさい。つーか公害だ公害。
そして俺はエストにならって空を見上げた。しばらくして、遠くの方に何か大きなものが飛んでいるのが見えてくる。
それは一言で言うと"竜"だった。緑色の表皮を持ち、胴体の部分だけで馬の数倍の大きさがある。翼を広げた姿はさらに身体が大きいような錯覚を与える。口元からは鋭い牙がのぞき、あれに噛まれたらひとたまりもないだろうと思った。虎やライオンなんてものの比じゃない。
竜は俺たちの頭上でバッサバッサとホバリングしたかと思うと、ゆっくりと屋上に着地した。よく見ると、竜の背中には馬と同じような鞍と鐙が取り付けられていた。
「いい子ね、アステア」
フレアが竜の顔を撫でた。竜がクルルルルと甘えたような声を鳴らす。
俺は少しばかり言葉を失っていた。これまでにも魔法や魔物を見たりして俺の常識が通用しないってことは肌で感じ取っていたはずなのだが、さすがに竜というのはちょっとばかり迫力が違った。
やはり恐怖というのも感じるが、それ以上にわくわく感の方が大きかった。魔法もロマンだが、竜というのにも憧れを感じるのだ。
「よいしょ、っと」
エストが、馬に乗るように手際よく鞍にまたがった。
「俺はどうやって乗ればいいんだ?」
多分、俺もこいつに乗るんだろうと思って聞いてみる。しかし鞍と鐙は一つしかないから、乗るのが難しそうだ。
すると、エストが鐙から足を外した。
「ここに右足をかけて。せーので引っ張るから、あたしの後ろに乗って」
言われたとおり、俺は鐙に右足をかけて右手でエストの手を握った。
「それじゃ、いくよ。せーのッ!」
右足を軸として身体が宙に浮く。俺はその勢いでエストの後ろにまたがった。そして鐙から足を外すが、そうするともの凄く不安定なバランスになってしまい、ちょっと怖い。これから飛ぶわけで、そうするとすっごく危なくないか? おい。
「じゃあ飛ぶからしっかりつかまっててね」
「う、うん」
俺は言われたとおり、エストの腰の辺りに両手を回した。自然と密着する身体と身体。俺は思わずつばを飲んでしまう。まあここで胸の辺りに手を回してしまうというのがお約束なのだろうが、さすがにそこまで不埒ではない。
「もっとしっかりつかまって。そんなんじゃ落っこちちゃうよ」
たしなめられて、エストを抱く両腕に力を込める。エストの身体は小さく華奢で、力を込めたら折れてしまいそうで怖かった。まあそれ以上に触ることに対する抵抗の方が大きかったわけだけど。
しかしいざ抱いてみると身体の軸は少しもぶれることなく、華奢な中に力強さを感じさせる身体だった。
だけど……この体勢は結構ヤバイ。甘い香りが鼻をつくし、力強くも柔らかい感触が両腕から伝わってくる。胸ほどじゃないにしろ、感触が与える女性らしさというものが本能を刺激する。俺は思わず、自分の男性自身がエストにあたらないようにと腰をちょっと引いてしまう。情けない。
「それじゃ、行くね」
エストが手綱をぱちんと鳴らした。すると竜は両翼をはためかせ、ゆっくりと空に舞い上がり始めた。遠ざかる大地。俺は軽く目がくらみそうになりながら、それでも開放感と高揚感を強く感じていた。良かった、高所恐怖症じゃなくて。
多くの人は、自由に空を飛んでみたいと思ったことがあるだろう。例えば飛行機に乗ったとき、大地が遠ざかるのを見て興奮したこともある。やはり人にとって空を飛ぶことは一つの夢なのであって、重力に逆らい、そして消えていった人たちもいるくらいだ。
今、俺は空を飛んでいる。それはどんな美酒でも味わえない快楽。
――ん? 美酒?
考えてみたら、飲酒運転じゃねえかよオイ!
大丈夫なんだろうなあ。転落死とかシャレにならないぞ。
「なあ」
「ん?」
「この世界じゃ、竜に乗るのって当たり前なのか?」
そもそもこいつが竜で正しいのかまだ分からないのだが。
「ううん、そんなことないよ。竜は貴重だから、乗れるのは王族と有力貴族くらいのものかな」
「ふーん……じゃあフィーも乗れるのか?」
「姉様は乗れないわ。運動神経無いもの」
あらら、バッサリ。まあ分からなくも無いが。フェアリーゼが運動神経抜群で跳んだり跳ねたりしていたらそっちの方が怖すぎる。
「それにしても、エストはさっき飛行機の話に驚いてたけど、竜の方がよっぽどびっくりするってば、さ」
「そんなことないでしょ。だって、鳥が空を飛ぶのと同じだもの。普通よ。でも鉄は空を飛ばないでしょ」
言われてみて、妙に納得してしまった。古代には翼竜なんてのもいたわけで、それがちょっとバージョン変わって人が乗れるようになったものと思えばいいのか。確かに、鉄の塊が空を飛ぶってのはにわかには信じられないのかもな。
「ねえ」
「ん?」
「リュウって姉様のことをどう思ってるの?」
どう思ってる、かあ。実際のところ、どう思ってるんだろう?
