表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

創作百合短編集

しあわせ挨拶、みかんの口実

作者: 今田椋朗


 こたつとみかん、家族、そして柚乃。

 ワタシにとって、これ以上ない冬が訪れた。



 お湯が沸いた音が聞こえて、ワタシはパタパタと台所に向かう。

 ワタシはマグカップをふたつ用意し、粉ココアと紅茶バッグをそれぞれいれる。

 柚乃……ユズは甘いものをあんまり摂らないから、紅茶に砂糖は入れないけど、猫舌なので、お湯はカップの三分の二ほどにして、あとは水道水で調整する。


 このふたつのマグカップもずいぶん年季が入ってきた。

 それぞれ縁が一カ所ほど欠けていて、全体的に相応の小傷で覆われているとはいえ、まだまだ現役を頑張ってもらおう。

 白地に花柄プリント。

 小学生のときに、ワタシとユズが描いた絵。

 ワタシの母が提案して、ふたりのオリジナルマグカップを作ったのだった。

 どこやらのそういう業者に下絵を送って注文して、届くまでの数週間が待ち遠しかったけど、毎日ユズと遊んでいたらあっという間だった。



 回想で少し冷め、いい感じになったから、ワタシはリビングのこたつまでふたつのマグカップをなみなみと運んだ。

 こと、こと。

 ユズがテレビを見ないから、消していて、リビングではワタシたちの吐息と食器の音だけが生まれる。



 ユズの小さな背中。

 制服のカッターシャツの白の上を、つやっぽい黒髪ストレートのセミロングがさらさらと滴り、整った毛先がさざめいている、その周辺の肩の繊細さ。


 ときめきは、いきくるしさにも似ている。


 こたつに入って座っているユズの背後から、ワタシはこたつに足を差し込んでいく。

 床の上でおしりを弾ませて、徐々にユズに重なっていく。

 ユズのほね張った背中に、ワタシの胸が押し付けられる。

 じゃまだと思う。

 女の部分であるワタシのそれは、大きいわけではないけど、小さいわけではない。

 こうしてくっつきたいときに、この厚さはゼロ距離にはさせてくれない、ような気がしないでもない。

 でも、ユズはワタシのそれを気に入ってるふうだから、このままでいいし、これでいいのだ。


 今日は、ワタシはユズの左に頭をねじ込んで、キスをねだっていく。


 ユズの火照ったなめらかな白い頬に、ワタシはつぼめた唇を刺していく、キツツキのように何度も。


 照れ屋のユズを追い出すには、攻撃回数だと学習した結果だ。


 ユズはしらんぷりしてみかんを剥いて、一房ずつ口に運んでいく。


 ……ふだんユズがつんと澄ましているのは、大人びた表情を繕っておかないと、いくつも歳を下にみられてしまうからで、メイクアップも背伸びのひとつで。

 あか抜けとかそんな次元じゃないくらい、かわいいくせに、背伸びしないと戦えないとかんちがいしている。

 ユズが学校で同級生たちにみせる澄まし顔や愛想笑いは、ワタシは嫌いだ、むちゃくちゃにしてやりたい。

 ここはワタシの家で、ワタシしかいないんだから。



 ワタシはユズの首の右側から手を出して、ユズの繊細な顎をわしづかみ、唇を吸った。

 とうぜん、みかんの味がした。

 

 ワタシが唇を舌で拭っていると、ユズは涙目でこちらを睨んでいる。


「じぶんで剥いて!」


「ワタシがたべたいのは、みかんじゃなくてユズだからなあ」

 ワタシは言い終わるなり、ユズの白いシャツをスカートから抜き取り、冷たい手をお腹に忍ばせていく。


「ひゃっ」


 ユズは高い声をだして、身をよじらせた。

 ワタシは調子に乗って、もう一つの手でユズのシャツボタンを下から外していく。

 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ目で、怒ったユズの爪が、両手の甲に突き刺さった。

 マニキュアを再開したらしい、濡れたような光沢を湛えて、リビングの光源ぜんぶを吸い込んでいるようなピンク色だ。

 ユズにしては、伸ばしているなと思う。

 それでも、指先より出ていない。


 じゃれついていたら、どちらかの膝がこたつに当たって、上のマグカップの水面が揺れて、ワタシは慌ててココアを吸った。

 ユズも身を屈めて、紅茶に口付けた。


 それから、顔を見合わせて、ふにゃりと微笑み合った。



 ワタシとユズは、みかんを剥いて、一房ずつ口に入れていった。

 ワタシは頬摺りとみせかけて、ユズの薄い唇をぺろりと舐めた。

 近いみかんと、リップクリームの遠い味がした。


 ワタシはユズのシャツの中のあったかインナーの中に両手を潜らせて、子宮と子宮を近付けるように抱きしめていく。

 こたつの中の四本の脚も、自分のがどれか取り違えるほど混ぜ合わせていく。


 ユズは、ワタシの中にすっぽりおさまっている。


 

 マグカップ。

 スイレンの家に来ると、時をとめたアイテムが私を歓迎する。

 花の絵がクレヨンのタッチでのびのびと描かれている。

 たんぽぽ、あじさい、コスモス(?)。

 私が描いたのはこの辺だっただろうか。


 蓮の花と蛙。

 これはスイレンだろう。

 梅雨時期で外遊びできなくて、ふたりで絵を描いたり本を読んだりしていた、あのときは小学二年生だったと思う。


 ……あれからもう高校生か。

 今年も、あとわずか。


 

 さっきから、スイレンがうるさい。

 声ではなくて、唇が。

 しつっこく、私の唇を狙う、私の相棒。


 私は身体の力を抜いて、背後の女に少しもたれかかる。

 私の背もたれ。

 

