第0話:転移
「ねえ、本当に行くの?」
小牧奈美がビクビクしながら言った。栗色の髪を短いツインテールに結んだ童顔の少女で、学年の男子からの人気も高い。服装は水色のフリフリが付いたブラウス&ミニスカートで、黒いオーバーニーソックスを履いている。
今、俺たちは町はずれにあるとある廃病院の門のあたりに立っていた。俺、御子柴龍と奈美、他に二ノ宮理子と坂本謙也の四人だ。高校の部活が一緒というのが原因で、こんな薄気味悪い場所に来させられていた。まぁ、華があるだけマシか。
時刻は夜の9時を回った頃で、交通量の少ないこの辺りは不気味なほどに静まりかえっていた。カエルの鳴き声すら聞こえない。病院の敷地内は草が生い茂り、建物は壁面がぽろぽろと壊れ、灰色にくすんでいるようだ。
「でも、行かないと部員として認めてもらえないのでしょう?」
理子はクラスでも有名な才女で、成績は学年一桁を常にキープしているし、他にもピアノやテニスなんかも全国レベルの実力を持っている。容姿も艶やかなロングの黒髪に美術品のような顔立ち、理想的なプロポーションと非の打ち所が無い。しかしどことなく冷たい印象を与えるせいもあってか、男子からの人気は奈美ほどは無い。ちなみに、理子は藍色のカーディガンに白のロングスカートを身につけている。
「なに、心配すんなって。霊なんざいやしねーよ」
謙也はとにかく虫が好かない奴で、ことあるごとに俺と対立しているのだ。こいつとは小学校からの付き合いで、好きな女の子を巡って喧嘩になったり、果ては給食のプリンの余りをどっちが取るかで殴り合いになったりした。喧嘩するほど仲がよいとは言うが、こいつに関してはモグラが空を飛ぶよりもあり得ないと言い切れる。部活だって、奈美が吹奏楽部にするからという理由でくっついてきたのだ。それが余計に腹が立つ。服装は黒のジャケットに黒のパンツと、ナルシストかおめーわと突っ込みたくなる格好だ。
「お前の凶悪なツラにびびって、霊も逃げ出すだろうよ」
俺が謙也にちょっかいを出す。
「……あん? てめえ、喧嘩売ってんのか?」
「事実を言ったまでだが。何むきになっちゃってんだ? この脳筋」
「どうやら一発ぶっ飛ばされないとわかんねえらしいな」
俺と謙也が睨み合う。一触即発の空気だ。
「あーもう、こんな時まで、やめようよ!」
仲裁に入ったのは奈美だった。
「まったく、動物園の猿じゃないんだから」
と、キツイ一言をぶっ刺したのは理子。ちょっとまて、それじゃ俺まで猿みたいじゃないか。お猿さんなのは謙也だけだ、謙也だけ。
謙也は奈美に言われたのがちょっとこたえたのか、俺の方を睨みつつも拳を治めた。俺はそんな謙也を見て、ベロベロバーの仕草をする。
「御子柴くん!」
奈美が怒った口調で言った。
「さ、下らないことやってないで、さっさと終わらせて帰りましょ。気味が悪いわ」
目的は、廃病院の手術室の写真を撮って帰ることだ。何でそんなことをしなきゃならないのかというと、早い話が肝試しなのだ。我が吹奏楽部では新入生の通過儀礼になっており、なんでも「極限状況下でも平静を保つ訓練」という名目があるのだそうな。その実、単に上級生が反応見て楽しんでるだけなんじゃねーのかと言いたくもなるが、一年坊主に逆らう力などあるはずもない。畜生。
まあ、俺はいい。曲がりなりにも男だからこういうことには多少の耐性がある。気に入らないが、謙也も同様だろう。理子もどっちかというと男に近い性格をしているから、何とかなるだろう。可哀想なのは奈美だ。絶対平均的女子より恐怖の沸点低いぞ、こいつ。
「二ノ宮にも怖いものがあるのか」
と、俺が茶化す。
「あら、怖いものはあるわよ。饅頭とか」
「じゃあ俺は大金が怖いな。目もくらむような大金が」
そんなバカなやりとりをしながら、俺たちは病院の方へ歩き出した。
朽ち果てたエントランスをくぐり、中を四つの懐中電灯の薄明かりが照らす。ボロボロのソファが並び、床にはホコリが堆積している。一歩歩くと、ぶわっと舞ってチンダル現象を引き起こす。
気付くと、奈美が俺の服の袖をつかんでガタガタと震えていた。歯が鳴る音も聞こえてくる。謙也の方を見ると、案の定俺をガン睨みしていた。仕方ないだろ、お前の目つきが悪いのが悪いんだ。多分。
「手術室、どこかしら」
「まず案内板を探すか」
言って、俺は壁を懐中電灯で照らした。お、あるある。
「えーと、西棟の三階だってよ」
俺たちはホールにあるエスカレーターに向かった。当然動いているはずもないので、自分の足で上へと上がっていく。
「……ん?」
視界に何かが横切ったような気がして、俺は思わず声を漏らす。
「な、なに?」
「いや、何か動いてたような気がして」
「ち、ちょっと、へんなこと、い、言わないでよぉ」
奈美が今にも泣き出しそうな様子で訴えかけてくる。
「でも、霊の一つや二つはいるかもね。何せ、場所が場所だから」
「ふえぇ、りっちゃんまで、やめてよぉ」
わざとかそうでないのか、理子が追撃を加える。うーん、これはこれで楽しいかも。
そんなことを言ってる間に、手術部のエントランスにつく。
「あ」
「きゃあ!」
足下をちょろちょろとネズミが走っていた。こんな場所だ、ネズミくらいいてもおかしくないのだが、奈美はすっかり驚いて腰を抜かしてしまった。
ってことは、さっきの影はネズミかな?
