先代勇者は木竜と協力したい
「木竜ー? どこー?」
鬱蒼と繁る深い森の中、金色の鳥が歩き回っている。木竜を探していた。
ここは天空に浮かぶ庭園である。庭に固有名詞は付けられていない。庭の所有者である木竜が名付けに迷い続けており、今も無名のままだ。聖竜間では仮に、木竜の家と呼ばれている。
島と呼ぶには狭く、庭と呼ぶにはやや広いこの庭園に人工物は一つだけ。木竜が住む小屋である。その他は地上と変わらない地面に、地上より遥かに大きく瑞々しく育った木々が生え、一年中様々な花が目を焼くほどの眩さで咲き乱れ、同じく一年中様々な果物が実り、ありとあらゆる病に効く薬草やありとあらゆる苦悩を与える毒草が自生している。虫や動物はほとんど見られない。居たとしても定住せず、すぐに地上に戻る。高度が高すぎるためだ。
天敵がおらず、天空で太陽の恩恵を、そして植物を操る木竜の加護を受け、この地の緑は際限なく育ち続けていた。時折地面が植物に負けてしまうため、木竜が剪定したり地竜が土を譲ったりしているくらいには無遠慮に育ち続けている。
さて、この地は紛れもなく木竜が住む場所である。しかし、金竜とユーツァ達が訪れたとき、木竜の小屋には生き物の姿がなかった。よって、金竜が木竜を探して木の洞を覗いたり、軒下に顔を突っ込んだりしているわけである。
「……置き手紙だぜ、木竜から」
小屋の中を漁っていたマチノが、私室のテーブルに置かれていた紙を持ち出した。古い文字で何事か書かれている。竜が好んで使用している創世文字だ。時代についていけない一部の竜でも読める文字である。
金竜が読み上げる。
『出掛けています。用件がある方はカシ・アミューズメントシティまで』
カシにあるアミューズメントシティは、世界最大規模の賭博場である。金も地位も名声も権利も命も何もかもが手に入る土地である。勿論それは運次第だが。
ユーツァとマチノは顔を見合せた。
「あのギャンブル狂い……」
「まさか聖竜様が賭け事に興じられるなんて……」
「あっはっは」
カシと呼ばれる町に、勇者一行は訪れていた。本来なら天空の庭園と呼ばれる地へと向かわなければならなかったのだが、その手段が手に入らなかったのだ。いくつかの土地をたらい回しに合い、ようやく僅かな情報を得て、やって来たのがこの賭博場だった。
そこで、頭部から白い木の枝を角のように生やした、妙に神々しい男を見付けたのだ。ディーラーにいちゃもんをつけて大騒ぎしている彼こそが目当ての木竜である。それに気付いた僧侶が声をかけて、回収し、今に至る。
「俺は世界が生まれると同時に生まれてるんだよ? 欲もまた世界が生まれると同時に生まれたもの。つまりは兄弟だ」
木竜は言うが、同じ境遇の他の竜達はあまり人間の営みに参加せず、高みから見守るという姿勢を維持しているのだ。賭け事に没頭しているのは彼個人の性格である。
「改めて、良いか。我々は貴方の血をいただきたく参ったのだが」
「うん構わないよ」
木竜はあっさりと承諾した。今までで最も話が通じる相手であることに、勇者一行は安堵する。今までで最も出会いにくい存在ではあったが、努力の甲斐があるというものだ。
しかし木竜は続ける。
「ただなぁ、こちらも切られると痛いんだ。五万Gで引き受けよう」
五万Gは大金である。王都に家一件は建つ。かなりの大金である。巨額を転がすカシにおいては、時々見なくもない数字ではあるが……そう簡単に出せるものではない。
「……金を取るのか」
「無料ほど高いものはない。知らないかい? それに俺の血は他で代用できないものなんだろう? だったらそれくらい価値がついておかしくないんじゃないかな」
本当に聖竜なのかと疑いたくなるほど、木竜は人間らしい竜であった。
魔法使いが大きく息を吐く。
「竜と商売をしたのは初めてね……」
「取引してくれるということかな?」
「必要経費と割り切るわ。ただ、こちらもそんな大金を持ち歩いてはいないの。待っていてくれるかしら」
「勿論。俺はここに滞在予定だからいつでも問題ない。三丁目に俺の家があるからね、そちらに来てもらってもいいよ。見たらすぐわかると思う」
当然のように言っているが、木竜の居るべき場所はここではない。家を持ち、定住することはあり得ない。そのはずだが。
「……天空の庭園には、戻られないんですか?」
