猫の行く先
「にゃあ」
猫に呼ばれた。
その綺麗な白い猫は私と目が合うと、まるで誘うように踵を返して路地裏の細い道に入った。
その猫を追って私もその道に入る。
「どこに行くの?」
と、尋ねても白猫は答えない。
そりゃあそうか。猫だもんね。
でもその白猫は私に付いてくるように誘っているみたいだ。たまに立ち止まってはこちらを振り返る。
猫を追いつつ細い道を抜けると大きな通りに出た。
この道は住宅街の中心を通り抜けるように走っていて、車通りが多いくせに、横断歩道はあっても信号機が無く、とても危ない。
先月もここで交通事故があったばかりだ。その道を白猫が渡り抜けようとしている。
「待って!」
つい叫ぶと、その言葉がわかったかのように猫の足が止まった。
こちらを見て立ち止まっている猫の元に小走りで駆け寄る。
私の姿を見た車が横断歩道前で止まる。それを確認して足を踏み出すと、合わせるように猫もまた歩き始めた。
横断歩道を渡りきったところにある、大きな公園に入る。
子供たちがボール遊びをしているグラウンドを横に眺めながら、公園の樹木の間に作られた遊歩道を通り抜ける。ぐるりと回りこんで反対の出入り口から公園を出た。
道を挟んで向かい側にあるコンビニの自動ドアが開いた。
ちょうど、私と同じ年くらいの女の子たちが買い物をして出て来たところで、そのうちの一人はもう手にしたお菓子の箱を開けようとしている。
塾が……と話しているのが耳に入った。
多分大通りのバス停からバスに乗って、これから塾に向かうのだろう。
彼女たちの会話に気をとられているうちに、一瞬猫を見失った。きょろきょろと辺りを探して見回す。
「にゃあ」
まるでそんな私を呼ぶように、また猫が鳴いた。
猫はコンビニ横の自販機の前に座って待っていた。
まさか猫が飲み物をねだっているとは思わないけれど……
今日は日差しも強いし、気温も高い。そりゃあ猫だって喉も乾くだろう。
ミネラルウォーターを買い、自分用にもレモンティーを買った。
白猫はさらに、コンビニ横から続く坂道を登っていく。
この坂はさほど急ではないけれど、だらだらと長く続く。辛過ぎない程度の傾斜を猫を追いながら登っていくと、だんだんと息が切れてきた。
普段、勉強ばかりで余り体を動かしていない。
しかもこの間テストが終わったばかりで、テスト勉強の為にしばらく勉強机に齧りついてばかりだった。きっといつもに増して運動不足なんだろう。
たまには体を動かした方がいいよと、先輩に言われた事を思い出した。
坂を登り切った所でふぅと息を吐く。顔を上げると目の前に神社の鳥居がある。
その鳥居をくぐった所で、また猫が「にゃあ」と鳴いた。私を誘っている。
でもさすがに息が苦しくて。ちょっと待ってと猫に言った。
自販機で買ってきたレモンティーの蓋をきゅっと回して開ける。
爽やかな香りの紅茶はまだよく冷えていて、乾いた喉を流れ落ちながら潤していく。
三口一気に飲んで、ペットボトルから口を離すと、猫が足元に寄ってきている事に気付いた。
「あなたも飲む?」
そう言ってミネラルウオーターの蓋を開ける。
差し出した左手をお椀のように丸め、少し水を注いでみせると、猫のざらざらとした舌が私の手のひらを舐めた。
ぴちゃぴちゃと猫の舌が動いて水が減った分を、また少しずつ注いでいく。
満足したらしい猫が口を離すのを見て手を払うと、もう一口レモンティーを飲んだ。
気を取り直して鳥居をくぐり、山の上に向かう神社の階段を登っていく。
一休みして少し落ち着きかけていた呼吸がまた荒くなる。
一歩一歩踏みしめながら、石造りの階段を登っていく。今度の傾斜はさっきの坂に比べて容赦がない。
もういい加減終わってくれないかと、何かに祈りたくなった頃に、やっと一番上についた。
* * *
振り返って今まで通ってきた道を見下ろした。
神社の階段の先に、長い坂道が続き。その先に広めの公園がある。ここからでは見えないけれど、遊んでいる子供の声が響いてくる。