 背もたれが、またにょきっと頭を生やして、私の唇を吸う、吸い上げてくる。


「……ぷは、長すぎっ、ちょっと」


 私の息が整わないうちに、スイレンがキスをむさぼる。

 かんぜんに火がついちゃってる。

 肉食獣のように、腹を満たすまで、執念深く。


「~~~!!、~!!んっ」


 ぼすっぼすっと私は背もたれに肘を突き刺す。

 ようやくスイレンは唇を唇から離し、私を見据える切れ長の垂れ目を柔らかく歪めていく。


 私は息も絶え絶えに、胸に手を当てて肩で息をする。


 ココアとみかんが手を取り合って踊りくるい、まだ口腔を渦巻いている。


 背後から抱きつくようにまわされたスイレンの両手が私のお腹を直接おさえていて、妙にあたたかいそれらにどきどきする。

 なにが妙って、身体の内部のどこかがじんじんするのが妙で変なのだ、イヤなかんじ。


 スイレンはにやにや笑っていて、むかついた私はスイレンの後頭部、耳の裏に手をそろりと伸ばす。


 気付いた彼女は反射的に身をそらして、だけど根本からくっついている以上は遠くへは行けず、私の手が耳に届く。


 耳殻を触れられてスイレンは一度びくりと肩を跳ねさせた、陸揚げした魚のように。

 最近気付いたことだけど、スイレンは耳が弱い、きっとそう。


 私はスイレンの顔を見つめながら、耳をさわさわ触る、親指で、耳たぶの上を右往左往する。


「んぐ、んん」


 スイレンの顔からどんどん余裕が抜け落ちていって、くすぐったそうに肩を震わせる。

 それでも貪欲に顔を近付けて、私にキスをする。


 気の抜けた触れるだけの口付けには、さきほどの相棒の肉食獣のような面影はない。


 凛々しい切れ長の瞳を少し潤ませて、眼輪筋をぴくぴくさせて、唇をとんがらせて、少し怒っているようにも見える。


「っ、う!」


 堪えきれず、スイレンはうわずった呻き声を漏らして、蛇みたいに身体をくねらせる。


 相棒がふだん絶対出さない高い変な声に、私がくすくす笑うと、スイレンは眉を吊り上げて挑戦的な邪悪な笑みをもって、反撃していく。


「ユ~ズ~……」


 スイレンは、少しずれていた身体を再び私と重ね合わせて、座ったバックハグの体勢に戻ると、私の耳元に細切れの荒い吐息がぶつかる。

 それに気を取られていると、素肌のお腹の上に直に置きっぱなしだったスイレンの大きな両手が、私のインナーの中で噴火したように急に上昇した。


 カップの両方に侵入者があらわれ、私のわずかな起伏たちはかんぜんに制圧されてしまう。

 いともかんたんに白旗をあげる、私の領土たち。


 制空権を主張するように、私の唇の周辺をスイレンの赤い翼が舞う、離着陸する、高頻度に。


 彼女の左手はおとなしく私の心臓の拍動に耳をすませているのに対して、右手は不規則に脈動とずらすように指先を食い込ませる。


 相棒は中距離走後みたいにざらざらして荒い吐息のつぶてを私の頬にぶつけたり、私の口腔を通して息を吸ったり、回転して渦巻いているようだ。

 指は熱心に私の肋骨の形状を把握しようと駆け巡っている、陶芸家のような手つきで。


 ……私のうすっぺらな貧弱な胴体に、こんな執着を見せるほどの面白さなんてものがあるのだろうか?


 私は胸のどきどきを盗み聞かれながら、不安とも喜びかも分からない疑問が心に浮かび上がるのを認めた。


 じつは胸が大きい女のほうが好きだ、なんてスイレンに言われたなら、きっと私は一週間くらい寝込んでしまう。

 想像しただけでぞっとする、すごくつまらない猜疑だけれど、私は相棒の好きのすべてになりたいから、大問題なのだ。

 ……いつか聞いてみよう、機会があれば。


 相棒の座高に合わせてキスをしていると、常に見上げる格好なので首が痛くなってきた。

 それに、ずっと左側からやってくるので、あるタイミングで私はぷいとそっぽを(右を)向いた。


 剥いたみかんを二房、口腔に忍ばせて。


 すぐにスイレンは右側からやってくる、唇を振り下ろす。

 私は少し近付いて半開きの唇で受け止める。


 私は奥歯でみかんの房を噛む。

 スイレンは少し驚きながらも、私の液体と果汁の混合液を吸い上げていく。

 私はぬけがらのみかんの薄皮をついでに押し付けた。

 掃除機みたいにスイレンは吸っていった。


「……ユズ、皮に栄養があるんだよ?」


「栄養あるからあげた」

 私は薄皮は出来れば食べたくない。

 果汁のつまったプチプチした魚の卵のようなトパーズ色の宝石のような中身の粒たちだけ食べたい。


 まだ私のインナーの中に居座って肋骨の溝に十の指をそれぞれ這わせながら、スイレンは、

「ユズ、ちゃんとご飯食べてるの」

 とつぶやいた。


「たべてるしっ」

 いくぶんかムキになって言い返してしまったが、事実、食べても背にも肉にもならず、今に至る。


 私はこたつから脚を抜き取って半回転しようとする。

 背後からスイレンが私の服の中に手を潜り込ませている以上は、出て行ってもらわねば私は彼女と向き合えないのだ。

 

