第9話:エスト
朝、俺は小鳥のさえずりで目を覚ました。長旅で疲労がたまっていたのか、眠気はまだ俺を布団に縛り付けようとしていた。しかしこれ以上横になっていてもかえって調子を崩しそうだったので、取りあえず起きることにした。
……今何時だ?
そう思い壁掛け時計を見てみると、三時頃を指していた。うん、ダメだこりゃ。こっち基準の時間に慣れなきゃいけないな。
客人として俺に与えられた部屋は、ぱっと見12~16畳程度の広さのものだった。おとといの宿よりも立派な作りで、元の世界だったならアンティークとして通用しそうな立派なテーブルや棚、本棚なんかが備え付けられている。
ベッドも結構上等なシロモノらしく、柔らかい羽毛の感触が全身を包み込むような質感だった。スプリングこそないものの、俺が普段寝ていたベッドよりもよほど上質だ。なんせ9800円くらいのパイプベッド使ってたからなあ。
何というか、ひょっとしなくてもこの部屋ってかなり上等なんじゃ? と思ってしまう。偉い人を迎えたりするための部屋だったりとか、しないだろうなあ。場違いとか嫌だぞ。
俺は昨日の夜、メイド服からフリルをとっぱらったような服装をした案内の女性に頼んで、寝間着を貸してもらっていた。外出着で寝ても疲れが取れないからだ。
しかし下着――Tシャツとトランクスは着ていないと落ち着かないし、換えも無いわけなのでそのままだ。これで三日目。うーん、そろそろヤバいかなぁ。肌着なだけに。
ヤバいといえば、俺自身もそうだ。昨日風呂に入ってないし、そろそろ臭いはじめてもおかしくない。いかんいかん、これは重大な問題だぞ。フェアリーゼに「臭いです」なんて言われたら悶死しかねない。あとで風呂のことは聞いてみよう。
結局、昨日はフェアリーゼには会うことはできなかった。というよりも、どうやって会ったらいいのか分からないってのが本音だ。一国の姫君に「会いたいんですけど」なんて気軽に言えるもんでもないし、じゃあどうすればいいのかって話だ。
そう考えると、ひょっとして旅での時間はすごく貴重だったのかなぁ。無駄にしたつもりはないけど、何だか名残惜しい気がしてきた。……ていうか、同衾までしちゃったんだよなあ。いいのか俺。
果てさてどうしたもんか。
取りあえず、誰かに聞いてみるところから始めるとするか。
俺は顔を洗おうと思い、元の服に着替えて部屋を出ようとした。
ドアを開け、廊下が見える――と、目の前をちょろちょろと何かが走っていった。
――おさかなくわえたドラ猫?
「こらー、待てーっ!」
どことなくフェアリーゼに似た声が猫が走ってきた方から聞こえてきた。それに混じって、パタパタと足音がする。
そして、俺の目の前で盛大にずっこけた。
「ふぎゃっ!」
あ、ぱんつ。
――白か。
白いドレス姿の少女は、思いっきりスカートをまくり上げて転んだ。顔面強打したみたいだけど、大丈夫か?
それにしても、下着はこっちの世界の人も似たようなものをつけてるんだなあと思った。んじゃ男性用トランクスとかも……あるわけねえよなあ、多分。あれって何となく近代的なイメージがあるし。
「大丈夫?」
俺は少女に声をかけた。転んで足をくじいたフェアリーゼの例もあるし、あの転び方はちょっと心配になる。まあフェアリーゼの場合はハイヒールが原因の一つなのであって、この少女は普通の靴をはいてるから多分大丈夫だろう。
「う~……」
うなりながら、少女はゆっくりと立ち上がった。そしてパンパンとスカートを払う。どうやら足をくじいたりはしていないようだ。顔は真っ赤だが。
「あンの馬鹿猫、今度会ったら三枚におろしてやるっ!」
いやいや、猫を三枚におろしてどうするよ。グロいからやめれ。
そんなことを思っていると、少女は俺の方を振り向いた。そして、ジロジロとなめ回すように俺を見る。いやん、エッチ。
少女はつややかな赤い髪を肩より少し上のワンレングスに揃えていて、背は俺よりも大分低い。年の頃で13~4歳くらいに見える。どことなくフェアリーゼの面影があるが、彼女に比べて少し目尻が上がっていて、活発そうな印象を与える。そして――やっぱり可愛い。なんだ、この世界の女の子は平均水準が高いのか?