公園の向こうの大きな通りを車が何台か横切っていくのが見えた。その先はもうここからだと、連なる家々の屋根ばかりしか見えない。
その屋根たちを、公園を、坂道を、階段を、沈みはじめた夕日がゆるやかに赤く染め上げようとしているところで。
その風景の向こうで、自らをも赤く染まっていく夕日と包み込んだ空が、同じ色に滲んでいた。
あの時に見惚れた風景そのままで。じっと立ち尽くしていた。
しばらくして、猫が私の足に背中を擦り付ける感触で我に返った。
ああ、そうだね。あの時、ここであなたに出会ったのよね。
この場所とこの風景は、ずっと忘れられない。
私は塾に行く途中で…… でもその日はなんだか塾に行きたくなくて。
塾に向かうバスを途中で降りて、ふらふらと彷徨った。
鳥居の赤い色に惹かれて、なんとなく階段を登った。
振り返って見た夕日が、夕日の染まっていく風景がとても綺麗で……
偶然そこに居合わせて、私に背中を擦り付けてきた白猫を撫でながら、ただ街並みをぼーーっと見ていた。
先輩と出会ったのはその時だった。
ううん、最初は先輩だなんて知らなかった。
偶然出会った、知らないお兄さん。
そのお兄さんは、私の様子を見て何かを悟ったのだろう。
そこで買ってきたばかりだと言って、私にレモンティーを手渡してくれた。
お兄さんと猫を撫でて、レモンティーを飲みながら話をしているうちに、すこしずつ私の気分は凪いでいった。
そして、お兄さんが私の通っている学校の卒業生だと知った。
だから、先輩。
そう呼ぶと、彼はちょっと照れくさそうに笑った。
それから、塾に行く前にちょっとだけここに寄り道をするのが楽しみになった。
何度も会って話をするうちに、私は先輩の事が好きになっていたんだろう。
名前も知らないし、どこに住んでいるかも知らなかったけれど。
「やあ」
後ろから声がした。
「やっぱりここに居たんだね」
振り向くと、いつもと変わらない先輩の姿。
「会えてよかった、君に伝えたい事があったんだ」
「うん、私も…… あの……」
私にも先輩に伝えたい事があった。
「私、先輩の事が……好き、でした」
そう言うと、先輩は少し困ったように笑った。
慌てて首を振って、言い訳を口にする。
「わ、わかっています! 困りますよね! もう少し、早く……」
自分の言葉に、ぽろりと涙が出た。
「もっと早く……言えればよかった……でももう……!!」
先輩は止まらぬ涙を手の甲で拭う私の頭を、あの時のようにポンポンと撫でる。
「君の気持ちに付け込むようで悪いけれど、こいつの事を頼んでいいかな?」
そう言って、足元にいる白猫に目を向けた。
「本当は僕が飼ってやりたかったけれど、もう飼えなくなっちゃったから」
うんうんと、先輩の言葉に頷いた。
「ありがとう」
先輩はそう言うと、もう一度また私の頭を二度撫でた。
まだ涙の止まらぬ私と白猫を残して、先輩は静かに去って行った。
* * *
白猫を抱いて家に帰る。
「お帰り。飼いたいって言ってたの、その猫?」
母は猫を見て、そう言った。
「うん」
「テストでいい点とったらって、約束だったもんね。ちゃんと自分で面倒を見るのよ」
母に返事をして、そのまま二階に向かう階段を上がった。
自分の部屋に入り、白猫を部屋に放つ。猫は部屋の中を確認するように、あちらこちらの匂いを嗅いで回った。
そして、ローテーブルの上に置いてあった新聞を見つけると、こちらを見て「にゃあ」と鳴いた。
その新聞にはあの公園前の事故の記事。
そこに載っているのは先輩の写真。
公園から転がったボールを追いかけて来た子供を、先輩が庇ったらしい。
私は、先輩が事故死した新聞記事を読んで、ようやく先輩の名前を知った。
伝えたくても伝えられない、恋心の向かう先はもうこの世にはいない。誰にも告げる事ができなくなってしまった。
でも私にありがとうと言ってくれたあの先輩は、幻じゃあなかったように思えた。
涙を拭う私に向けて、白猫がまた「にゃあ」と鳴いた。