「ちょっと!」

 動く気配のない大きな両手に、私は直接爪を立てにいく。

 引っ剥がして、私はもぞもぞと脚を動かして、スイレンの腕や胸で作られた鎧を着て中で身じろぎしているようだ。

 折り曲げた両膝を、スイレンの脚の付け根あたりの制服のスカートの上に乗せ、胴を挟むようにして至近距離で対峙した、向かい合った。


「なあに?」


 見上げると、スイレンは切れ長の垂れ目の下まぶたを少し持ち上げるようにして、お日さまのように柔らかい笑みを降り注いでいる。


 朝日を浴びるとくしゃみをしてしまうようにくすぐったい微笑みで、私は目を逸らせながらも、頬を掴んで近付いて、正面衝突する。


 鼻先を数度ぶつけながら、私は唇を唇にくっつけていく、相棒はじっと待ってくれる。

 スイレンは私の背中に大きい両手を滑らせて、今度は背骨の凹凸をなぞっていく、3DCADでモデリングでもするのだろうかと思うくらい、丁寧に。


 私からキスをすると、鼻が歯がぶつかるのは、私がヘタなのに他ならない。  

 スイレンは流れる川のようになめらかで機敏なキスをする、してくる。

 九割方スイレンからやってきて、先に上手になったのだろう。

 それとも、甘える一方で学習しなかった私が不器用なのだろうか。


 私はどさくさに紛れて、そっと相棒の胸に手を伸ばす、押し付けて、手指を広げて、そろりと徐々に閉じていく、柔らかいものたちをとらえていく。


 白いシャツの上から、下着の形を判断しながら、中身を私は求めている。

 恐る恐る、その全体像を掴み取るように、十指と手のひらで。

 直接さわってもいい?なんてまだ言えないから、服の上からおじゃましている。

 ……相棒は無許可で私を直接にぎにぎするのだけれど、私にはそんなことはできない、とうてい。



 キス中に、スイレンは喉を鳴らす。

「……んっ」


 相棒は発熱してきて、ストーブとまではいえなくてもはっきりと熱源として感じられた。


 相棒の肩が規則正しい上下をしだいに細かくしていく。

 私はスイレンの白く冴えた首筋に右手を添えて、頸動脈に親指を当てる。

 どくどく、ごうごうと熱い液体が駆け巡っている音が聞こえる。

 洪水するほど雨を受け止めて濁流になった川もこんな音で叫ぶのだろうイメージだ。


 私は首筋に鼻先を擦り付け、彼女のにおいを堪能する。

 後頭部の、ポニーテールの長髪の根本のゴムをぴんと指で弾く。


 顔を正面に戻す前に、私は「ふ」っと彼女の耳に細くてするどい息をさして鼓膜を震わせるのを忘れない。


「ん!」


 相棒はまた上体を跳ねさせた、ばね仕掛けのように。


 私にしか見せない余裕の無い顔をもっと見たいけど、少しだけにして私は今日何回目か分からないキスをする。


 薄らいで遠ざかってきたとはいえ、まだ口腔はみかんの味が漂っている。

 どちらからともなく、ふたりで食べたので、いっしょことだ。


 どうしてか、私はこうやってずうっとスイレンと唇どうしを重ね合わせて、なまあたたかい粘膜を接続していたいと思う。

 単細胞生物とやっていることは変わらないなと思う。

 遺伝的情報を交換する目的から、(遺伝的)を抜き取ったくらいの差異しかないのだから。


 私たちは人間だから、とくに情報に生きる生物だから、あらゆる手段を発明して情報を交換し合う。


 体温、体液。

 言葉と違って、それらは物質的だから、わかりやすいと思う。

 スイレンが私しか頭にないことが分かる。

 スイレンの脳内を私だけが独占していることが分かる。

 

 一呼吸。

 火照った相棒のいとおしい恍惚であふれた双眸に、目が眩んで私は少し首を倒して(スイレンの)背後のダイニングテーブルへよそ見する。


 玄関から一続きに台所、電子レンジの棚、ダイニングテーブルセット、食器棚と並んであるいは向き合って、それからふすまを挟んで私たちのいるリビングのこたつセットとテレビの棚、本棚が背後にある。



 私はキスのしすぎでふやけた相棒の唇を唇で挟んで、はみながら舌先で溝をなぞったりする。


 私たちの鼻息が絡み合って、交響曲でも奏でているつもりになっているふうだ。


 私はときおり、猫のように首筋に顔をうずめて、頬を擦り付ける。

 白い肌を突き抜けて、輪郭を手放して、ひとつに溶け合っていけたならどんなにすてきかわからない。


「はっ、はっ」


「はあ、はあ」


 私たちの乱れた息が混ざり合って、どちらが発したものかすぐに判別つかなくなる。


 背中をなでるスイレンの大きな両手が心地よくあたたかい。

 母なる海に浮かんでいる、背泳ぎのようなイメージだ。


 私もスイレンの背中に手をまわして、ハグをする、力いっぱい、心臓に心臓を重ね合わせていく。


 でも、お腹が近付いていかない。

 折り曲げた両膝、両脚が私とスイレンの間に挟まっていて、私のじゃまをする。


 私は足をそれぞれスイレンの背後の左右に投げ出して、それから折り曲げた、両手両足で抱きついた。


 リュックサックにでもなった気分だ、これで私はスイレンの一部分だ。


 公園で、丸太遊具があった頃に同じように抱きついたことを思い出した。

 あれよりもう少し細くて、柔らかくて、好きなにおいがする。

 酸味とは違うのだけれど、爽やかでなまなましい汗の香りの相棒に抱くやすらぎ。


 呼吸が整っていく、深く深く、何度も何度も肺に空気をためていき、はいては吸う。

 スイレンと私は、少し寒いリビングの空気中を迸る熱気を帯びたひとつのエンジンにでもなったように、部屋中の酸素をむさぼって燃焼している。


 思考がクリアに晴れていく。

 時間経過で積もっていくすす汚れのような心のもやが洗い落とされ拭い去られていく。


 私はスイレンのポニーテールをなでる、上から下に、何度も。

 あたたかい私の相棒の体温を感じながら、ダイニングテーブルのイスたちの向こう側に、パンパンに膨らんだ買い物袋が置いてあるのが見えた。


 ねぎが刺さっていて、卵のパックが袋の上の方に覗いていて、うす紫色無地のエコバッグから牛乳の文字が透けて見える。


 ……冷蔵庫にしまいたい。

 でもどうして牛乳を外に放置しているのだろう?

 いつからあの買い物袋はあるのだろう?


 牛乳だけでなく、ほかにも冷蔵庫にすぐ入れておきたいものがあるはず……。


 そこまで考えて、スイレンと私が帰ってきたとき、この家にはそんな袋なんてなかったことにたどり着いた。


 つまり、もう一人、家に帰ってきた人物がいる!


 十中八九、いや百パーセント。

 スイレンの母だ。



 台所の向かい側の洗面所から水音がしていた、気付いたときには止まっていて、足音が近付いてくる。


 どうしよう、どうしよう。


 どうやってごまかすか。


 どうして気付かなかったのか。


 スイレンに抱きついた姿勢のまま、私はフルスピードで脳を回転させていく、でもたいしてなにも考えられないのだ。

 

 どうせもう見られて察せられているんじゃないかと、私の胸中ではその一点に収束していて、だから脳がいくら回転して速度を増しても、それは足踏み状態でどこにも思考を進められないのだ。



 私がスイレンの頭越しに顔を上げると、案の定、洗面所から出たスイレンの母と目が合って、そのとき私はまだ四肢ぜんぶを使って相棒を抱きしめていたから、とりあえず緩慢な動作で冷静を装ってこたつに戻ろうと考えた。


 だけど、私の時間の進みが遅すぎたから、私がゆっくり動いたつもりでも、周囲には慌てたようなスピードで目に映ったのだろう。

 スイレンの母はにやりと口角を持ち上げて、ただいまを言いそうだったから、せめてもの意地で私は先を取った。


「おばさまっ、おかえりなさい」

 手足を引っ込めたものの、スイレンの肢体に収納された格好のまま、その肩越しで虚勢を張ってもぜんぜん意味のないことくらい狼狽中の私でもわかることだった。


「……ただいま。

 あついね、暖房は入れてるのかい」

 

 スイレンの母はにやにや笑いながら、二重の垂れ目を細める。

 するとスイレンのいじわるで不気味な笑顔とすごく近付いて、血縁を感じないではいられなくなる。


 相棒も振り返って、

「ああ、お母さんおかえり、いつのまに。」


 事も無げに、家族に向けるリラックスした表情に一人娘らしいふてぶてしさをもって応対するのには、私は呆れとも驚きともつかないふしぎを浴びせられた感じがした。



「いやー、外は寒くなってきたけど、家の中はあったかくていいね」

 スイレンの母は防寒具を脱いで、冷蔵庫に牛乳をしまう。

「あついくらいだね、ユズちゃんが来てくれたら、暖房いらないかもね?」

 そう言いながら、彼女は整ったショートボブの後頭部を意味ありげに揺らして、こちらへ振り向いた。

 二重の垂れ目を好奇に歪めて、口元はまだにやにや笑いを含んでいるのだ。


 ぜったい、からかってる!