「……見慣れない顔だけど、あんた、ひょっとして姉様の言ってたイセカイ人?」
「姉様?」
「うん、フェアリーゼ姉様」
ああ、なるほど、ということは――
「君がひょっとして第三王女のエスト?」
「……へえ。初対面の人間、しかも王族を呼び捨てなんて、見かけによらず度胸あるのね。知っててそんなことしたの、あんたがはじめてよ」
あ、しまった。ついうっかり。
うーん、やっぱり自分より年下となると気が緩んでしまうというか。フェアリーゼの時は一応ちょっとは気を使えたんだけどなあ。
……これで実は年上とかいうオチはナシの方向で。
しかしエストはそんなことは気にした様子もなく、にこやかに笑った。
「でも、そういうの好きよ。周りの人間なんてみんなおべっかつかっちゃって、あたしを珍獣か何かみたいに扱うんだから。もううんざり」
そう言って、手をひらひらさせてため息を吐いた。表情がくるくる変わる様は見ていて楽しい。
「物怖じしないのは、やっぱりイセカイ人だから?」
「うーん、まぁ、そうかも。……って、君こそ俺を珍獣か何かみたいに見てるじゃないか」
「あはは、ごめんごめん」
そんなやりとりをしていると、不意に俺の腹が鳴った。
う~、そういや朝食まだだったんだっけ。
「朝ご飯まだなの?」
エストの問いに俺は頷いた。
「朝食の時間はもう過ぎてるわよ」
「ええっ!?」
ちょ、ちょっと待て。過ぎてるって事はまさか、朝食食べられないってこと? ただでさえこっちにきてから一食当たりの量が少ないのに、ここにきて食事抜きなんてなったら餓死するぞおい。洒落になってないってば。
「そ、そんなあ……どうにかならない?」
俺の懇願に、エストは軽く息を吐いた。
「それじゃ、ついてきて。ちょうど料理作ろうとしてたところだったから」
「作ろうとしてた?」
王女が食事を? 普通、そういうのってコックか何かがするもんなんじゃ?
そんなことを思っていると、エストが眉をつり上げて迫ってきた。
「何よ、あたしが料理してたらおかしい?」
「あ……いや、ごめん。そういうことをする立場に見えなかったから」
「うん……まあ、ね。そんな下女の真似事をするんだったら教養の一つでも身につけろってよく言われるわ」
エストがため息をつく。
「けど、寝ても覚めても教養教養それがすんだら淑女としての嗜み云々って、しつこいっての。少しくらい趣味をたしなんだっていいじゃないの、ねえ?」
その考えには俺も同感だったから、頷いた。いくら王女とはいえ、趣味の一つも持てないなんてのは酷というものだ。
その点、フェアリーゼはどうなのだろう。あの性格だし、きっと自分のしたいことがあっても我慢して教養とかを学んだりしてるんじゃないかなあ。
「それで、趣味で料理を?」
「うん。しようとしてたら猫が入ってきてさ。あんにゃろう、今思い出しても腹が立つ。今度見かけたら八つ裂きにしておいて」
そんなエストに、俺は苦笑いを浮かべた。
「さ、それじゃ行きましょ。あんまり遅くなるのも何だし」
俺は歩き出したエストのあとをついて行った。
□ ■ □ ■ □ ■ □ ■
「これでよし、と」
ここは厨房。トレイの上には皿に盛られた料理の品々が並んでいた。スライスされたバゲットにバター、きのこのクリームシチュー、魚のムニエル……かな? と、何かポットパイみたいなもの、そしてグラスワインだ。それが二人前である。ただ、料理の分量はエストよりも俺の方が大分多い。食い意地を考慮してくれたみたいだ。
「……すげぇ」
「ふっふーん。参ったか」
エストが鼻を鳴らした。
「おみそれしました」
そして、フェアリーゼが言っていた「火の魔法で調理」というのも見ることができた。煮たり焼いたりするのに火を自由自在に操る様は見ていて飽きない。面白い世界だなあ。
「けど、朝からワインってのはいいのか?」
「こんなの飲むうちに入らないでしょ。大丈夫大丈夫」
俺はあんまり大丈夫じゃない。きっと。
エストって実は結構酒豪だったりするんだろうか。