まあ友達ってところは疑いないな。真面目で優しくて、ちょっと自分のことをかえりみないお姫様。だからどこか危なっかしくて、そばにいてあげたくなってしまう。かと思えばどこかお茶目な面も見せてくれたりして、やけくそ可愛い。
「友達だよ」
俺は無難に答えることにした。というよりも、他に適当な答が見あたらないのだ。
「友達?」
「ああ」
エストの物言いに何か引っかかりを覚えたが、俺はうなづいた。
「ふうん……」
何か歯切れの悪い返事だった。
「何か文句でもあるのか?」
別に嫌味というわけではなく、俺は軽い調子で聞いた。
「うん」
ええ、マジかい。これはあれか。「あたしの姉様と気軽に親しくなるなんて許せない!」なんていう思いがあって、二人の間に割り込もうとするエスト。しかし俺とフェアリーゼはそれを乗り越え、やがて結ばれる。そして最終的にエストも渋々認めていくのだ……と。
いつの時代の連ドラだよ。アホか俺。
「あんな素敵な女をつかまえておいて、ただの友達は無いんじゃない?」
あらら、逆でしたか。
「才色兼備で優しくて、教養も深くて物腰は優美。そんでもって運動神経が無いんだけどそこは女らしさで保護欲をかきたてる。非の打ち所が無いと思わない?」
「家事がダメらしいぞ。四属性の魔法が苦手だからって言ってたな」
「う……」
エストが言葉を詰まらせた。まあ多少の誇張はあるのだが、フェアリーゼ本人が言ってたわけだしなあ。
「それは、それ。姉様は偉~い人なんだし、そう言うのは全部召使いがやってくれるのよ。うん、だから欠点じゃない!」
そのあんまりな物言いに俺は思わず吹きだしてしまった。
「む~。何がおかしいのよ」
「いや、ごめん。エストは本当にフィーが好きなんだな」
「うん、大好き」
ためらうことなく断言した。あっさりと言い切れるのもエストの性格なら、そう言わせるのもフェアリーゼの人徳なんだろうなあ。
「リュウは好きじゃないの?」
そんなエストの問いに、俺は少々とまどった。人間として好きか嫌いかと言われれば、そりゃ好きだと言える。しかし男女の間柄というものが存在するからして、"好き"と言ってしまえばそれは別の意味を持ってしまう。
とはいえ、ここでNoという答えはできるわけがない。Yesと答えて言い訳するのも据わりが悪い。となると、返答は限られてしまう。
「……好き、だよ」
エストが後者の意味で捉えてくれないことを祈っておく。
「そっかぁ、そうだよね。やっぱり、好きだよね」
嬉しそうに言う。
「それじゃあリュウ、頑張って姉様を幸せにしてあげてね」
俺は思わずずっこけかけた。あ、危ねえ! ここでずっこけたら死ぬぞ俺!
「お前、分かっててからかってるだろ!」
「ん~、何のことかな?」
すっとぼけるフリをする。こいつめ。
何か釈然としない俺だったが、そんなことは意に介さずと竜は飛んだ。かなりのスピードが出ていることが肌で伝わってくる。全面に座ってるエストはかなり大変なんじゃないかな。
しばらく飛んで、竜はスピードを緩めた。
「この辺りかな」
俺は下を見下ろしてみた。真下には荒れた土地が広がり、そこにはいくつもの凹みがある。岩石が散らばり、緑と茶と灰が入り交じったような地形になっている。樹木のような障害物なんかは近くには見あたらない。
ついでに言えば、人影なんかも全くない。軍事演習場とはいえ、年がら年中演習が行われてるわけじゃないんだから当たり前か。
竜は少し滞空すると、ゆっくりと降下し始めた。程なくして大地に降り立つ。ずっと揺られていたから、大地に降りても揺れる感覚が抜けないでいる。
俺がいるとエストも降りられないわけで、俺は先に地面に降りた。それに続いてエストも降りる。
今、魔法体験という俺にとってワクワクドキドキの時間が始まろうとしていた。