 私は文字通り背を向けて、こたつに入って、腕を組んで顔をテーブルに突っ伏した。


 スイレンの母の声が部屋中に満ちる。

 彼女はしばらく、あついあついと、意味を含ませるように連呼し、次第に適当な節回しをつけて歌うようになっていく。

 とくにご機嫌なときの彼女の癖だ、歌うのは。


 冷蔵庫のがちゃがちゃをパーカッシブに、台所から音楽が生まれていく。


 こたつテーブルに顔を伏せて、私は耳を機能させていたら、

「ユズ、ボタン」

 と相棒の囁きに、目が覚めるように上体を起こして、自分の白いシャツを確認した。


 スイレンにボタンをぜんぶ外されたことをすっかり忘れていた。

 学校に着ていくような地味なインナーでよかったとつくづく思った。

 これが、例えばスイレンが好きそうなあざとくてかわいいものたちだったなら、もっと気まずかった。


 でも、結局いっしょことか、とも思って、なんかどうでもよくなった。


 私は小さい声で言った。

「スイが外したんでしょ、だから」


 相棒は私のシャツのボタンを上から順番にとめていった、長い指は節張ったところが少なくて、短い爪はきれいな桜色をしている。

 ささくれが何カ所かできていた。



「あんたたち、いっときぜんぜんしゃべらなくなって、うちにも来なくなって、仲違いしたのかと思ってたら、一年も経たずに元に戻れてよかったわ」


 スイレンの母が、台所を一段落させて、リビングにやってくる。

 こたつ布団に脚を潜り込ませながら、私とスイレンの斜め向かい側に座って、みかんを手に取る。


「いや、(元通り)どころじゃないか……?」

 そう付け足して、何か感情を含めた二重の垂れ目を、彼女は私たちに降り注いだ。


 私はつんと目を逸らした。


 背後のスイレンは、

「仲違いしたっけ、ユズ?」

 と私の鎖骨の上に顎を乗せた。


「……あれは私がヘンな意地張っただけ」

 言葉にすると、細部が異なっていても関係なしにそれがほんとうのことだったような錯覚にとらわれる。


「まあいつものことだよね、ユズが意地っ張りで、ひとりで抱え込んで、聞いてもあんまり答えないくせに、ほったらかしたら時限爆弾になる」


 スイレンは私の背中に胸を押し付けて、体重を乗せながら、続ける。

「泣き虫だし、だから導火線は案外短い」


 妙に饒舌な相棒は不気味だ、なにをしでかすかわからないから。


 スイレンの母は、年中あかぎれのなおらない両手で瞬く間にみかんの外皮を剥いていく。

 幼子の着衣をバンザイして脱がせるように、淡々とした作業だ。

 そして三つ房くらい同時に口に含む。


「……ん~?それで、クリスマスはどうするの、おふたりさん」


「うち来るでしょ、ユズ」

 母が言い終わらないうちにスイレンは言った。


 クリスマスと聞いて、今の私が冷静を保てるはずがない。

 私の回転木馬がイルミネーションがお花畑が、冬化粧をし始めた。


 私は頭を冷やすために、とうに冷めた紅茶を手に取った。

 マグカップの縁の一カ所の欠け部分を避けて唇をつけて、残りをぜんぶ飲んだ。


 表情を見られないように顔を伏せて、腕を組んで鼻から下半分を隠して、くぐもらせた小さな声で言った。

「……いっしょに」



 ユズは照れながらも、ワタシの母の目前でもワタシの腕の中から出ていこうとしなくて、やけに素直だなと思った。

 あたたかいユズを背後から覆い被さるように抱きながら、こたつ布団で足を温めて、みかんを剥いていく。

 