ちなみになぜエストが食事時を過ぎてから料理していたのかというと、そうじゃないと厨房が使えないからだ。仕事でやってる人が厨房を使い終えてから、エストが借りているという形だ。当然というか、後始末もちゃんとしてある。片付けまでが料理、ってね。
「それじゃ行きましょ」
「どこへ?」
俺は思わず聞いてしまった。厨房には隣接して食堂があるが、食堂に"行く"とは表現しないよなあ。
「あたしの部屋」
「ええ!?」
単純に俺は驚いてしまった。
「何よ、不満なの?」
詰め寄るエストに、俺はふるふると首を横に振った。
「大体、こんながらんとしたところで食べてたら何だか悲しくなるでしょ」
ごもっともで。食堂は百人以上が収容できる広さになっているが、そんなところで二人で食べるのはあまりにもわびしい。人が見たら何を思うことだろうか。
……王女と二人で飯食ってる俺の立場が一番危ないか。
「それに、イセカイの話を聞かせてもらわなきゃいけないんだから」
「んー、異世界の話、ねえ」
まあ無難にテレビとか電話とか飛行機とかそんな話でいいか。もうお約束だな。
俺は自分の分のトレイを持って、エストの後をついて行った。一階の厨房から三階に上がり、エストの私室らしき部屋の前にたどりつく。ってことは、フェアリーゼの部屋もこの近くにあるのかな?
俺はきょろきょろと辺りを見回した。その意図は二つ。一つはフェアリーゼがいないかということ、もう一つは誰かに見られてやしないかということだ。いかんせん、とっても後ろめたいのだ。
俺はエストの部屋に入った。
「うわぁ……」
室内を見て、俺は思わず感嘆の声をあげた。
調度品の数々に凝らされた細工は俺の部屋にあるものとはまるで質が違っていた。重厚感のある品々に、ふかふかの絨毯。そして噂に聞くカーテン付きベッドがでんと構えている。広さは軽く20畳以上はありそうだ。
何というか、客室とは次元が違う。いや、違って当たり前なのだが。
俺はテーブルにトレイを置き、椅子に腰掛けた。
「そんじゃ、いただきまーす」
正直なところ、腹ぺこなのだ。これ以上お預けを食っていたら死んでしまう。
俺はスプーンを手にとって、シチューに口を付けた。
「う――」
「う?」
「美味い!」
お世辞抜きで美味かった。ここ数日大したものを食べてないせいもあったのかもしれないが、まさに染み入る味だった。
「うーん、まあまあ、かな?」
と、王女様はそんなことを仰っていらっしゃる。これでまあまあなのかよ。一体理想はどんだけなんだ。
俺は黙々と料理を食べ続けた。異世界の話をしろとは言われたが、本音を言えば今は料理を堪能したかった。まあエストは何も言ってこないし、話は食べ終わったあとでもいいだろう。
そして程なく料理を平らげ、俺はフォークを置いた。ワインには軽く口を付けた程度で、まだかなり残っている。
「ごちそうさまでした。生き返ったよ」
「それはどうも。喜んでもらえて良かったわ」
エストが微笑んだ。
「これで三人目ね」
「三人目?」
「あたしが料理を振る舞ったの。姉様に父様、そしてあんた――リュウって言うんだっけ?」
それは光栄というか、すっげぇ貴重な体験であったように思える。俺としては、単純に女の子の手料理が食べられたってだけでとても満足だ。
「ああ」
「それじゃリュウ、話、聞かせてよ」
「よしきた」
俺はフェアリーゼにしたように、自分の世界の技術や何かを多少の誇張を交えて話してやることにした。話をする度にエストは「ふうん」「へえ」「ええ?」「嘘ぉ」とか様々な相づちを打つので、話していて退屈しなかった。
「鉄の塊が空を飛ぶとか、嘘でしょ」
まあ、飛行機を見たことがない人の反応はそうだろうなあ。現代人でも怖がる人が多いくらいだし。俺もあれがどんな原理で飛んでるのか分からん。
「でも魔法が無いって信じられないなぁ」
「俺にしてみれば、魔法があるってのが信じられないんだけどね」
お互い、有るべきものが無かったり、その逆だったりするとやっぱり不思議なものなんだよなあ。