「ガーデニング飽きちゃったんだよね」
非常に人間らしい感覚の発言が帰ってきたため、僧侶は返す言葉を見付けられなかった。
木竜の足元に、赤いリボンを着けた黒い猫がすり寄る。木竜は黒猫を抱え上げた。
「ミヤ、迎えに来てくれたの」
黒猫は尾を一度大きく振った。返事のようだ。木竜は優しく黒猫の頭を撫でると、勇者一行に向き直る。
「それじゃ、また今度会おう」
翌日。
「やあ、早いね。金策は上手くいったかい?」
勇者一行は木竜の家にやって来ていた。言っていたとおり、一目で彼のものとわかる建物だ。壁一面蔦と葉で覆われ、何本も木が生えている家なのだから。
招かれ、足を踏み入れた室内も外と同じく植物で溢れている。その様子を見てたじろぐ勇者一行の足元をすり抜け、黒猫が屋外へ飛び出した。僧侶がそれを目で追う。
「今の猫……」
「ミヤという。すまないね、挨拶もせず行ってしまった」
「聖竜様も動物を飼われるんですね」
「……うん?」
やはり木竜は、あまりにも人間らしい行動をする竜だ。そのことを再確認して、僧侶は一人、自らの信仰を強くしていた。
魔法使いが本題を切り出す。
「ところで、五万Gのことだけど」
「ああ、うん。どうかな?」
「かなり……待ってもらうことになりそうなのよね」
「そう。構わないよ。時間はたっぷりある」
勇者一行は金に困っているわけではない。しかし大金を所有してはいない。彼らの旅は勇者を送り出した国からの支援金によって成り立っている。その増額となれば当然、国へ申請しなければならない。手続きにも時間はかかるし、一括で渡されるとも思えず、何より『竜の血を買う金が必要』と言って信じてもらえるかが最大の障害となっていた。
幸い、木竜は急かす気が無いらしい。長すぎる月日を生きている竜なのだから当然とも言える。
「ああところで、俺の能力は治癒だ。薬草を生み出し、その力をより高めることができるというのが本来の力だね」
「そ、それは女神の回復術とは異なるものですか?」
聖竜の技についての話が持ち出されて、食い付いたのは僧侶だった。勇者一行の中で唯一回復術が使えることもあり、興味深い話題であった。
「そうだね。回復術も同程度扱えるけれど……それと同時に、過ぎた薬は毒となることも知っている」
「毒?」
「物事には程度がある。金も食もあらゆる快楽も、適度であれば人生を彩るが、過度であれば身を蝕む。過ぎたものは及ばないものよりも悪い。さて回復術を使えるのは、今は君だけかな?」
「は、はい!」
木竜は僧侶に向かって手を差し出した。手の平の上には青々とした葉が一枚乗っている。
「この葉に治癒を行えば、行い続けている限りは青々と色付き、枯れることはないと知っているだろう。さて、葉の先端にのみ過剰に癒しの力を注げば、どうなるか知りたいかな?」
「はい、お聞かせください!」
「君が望むならば、教えよう」
木竜が言うと同時に、葉は見る間に萎れ、やがて乾燥し崩れていく。僧侶は目の前の奇跡に目を輝かせた。木竜が使った力は紛れもなく、僧侶が使うのと同じ回復術である。しかし、それによる破壊というものは考えたこともなかったのだ。
僧侶はどのようにこの奇跡を成したのか問い、木竜は答えた。木竜の教えはわかりやすく、僧侶はすぐにその術の理論を理解した。しかし。
「これで大体わかったかな? 受講料は千Gでいいよ」
「あっ! えっ……」
有料だった。
思わず魔法使いが声をあげる。
「ちょっと、今のは酷いでしょ!」
「回復術は命に直結する。必要なことだと思うが。君達、俺が最後の竜なんだろう? つまり次は魔王と戦うわけだからね、戦力は僅かでも上昇させておきたいものじゃないかな」
正論である。魔法使いが押し黙ると、木竜は続ける。
「五万Gは分割払いにしてあげる。手数料も無し。ぴったり五万G払い終えたら俺の血を譲ろう。それと、回復術について更に知識を得たいなら、こちらも支払い必須だと覚えてくれ」
にこにこと笑う木竜には、有無を言わせない圧力があった。
それから数日経ち、本日は支払日である。魔法使いと勇者の二人が木竜の家を訪れていた。木竜は黒猫を腕に抱えながら、渡した代金を一瞥して頷く。
「講義代と、竜の血の分ね。確かにいただいたよ」
「……木の聖竜よ。貴方は金に困っているようには見えないが」