 ……ワタシはともかく、ユズまでも、ワタシの母の帰宅に気付かないくらいハグに夢中になっていたのは、新鮮でうれしいと思った。


 母もユズが大好きだし、ずっとにやにやしてみかんを食べながらこちらを見ていて、そうとうに上機嫌だ。

 しばらくこのことで、ユズをちくちくからかうに違いない。


 おもむろにユズは口を開いた。


「伊藤がカレシのクリスマスプレゼント探すの手伝ってって、土曜日、行ってくる」


「○駅前のモール?」

 ワタシはみかん一房をユズの口に入れる。


「ん」

 ユズは何か言いたげに後頭部を揺らす。


「じゃあ日曜日はワタシと」


「ん」


 スイレンの母が台所から熱いお茶ポットを持ってきて、言う。

「ユズちゃん、スイね、まだあのマフラー使ってるの、小学生のときにユズちゃんがくれた手編みのやつ」


「え!」

 ユズは思わずのけぞって、振り返ってワタシを見る。

 ワタシはその頬を両手で挟みながら、

「だって、まだぜんぜん使えるからね。」


 顔を朱色に染めてうれしさを隠せないようすのユズに、いとおしさがこみ上げて皮膚を突き破らんばかりに膨らんで、ワタシはそのままそれを唇で伝えにいく。


「えっ、待って、んんっ」

 ユズは驚き戸惑って、長いまつげに縁取られた二重まぶたを大きく開いて、それから逃げようと身じろぎしたから、ワタシは頬を両手でがっちり固定して、唇に唇を重ねた。


「わ~……」


「んっ、ぷは、もうっスイ!いみわかんないっ」

 ユズはワタシを睨んだあと、ふいと瞳を横に向けた。

 視線の先には、ワタシの母が口元に手を当てて、顛末を見ているのだった。


「お母さん、なにみてんの」


「なにって、かわいい娘たちだよ」

 母は、お茶を啜って、続ける。

「スイ、あんたは心臓に毛が生えてるかもだけど、ユズちゃんはそうじゃないんだからね」


「スイ、きらい、きらいっ」

 ユズはワタシのシャツのお腹の上に頭を埋めて、ワタシの上体をポカポカ殴る、拳に言葉をのせて。


「ユズ、いまさらでしょ?」

 強引にユズのわき腹に両手を差し込んで、背中にまわして、正面から思いっきり抱きしめると、おとなしくなって、ユズもワタシの背中に手を滑らせた。


「お母さん、晩ごはん何?」

 ユズの肩越しに、母と話す。


「パスタでも茹でよかな、今日お父さん飲み会で遅いし、三人で先に食べちゃおうね」


 母はにやにや笑っていたが、ふと思い出したような顔に変わって、

「あそうだ、スイ、ユズちゃん借りていい?」


「ええ、ヤダ」

 ワタシは所有権を主張するように、ユズの背中を抱きしめなおす。


「ユズちゃん、海老剥き手伝って、海老。」


「やりますっ……スイ、もういいでしょ?」

 ユズはワタシの腕の中で上体を左右に揺らして、膝を立てる。

 ワタシをわがままっ子扱いして、相対的に自分を大人に見せかける魂胆らしいが、だけどユズは名残惜しそうにワタシにしつこく頬摺りしながらでもあり、身体は正直だ。


 立ち上がったユズは澄まし顔のつもりでつんとしていたけど、ワタシとの体温でりんごのようにのぼせていて、ワタシは思わず笑った。

 

「なに」


「なんでも」



 ユズは洗面所の棚からエプロンを取り出してきて、制服の上に身に付け、なにも言わず後ろを向いた。


 ワタシは背後の紐をとめていって、終わった合図として首筋に唇を落とした。



 スイレンの母は、甲殻類を生で触ると手がしばらくかゆくなるので、私がこうして手伝うことはよくある。

 てきぱきと、頭と脚を外して、ボウルに移していく。


 なすを切る軽快な音。

 瞬く間に具の下準備が進んでいく。

 主婦の年季にはまだまだかなわないといつも思う。

 

 彼女のショートボブの顎先にかけての鋭角なラインが、九十度回ってこちらに向いた。


 アイコンタクト。

 ぐらぐら沸いている寸胴鍋に、塩を溶かして、それから麺を投入した。

 こわばった肩をほぐすように箸を回すと、銀色の小世界の中を金色の糸が踊る、眩い劇団だ。


 それから、深いフライパンにオリーブオイルでにんにくと鷹の爪に弱火を通す。


 しばらくの後に、具材をどんどん炒めていく。

 スイレンの母が、順番に野菜を投入していく。


 いいタイミングで、麺が茹で上がって、具と合わせていく。

 麺が入ると重くて片手でフライパンが持てなくなるので、私は彼女と交代する。


 テーブルを拭き終えて、スイレンがふきんを持ってやってきた。

 受け取って、私は流水で洗って絞る。


 その間に、パスタは皿に盛り付けされていた。


 三人で一皿ずつ持って、食卓に着席した。


 今日は、スイレンは私の向かい側に座るようだ。


 並んでみると、スイレンとその母は目尻のあたりがよく似ているのが分かる。


 いただきます。


 海老と野菜具だくさんオイルパスタ。

 アルデンテ、ふたりで手際よく作ると完成度が上がって、よりおいしくなる気がする。


 スイレンの母が、隣の娘を肘でつつきながら話す。

「スイ、あんた学校でもそうベタベタするの」


「しないけど、なに」

 

「ふうん」

 

 スイレンの母は食べ終えて、ビールを飲みながら、なんでもないように言った。

「で、ユズちゃんはいつからスイが好きなの?」


 私は噎せた。


 相棒は三日月形に唇を歪めて、切れ長の垂れ目をきゅっと細めて、こちらを見つめている。


「……ことしの春」


「うそつくときのユズって、肩がこわばるからわかりやすい」

 スイレンは肩をすくめてみせた。


「……中学のとき」


「ユズちゃん目が泳いでるよ」

 ふたりがかりで、攻めるなんて!


「もう、小学生のときから、ずっとそうだったから!」

 これで満足?



 ユズは顔を真っ赤にしておこって、つんつんしながら三人の空になった皿を台所の流しへ下げて、ダイニングの向かい側のワタシの部屋に逃げていった。


「素直なんだか、素直じゃないんだか、ユズってば、よくわからない」


「なに言ってんのさスイ、あの子はすんごい素直だよ」

 母は半ば呆れ顔をワタシに向ける。


「ん……夏頃と比べたら、たしかにずいぶんやわらかくなったというか、憑き物が落ちたというか」


 ワタシは桜の蕾と蝉の声を脳裏に浮かべていった。




 晴れて同じ高校に合格して、春をいっしょに迎えたものの、桜が散ると同時にユズの口数は減っていった。

「ユズ、部活動決めた?」


「……」

 ユズは眠そうにも見える二重まぶたを重たげに持ち上げて、ちらりとこちらを見上げただけで、すぐ目を伏せて、目の前の課題を進めていく。


 ユズの部屋はちゃぶ台と本棚くらいしかなくて、あとは押し入れにしまってあるのが通常のはずなのに、その日は衣装ケースが飛び出ていた。

 今思えば、ユズの部屋の散らかり具合で、心理の一部が推し量れた気がする。


 その日はやけにユズの顔が暗くて青白かったから、学校から五階のユズの部屋まで、ワタシはユズといっしょに帰った。


 べつに体調なんて関係なく、これまでユズの部屋には週二で行っていた。

 同じ団地の二号棟に住んでいて、五階と六階の距離の幼なじみだから、行き来するのはフツーのことだけど、中学、高校と進むにつれさすがに頻度は減ってきていた。

 それはユズがワタシの家に来る頻度が減ってきていたことで、それから夏になるにつれてしだいにユズが部屋に入れてくれなくなることだった。


 ふたりで黙々と課題を終えたあと、ユズは文庫本を学校鞄から取り出して、ワタシの存在を無視するように物語に没入する、それでワタシは六階に帰るしかなくなる。


 結局、ユズが帰宅部を選んだことをだいぶ後になって知ったのだった。



 どんなに無口で無愛想になっても、ユズは毎朝ワタシと通学路で合流して、いっしょに登校して、いっしょに帰った。


 ワタシはどんなことでも話をしようとした。

「今日ね、陸上部のミーティングがあるから終わるの遅くなると思う」


「……」

 そのときはまだ、話しかけたらユズは視線を向けてくれた。



 だけど、朝練のために早朝からひとりで学校に行った日、ワタシが高校に入学してからひとりで行ったはじめての日、ユズは学校に来なかった。


 朝練を終えて制服に着替えて、ユズの席を見続けた。

 予鈴が鳴っても、二時間目に、三時間目になっても、ユズの席はもぬけのからで、それがそっくりそのままワタシの心象風景になった。


 ついにユズは来なくて、授業を部活を終え、ワタシはひとりで帰った。


 団地のエレベーターの五階のボタンを無意識に押していた。

 ワタシは外廊下を歩き、ユズの部屋の玄関前に立った。

 チャイムを押した。

 