「ところでリュウって学者なんだって?」
「いや、学者のフリをしてるだけだよ。この世界じゃまだ知られてないことを色々知ってるから、口実として、ね」
「ふーん……」
「そこら辺の話もしようか?」
「……うーん、パス」
あらら。
「……リュウ、いまあたしのことバカだって思ったでしょ」
「い、いや、そんなことは――」
エストが睨み上げてきた。やべ、顔に出てたか。
……すみませんちょっと思いました。
俺がしどろもどろになりかけていると、エストは頬杖をついてため息を吐いた。
「まあいいけどね。実際バカだし」
おぅい、認めるのかよ。
「姉様と違って、あたしは教養や学問の方はからきしだからね。学問が不要だとは思わないけど、あたしには肌に合わないみたい」
別にふてくされるという様子でもなく、淡々と吐露しているようだった。
「そういえば、姉様がリュウに謝っといてって言ってた。何かあったの?」
言われ、俺は昨日の出来事を思い出した。やっぱり思った通りだったようだ。
「昨日、ちょっとね。俺の方こそフィーに謝りたいんだ。何とか会える機会無いかな」
「うーん……この前の地震で父様が出払っちゃってて、そのせいで姉様に公務のしわ寄せがきてるから、しばらくは厳しいと思う。あたしが手伝えればいいんだけど……ご覧の通りのおバカさんだから」
そんな様子に別段卑屈になったような印象はない。
「それと……フィー?」
「ああ。フェアリーゼだからフィー」
説明すると、エストはぽかんとした表情で俺を見つめた。
「リュウって……ひょっとして、あたしが想像してるよりも大物?」
「何だよそれ」
俺は意味が分からず苦笑する。
「いや、姉様みたいな立場の人を愛称で呼ぶなんて、普通だったらまず考えつかないから。姉様、喜んでたでしょ」
「うーん……まぁ、あれは喜んでた……のかなあ」
喜ぶ、ねえ。いまいちピンと来ないが。何で愛称で呼ぶことと喜ぶことが結びつくんだろう。
とはいえその時のことを思い出してみると、確かにらしからぬ表情をしていたような気はする。
普通だったら考えつかないっていうか、何せ異世界人だからなあ。俺の常識はこの世界の非常識でもあるわけで。フェアリーゼやエストが王族だの何だの言われたところで、詰まるところは俺と同い年くらいの少女って意識が強いんだよなあ。
「ねえ」
「ん?」
「あたしにも頂戴」
頂戴って、愛称のことか? うーん……エスト、ねぇ。
「エーたん。エっちゃん。エスっち……」
つーか全部長くなってるし。
「ごめん、ちょっと難しいや」
「えー」
エストが露骨にふてくされたような表情をする。
「フィーは名前が長くて愛称にしやすかったからいいんだけど、エストだとこれ以上短くしようがないからなぁ」
「うー、ケチ」
「いや、ケチって言われても」
むくれた表情でエストの上体がテーブルの上をごろごろ転がる。脇に寄せたトレイに接触してグラスが揺れ、俺はちょっとひやりとする。
何て言うか、猫だなあ。さっきのアレは同族嫌悪か?
「そんなこと言うと、魔法教えてあげないもん」
え?
あ、そう言えばフェアリーゼがエストにコーチを頼んでくれるって言ってたっけ。
「まあまあ、そんなこと言わないで」
俺は苦笑いを浮かべる。
「……はぁ、仕方ないんだから。その代わり!」
エストがびしぃ、と指さして言った。
「可愛い愛称を考えておくこと。いいわね?」
「……前向きに善処します」
んなこと言ったって、難しいものは難しいんだってば。エーたんとか……俺のキャラじゃないっつーに。仕方ない、適当に誤魔化しちゃえ。
「さて、それじゃ行こっか」
エストが席を立つ。
「どこへ?」
「魔法の練習。やってみたいんでしょ?」
お、ついに来たか来ましたか。この俺がかめはめ波を習得する時が。やぁってやるぜ!
――細かいことは気にしない。
「ああ、よろしく。エスト先生」
「うむ、頑張りたまえ。リュウ練習生」
エストが胸を張って言った。