「ふえぇん、もうやだよぉ……」
限界突破したか、泣き出してしまった。
「ほら、目的地はもう少しだから、頑張って」
理子が励まし、腕を持って立たせる。そして俺たちはゆっくりとまた歩き出した。
「ついたぜ」
ぶっきらぼうに謙也が言った。なんだ、いたのか。さっきから黙ってるから存在忘れてたぞ。
「じゃあさっさと撮って帰りますか」
言って、俺と謙吾が手術室の中で並ぶ。こんな奴とツーショットというのは気に入らないが、仕方ない。
肝試しのゴールは、写真を撮ることだ。全員行ってきたという証明のために、それぞれが映った写真を撮らなきゃならない。
「はい、チーズ」
理子がのんきにそんなことを言って携帯電話のシャッターを切る。やっぱりこの女、全然怖がってないな。
「綺麗に撮れたわ」
「じゃ、交代な」
変わって、理子と奈美が並ぶ。奈美はすっかり腰が引けて、理子の服の袖をがっちりとつかんで震えていた。
「撮るぞ」
言って、俺はシャッターを切る。さてさて、上手く撮れてるかな?
うん、バッチリだ。暗闇にフラッシュたいての撮影だから青白く映ってしまっているが、まあ仕方ない。それにしても、廃墟に美少女二人って何かシュールだな。
「さ、ささ、もう帰ろ、早く、か、帰ろ!」
うわ、噛みまくり。うーん、さすがにこれ以上ここにとどまるのは可哀想だな。俺だって怖くないわけじゃないし、さっさと帰りたいのは事実だ。
俺たちは早足で手術部の出口に向かった。
ウオォン……
「? 今、誰か何か言った?」
「……いや。謙也じゃないのか?」
「バカ抜かせ」
んで、奈美であるはずはない。となると……
四人の間に沈黙が走る。想像されたのは、恐らく共通のアレだろう。
「い、いや、きっとあれだ。風か何かが共鳴した音だよ」
俺は少しテンパるのを自覚していた。日常の中でなら「霊などいない!」と言い切ってしまうような俺だが、こんな環境下では否が応でも弱気になってしまう。
他の三人も似たようなものなのか、答えない。
黙ったまま、俺たちは来た道を出口に向かって引き返していく。
そして、廊下の向こう側にエスカレーターが見えたその時――
懐中電灯に照らされて黒い何かが映った。
四つの光が映し出したそれは、カブトムシとクワガタを足して二で割ったような形状をさらに物々しくした何かで、廊下を完全に塞いでしまうほどの大きさをしていた。外装は黒光りをし、サメのような口からは鋭利な牙がのぞく。
端的に言えば――怪物だ。
「い――」
奈美が声を引きつらせる。
「いやあああああああああああああああああ!」
俺も腰を抜かしかけていた。謙也と理子の様子を見る余裕はないが、多分俺と大差無いだろう。
黒い怪物は、のっしのっしと俺たちの方へと近づいてきた。そのどう猛な牙を見て、本能がヤバイと警鐘を鳴らす。
俺は逃げようとして、奈美が腰を抜かしているだろうことを思い出した。くそ、喰われちまうぞ!
奈美の腕をつかんで、俺は強引に引っ張り無理矢理立ち上がらせる。
俺たちは再び手術部の方へ向かい、走り出した。
すると、手術部の入り口から黒い怪物がもう一匹姿を見せた。
「――!」
逃げ場が、無い!
背後からはどしん、どしんと近づいてくる音が聞こえる。前方からも、だ。
――喰われる。そんな恐怖が脳髄を突き刺し、冷静な思考を奪っていく。俺はふるふると首を振った。冷静になれ、冷静に!
前は無理。後ろも無理。なら、横は――
「窓だ!」
俺は叫んだ。そう、窓から飛び降りればいい。ここは三階だ。悪ければ骨折くらいはするかもしれないが、死ぬことは無いだろう。このままボヤボヤしていたら、怪物に喰われてしまうかもしれない。
俺たちは壁際に寄って、窓を開けた。そうこうしているうちに、怪物はすぐ近くまで来ていた。
「行くぞ!」
俺と謙也は、ほぼ同時に窓から地面へと飛び降りた。駆け抜ける無重力感。
その瞬間、ブゥン、と目の前に何かが現れた。それは黒い塊で、月明かりの下で完全な"無"の空間となっていた。異質なまでに黒く、絶対的な存在感をそこに示している。
そんな"無"が現れたとき、俺たちの落ちるスピードが和らいだ。そして地面に付く前に落下は止まり、空中で"無"の方へと引き寄せられはじめた。
――吸い込まれてる!?
俺は瞬間的にブラックホールを連想した。超質量の塊。中に入ると超重力で圧殺されるんだったか。だったら、吸い込まれたら、俺、死ぬ!?
冗談じゃない!
俺は抗おうとしたが、身体を支えるためにつかむような場所も無ければ、逃げることもできない。ただ、なすがままにされるしかなかった。
「うぉわあぁぁぁぁ!」
一気に速度は増し、俺は"無"へと吸い込まれていった。