 チャイムを押した。



 チャイムを押した。



 ワタシはドアノブを握って、回した。

 鍵はかかっていなかった。


 靴を脱いで、玄関に学校鞄を置いて、ユズの部屋のふすまを開けた。

 室内灯をつけていなくて、うす暗闇のなか、布団がわずかな膨らみをもって横たわっていた。


 街中の光に溢れた夜は沈みきらず、カーテンの隙間から近隣の建物の橙色や白色や赤色が煌々と差し込んで、布団の中の少女のシルエットを浮き上がらせていた。


「……ユズ、今日はどうして、……いや、……朝練に参加するの、だから早起きしてね、今日からそうで」


 ワタシは何を言ったらいいかわからず、うわごとのように並べた。

 ユズは寝てるか起きてるかも分からなかった。

 かけ布団を頭から被っていて、肩のあたりを揺すってみても何の反応もなくて、ワタシは諦めて帰った。


 部屋を出るとき、洟をすする音が聞こえた気がしたけど、今思えばあのときユズは泣いていたのだろう、すごすごと立ち去るなんて我ながら薄情だった、抱きしめてあげればよかった。



 それから、ユズの無口無愛想に、不機嫌まで加わって、目線すらくれることが少なくなってしまった。


 ワタシはどうしようもなくていらいらしてしまって、鬱憤を晴らすように陸上に打ち込んだ、そんな夏だった。


 

 ある日、ワタシはユズに攻撃した。


 どんなに険悪になっても、ユズはワタシに合わせて早起きして、いっしょに学校に向かうことは維持し続けていた。

 帰り道も同様に、ワタシの部活動中はどこかで時間をつぶして、校門付近で気付いたときには合流しているといった日常だった。


 その日の夕暮れは紫色だった。


「今日ね、橋本が砲丸投げですごい記録出してね」


「……」


「何メートルかは忘れたんだけど、とにかく一年生のレベルじゃなくて」


「……」 


「ワタシより細くて、小柄でかわいらしい女の子なんだけどね、橋本は」


「…」


「でもやっぱり筋肉あって、二の腕とか硬くてしなかやかだったな」

 ワタシが楽しそうに話すと、ユズは何もないところで立ち止まった。


 顔を伏せて、うつむいたまま、動かない。


「ほら、行くよ?」


 ワタシがユズの手を引っ張ると、引き摺られるようにして歩いた。


 団地の敷地内で、ユズの足は止まって、いくら手を引いても動かなくなった。

 ワタシは身をかがめて顔を覗くと、ユズはまぶたにいっぱい涙をためて、眉根をきつく寄せているのだった。

 ユズがひどくやきもち焼きで泣き虫なことを知っていて、その上で刺激して、期待通りになったことに罪悪感を抱きつつも、ワタシは口実を得た。


 ワタシはゆっくりとユズの背中に手を伸ばし、近寄せた。

 ワタシの胸にユズの頭が収まった、そのさらさらのセミロングヘアをしばらくなでていたら、最初は震えていたけど、しだいに慣れて落ち着いていった。


 ところが、突然ユズはワタシを突き飛ばして、顔を伏せたまま、一瞥もくれずに走り去って、エレベーターに駆け込んで、扉を閉じた。

 ワタシは追いかけたけど、一歩のところで間に合わず、ユズひとりを乗せたエレベーターは上昇していった。


 ほんとうに嫌いなら、ハグされる前に突き飛ばして振り払うはずだと思ったから、何十秒も受け入れてくれたことについて都合よく解釈して、これだ、足掛かりにしてやる、とワタシは思った。



 それから、ぎくしゃくしつつもワタシはユズと手を繋ぎたがったり、エレベーターの中で急にハグしたり、脈絡なんて言葉を忘れたように、不器用でめちゃくちゃな絡み方で接触していった。


 唇も奪った。

 

 そうして、なし崩し的にユズを溶かしていった。


 秋になる頃には、エレベーター内でハグするのは毎回のことになっていた。

 だけどある日気まぐれに、ワタシはハグせずに無表情で棒立ちすることにした。


 ユズは訝しんで、上目遣いをワタシに向けた。

 ワタシは腕組みをして素知らぬ顔で、いじわるをして、エレベーターは五階に到着してしまった。


 ワタシは六階のボタンを押していなかった。


 ユズがじっと睨み付けるから、ワタシは腕組みを解くと、ユズは待ちかねたようにワタシに飛び付いた。


 エレベーターの扉は閉じた、五階を停泊する密室で、しばらくの間ワタシとユズは抱き合って、体温を循環させて摩擦熱で火照っていった。


 それで、体温を持て余したワタシたちはエレベーターを降りて、ユズの家の玄関扉をくぐるや否や、ワタシたちは靴も脱がずに、口付けし合った。


 ユズは背伸びしてかかとを浮かせて、ワタシは背中を丸めて、互いの粘膜を吸い合った。

 身長差で、互いに窮屈で疲れてきて、ワタシたちは廊下の床に転がって、適当に靴を脱ぎながら、学校鞄を放り投げながら、烈しく唇を求めてむさぼり合った。


 それから床を転がるように移動して、ユズの部屋で一線を越えた。

 ほんものの現実のユズの指先が嬉しくて、ワタシはかんたんに何度も溶けてしまった。

 ユズの熱烈な眼差しに網膜を焼かれた。

 部活動から帰ってすぐだったし、ワタシはいつの間にかまどろみの中で溺れて、ユズを触る前に、ユズの布団の中で寝てしまった。

 

 ユズといっしょに、二十二時くらいまで寝てしまって、ワタシは慌ててユズの家を飛び出し、階段を駆け上がって、団地の外廊下を走っちゃいけないけど走って、両親が待つ家に帰った。

 連絡していなかったので、怒られた。



 それから、エレベーターのハグにキスも加わって、もうほとんどユズを解凍し尽くしていた。


 午前中で授業が終わった日、ワタシたちは寄り道せずに団地まで戻った。

 エレベーターに乗って、ワタシが六階のボタンを押そうとすると、その手をユズは捕まえた。

 

 ユズは肘で五階のボタンを押しながら、背伸びして唇をとんがらせて、ワタシの唇に迫っていった。


 そういうとき、ユズは言葉にせずに、ワタシを誘った。

 ユズの部屋にふたりきりになった途端、ワタシは引火したガソリンのように爆発的にユズを押し倒した。


 鮮明に思い出せる、ユズの戸惑いと躊躇いと期待の入り混じった、訴えるように濡れた瞳と、二重まぶたを縁取る長いまつげ。


「スイ、それ以上は、だめっ」


 ワタシがユズのカーディガンを脱がし、制服の白いカッターシャツに手を伸ばすと、ユズは胸の前で腕をクロスして、ワタシを拒んだ。


 でもワタシはユズの手首を力ずくで引き剥がして、両膝でのしかかるように組み敷いて、まな板の上の魚どうぜんにした。


 ユズはさすがに観念したのか、四肢はだらりと弛緩し、されるがままになった。

 ユズの艶やかな薄い唇は羞恥にまみれてふにゃふにゃにふやけていた。


 白いシャツが薄暗い部屋で冴え渡るように白い。


 そのボタンを一つ一つ下から外していくと、ユズはぐるぐる目をして、こみ上げる感情の渦に目を回したのか、ぎゅっと二重まぶたを閉じた、まるで幼子のかくれんぼのように、目を閉じただけで、自分が世界から切り離されたと錯覚しているかのように。


 ユズが制服のシャツの中に隠していたのは、パステルブルーの濃淡で、よくみるとチェック模様になっていて、カーブに沿ってフリルレースがあしらわれていて、おまけに左右中央と三つもリボンがついていた。


「ふうん、ユズ、今日は準備万端だったの?」


 ワタシがささやくと、ユズは近くに転がっていた枕を掴んで、顔を隠した。


「こういうお姫さまみたいなの、ワタシが好きって、知ってたんだ?」


 ワタシがストラップの下に手を入れて鎖骨を軽く掴むと、ユズは陸上の魚のようにびくりと全身を震わせた。


 ワタシはカッターシャツとインナーを脱いで、その辺に放り投げながら、

「ユズ、往生際、ワルいんだから」

 枕を引っ剥がして、頬を両手で包んだ。


 それから、ユズの左手を手にとって、ワタシの下着の上から心臓の拍動がわかるくらい、胸に押し付けた。

 やっと見開いたユズの瞳は驚きと呆然と好奇心に入り混じっていたものの、しだいに欲望が顔を覗かせていった。


「ユズ、なんか言ってよ」


「……」

 上の空で、ワタシの胸と両手にサンドイッチされた左手に神経が偏っているといったふうなので、好きにさせながらも、ワタシはユズが答えるまで、唇の雨をおでこや頬や鼻や首筋や鎖骨や薄い胴に降り注ぎながら、なんか言ってよと頭の悪いオウムのように繰り返し質問した。


「……スイが」


 蚊の羽音のように小さい声を聞き逃すまいと、ワタシは檻のようにユズをとらえている両腕を曲げて、上体を顔を耳を、ユズの頭に近付けた。


 スイがピンクなんて意外、とたしかに言った。


 ユズはこういうのが好き?と聞いても、はにかむだけで答えてくれなかった、そのことを思い出した。



 アルバムの十数ページを同時に眺めるような回想だったから、それはまばたきとまばたきの間のことだ。


 食後、いつものように母はリビングでテレビの前を陣取って何か観ている、ショートボブの後ろ姿はもう何年も変わらないように思うけど、実は白髪をぼかすようなカラーをはじめたっぽい。



 この満腹感はユズの愛情そのものだから、ワタシはうれしさで炎になる、メラメラと身体が疼きはじめる。

 ワタシはユズのあとを追って自室に入る。



 スイレンの部屋は、女の子の部屋ってかんじがしない。

 散らかってはいないけど、どこかおおざっぱで、機能最優先でまとまっている。

 しばらくスポーツに専念していたひとの部屋のように、実際そうだけど……、着飾ったところがない。


 生活感というか、人間性があらわれていそうなのは、ベッドの隣に向かい合う、勉強机だろう。


 授業の時間割表をマスキングテープで無造作に貼っている。

 ペン立ては中学の美術の授業で作った寄せ木細工だ、ダサくて、しょうじきありえない。


 写真立てが一つ傍らに置かれている。

 相棒と私がおでこをくっつけて手のひらの上に舞い降りた雪の結晶を覗き込んでいる、小学四年生の冬休み、大雪が街を覆った日。

 

 かじかんだ手を、お互いに服の中に入れ合って、お互いの体温で癒やしたことを思い出した。



 そうだ、私たちはむかしからちっぽけな口実を見つけては肌に触れ合ったんだ。

 シンデレラや白雪姫ごっこをして、キスをしたり。

 お医者さんごっこで、心臓を触ったり。


 夏の暑い日は、虫除けジェルや日焼け止めクリームを塗り合ったり。

 冬の寒い日は、免罪符を得た気分で、あたためあうためといって、ずっとくっついていた。


 それが、中学生高校生となるにつれて、もっと大きな口実じゃなきゃいけない気がして、自分でかけた足枷が重くなっていって、触るのがしだいに怖くなっていった。


 子どもみたいに、身軽に溶け合いたかった、ずぅっと。

 それができなくなるなら、大人になんてなりたくなかった。

 だから、本心を示すように背が伸びず胸も膨らまなかったのだと思う。



 スイレンが何の理由もなく私にハグしてくるようになったのが、うれしかった。

 年を重ねるだけで、意味合いの色や重みが変わっていく、変わってしまう、スキンシップ。


 だけど相棒はむかしみたいに近付いてくれた、求めてくれた、あたたかくなれた。



「ユズ、……ほら!」


 スイレンが、ベッドの下の衣装ケースを引き出して、マフラーをするすると手に取った。


「……思ったより、あんまりほつれてない」


「ふふ」


 相棒は、むかし私の作ったマフラーにずっと頬摺りする、目を細めて。

 そうすると切れ長の垂れ目の、凛々しさと柔らかいしたしみのバランスが後者に寄っていく。

 冬の午前中の日差しのような視線に、染み渡る優しさに包まれていく。


 だけど目の前にホンモノの私がいるのに、いつまでも身代わりを触っているなんて、と顔を覗かせるものがあって。

 さっきの優しさのようなものが反転した、黒々とした感情が墨汁のように心に染み上がって塗り変わっていく、それを私はいつも防げない、傲慢にも。


 私は相棒からそのマフラーを奪って、丸めて衣装ケースに突っ込んだ。


「しかたないなあユズは、……自分の作ったのにも、やきもち?」

 答えずに、ベッドに腰掛ける相棒の胸中に吸い込まれるように頭を潜らせていく、やわらかで弾力に富む感触。


 シャツに声をくぐもらせながら、きいた、唐突すぎかもしれないけど。

「スイは、どっちが好き?……魚か肉か」


「肉かなあ」


「牛か豚か鶏か」

 こんなこと聞いても、相棒はその日その日で回答を変えるけど、……クリスマス、どうしよう。


「牛肉かなあ」

 スイレンは私の頭を撫ではじめた。

 大きな手のずしっとした重みが、私のどこかをほぐしてほどいてひもといていく。


「みかんか、オレンジか」


「……ユズ」

 答えになってない、いみわからないことを、相棒は期待通りにやってくれる、むずったい。


「たけのこか、きのこか」


「たけのこ!」



「おっ……」


「お?」

 相棒は撫でる手を止めた。


「……おんなか、おとこか」


「ユズ」



「お、おおきいか、ちいさいか」


「なにが?」


「……」


 訝しんだのか、スイレンは胸中の私の両肩をつかんで肘を伸ばして、一回キスをしてから、私の顔をまじまじと点検するように見つめた。


「いってくれないとわかんないよ、ユズ」


 やっぱり、言えるわけがない。

 それに、今日は口をすべらせすぎだ、私じゃないみたいだ。

 だけど、ふるい自分なんてめちゃくちゃに破壊してほしい、スイレンに、私を好きに組み立て直してほしいと、そう思ってもいるから、坂道を転げ落ちるように、どうにでもなっちゃえ。


「む、ね……」

 目線なんてぜんぜん合わせられなかったけど。

 あさっての方向にある勉強机の椅子の木目を数えている。


「……胸?」

 スイレンはもったいぶったふうに、私の肺と心臓の住む鳥籠を、手のひらでとんとんと叩いた。


 私は顎を五ミリメートルくらい引っ込める、わずかに頷いた。


 向かい合う相棒の顔を表情を見たいけど、目を合わせたなら、自分の内側がぜんぶ裏返ってしまいそうで、そんなことはこの心臓がゆるさない。

 いや、この際、私の心臓をあげてしまおう、私のスイレンに。


 スイレンの右手を、左手そして右手で摘まんで、籠の中に飼っている暴れる仔獅子が噛み付く距離まで近付け引きつけ押しつける。


 私のドキドキ、周波数、シグナル。

 私のモールス信号は至ってシンプルだ。

 スキ、ダーイスキ、この二音だけ。

 脂肪の壁がないから、よく聞き取れると思うのだけれど。



「……ユズ、気にしてたの?」


 鼻先が触れ合うくらい近付いてきた顔に、ふと上目遣いを向けると、スイレンは三日月形に口角を上げて邪悪な笑みを浮かべていた。

 

「なにそのかお」

 ろくでもないことを考えてるに違いない、不気味だ。


「ユズ、もっと気にしていてよ、ちいさいことを」


「はあ?」


「……えっと、つつましやかなことを」


「そうじゃなくて!……言い直さないでよ、いみわからない」

 

 不気味な女は、ポニーテールにまとめた髪の側頭部、こめかみから耳の上をぽりぽりかきながら、あやしげに光る双眸を私に向ける。


「ちいさいって悩むのが、かわいいから、悩んでいてよって言ってるの、ユズ」


「ッ!」

 思わず、上擦った悲鳴に近いなにかが、喉から吹き出た、違う生き物みたいな鳴き声が自分の身体から出たとはなかなか認められなかったけど。


 ……ヘンタイ!!




 心外だ。


「ユズのせいだから、ワタシがこんなになっちゃったのは、ずぅっとユズしか考えてなくて、こうなったんだから」


 弁解しつつ、ユズのちいさくてかわいい胸部を堪能する、服の上からでもユズはすごくドキドキしているのが指に伝わり、腕肩首を通って脳に響いていく。


 ……ヘンタイだなんて罵ったくせに、すこしうれしそうに唇をほころばせたのを、ワタシが見逃すはずがなかった。


『なに言ってんのさスイ、あの子はすんごい素直だよ』

 母の顔がよぎった。


「だからねユズ、ワタシには、ワタシの好きには女だとか男だとか、そういうのはなくて、ぜんぜんなくて」

「最初からひとりだけ、ユズだけ、そういう……気持ちになるのは」


「そういう?」


 ベッドに腰掛けるユズの腰と首にまとわりつきながら、ワタシはシーツ上に背中を落としていき、いっしょに寝転がって、掛け布団でふたつの頭を覆った。


 ひみつの話をする即席の舞台だ。


「わかってるくせに、……こういうことしたい気持ちが、ワタシにはユズだけってこと」

 視力と聴診器をなくした医者のように、手探りでユズの服の中をまさぐっていく。

 いやワタシ自身が聴診器にでもなったみたいに、あるいは蛇の捕食のように、ユズのなだらかな・なめらかな薄い胴をすみずみまで味わっていく。


「も、もうわかったから、っ」

 ユズは逃げ出すようにも留まるようにも身じろぎする。

 狭いドーム状の密な空間は、布と羽毛に遮られて、室内灯が十分の一ほどにシャットアウトされている。

 それでも、ユズの表情を薄く照らして、まぶたや鼻や人中や顎の細かな輪郭と陰影が浮き上がっている、いとしい曲線たち。


 ユズは、十年前に戻ったみたいな、全力で脱力して、くだけた笑顔を咲かせていた。


 ……ワタシは泣きそうになった。


 二重まぶた、大きな目をくすぐったそうに半分にして、それからすらりと整った鼻、……ふにゃふにゃになった薄い唇。


 あどけなさの残る顔で、熱したチーズがとろけるような微笑みはユズをより幼くみせた。


 (……ふだんユズがつんと澄ましているのは、大人びた表情を繕っておかないと、いくつも歳を下にみられてしまうからで、メイクアップも背伸びのひとつで。

 あか抜けとかそんな次元じゃないくらい、かわいいくせに、背伸びしないと戦えないとかんちがいしている……)



 むき出しのほんとうの素顔をずっとずぅっとみせてよ、ワタシだけに、ユズ。

 ……いや、ワタシの両親にも、みせたい。


 

 ユズとワタシは出会って十年になろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