「でも、君たちって国から支援金が出ているのだろう? 先代の勇者は快く払ってくれたよ」
こちらの収入源の一つを知られていることに、魔法使いは密かに歯噛みした。そのような駆け引きには気付かず、勇者の興味は先代の勇者に向かう。
「白の勇者も?」
「まあ、彼はほとんど労働で支払ったことになるかな」
「労働? そういうのアリなの」
「あの時に求められていたことがそうだった、というだけだよ」
可能性を見出だした魔法使いに、木竜は穏やかに答える。
「二百年のこの辺りは、人が住める土地じゃなかったんだ。だから沢山の動物達が暮らしていた。大森林と似たようなものだったんだよ」
「……開拓の費用か?」
「逆だ」
「逆とは」
「俺はこの土地を守りたかったんだ。無理だったけどね」
言って、木竜は手の平を差し出す。
「はい、情報料二百G」
「……」
呆れて声も出なかった。
「……さて、数日経ったわけだけど」
金を貯めては木竜に渡す生活に馴染みつつある中、資金を管理している魔法使いが吠えた。
「私達の生活費だってあるのに! このままのペースじゃ五年はかかるわよ! 大体何よあの竜! 何が目的なの!?」
「……金じゃねえのか?」
「だったら他にも手段があるでしょう! 全うに治療師として働けばいいのよ! それをやらずに世界平和のために旅する勇者から搾取するその神経が知れないわ! 第一、私達が渡したお金どこやってんのあいつ!?」
「ギャンブルでは?」
「最悪じゃないのあんの俗物竜!」
だんっ! 魔法使いはすぐそばの机を殴り付ける。それで怒りを発散させたようで、今度は静かに、力強く断言した。
「……金欲に際限は無いわ。それは他の欲を埋めるための欲なんだもの」
深く深く息を吐き、今度は頭を抱える。
「だあああああもう何でもいいから金が欲しい!! ハッ、体で払うっつったら割引にならないかしら」
「聖竜様相手に何をするつもりですか!」
「煩いわね! アンタも望むところでしょ!」
「……コンラッド」
嘆く魔法使いを余所に、勇者は戦士を呼んだ。聖剣ではなく模造剣を持ち、窓の外を指す。
「このままだと腕が鈍りそうだ。相手をしてくれ」
「……お、おう」
戦士も鍛練用の模造剣を持ち、答えた。
金竜の住む鉱山での一件は一切触れられることなく、勇者も仲間達に伝えることなく、あれから一月は経過している。戦士はマチノからの指示が無いため動くに動けず、仲間達がいる前で勇者の真意を聞くこともできず、重々しい気持ちで行動を共にしていたのだ。
ようやく、一対一で話ができる。そう期待した。
模造剣を持ち、向かい合い、切り込むより前に勇者が話を切り出した。
「お前が何を思って、私を裏切ったのかは知らんが。私はお前を手放すつもりはない」
「……え」
「私はお前を越えてみせる」
言って、勇者は強く剣を握り、踏み込む。戦士の懐に飛び込むと、素早く剣を打ち込んだ。
戦士はそれを受け止めようとするが、間に合わない。素早く次々に襲い来る衝撃に対応しきれず、バランスを崩した戦士は背中から倒れ込む。
仰向けに倒れた戦士の顔に剣を突き付けて、勇者は言った。
「それまで死ぬな。それまで離れるな。絶対にだ」
「は、はい……」
今、圧勝されたような気がするんだが。という言葉を、戦士は飲み込んだ。それを言ったら何もかもが終わる気がして。
そしてとある支払日。勇者一行は金を持って木竜の家を訪れた。いつも通り、何度払っても翌日には元に戻っている蔦を掻き分けてノックする。いつもなら、悪意の一欠片も見えない故に腹立たしい守銭奴竜が穏やかに出迎えてくれるのだが。今回は、室内でどたばたと音がしたかと思うと、木竜が大慌てで飛び出してきた。
そして前に立っている魔法使いに捲し立てる。
「ルーシー君。ミヤを捜してくれないか。俺の血でも何でも渡す。彼女を見付け出してくれ。彼女は海が好きだったはずだ。でも捜してもどこにも……!」
「ま、待って、落ち着きなさいって」
「落ち着いていられるはずがない。頼む。昨日から帰ってこないんだ」
「ええと、ミヤって」
「黒猫だ! 美しい黒い目の!」
木竜が怒鳴る。彼が笑みを崩したのも、声を荒げたのも初めて見るものだった。これは重大なことだろうと、宥めて落ち着かせて、事情を問う。
木竜は変わらず焦った様子のままだが、ぽつりぽつりと話し始めた。
いつも抱いている黒猫が、昨日の朝出掛けたきり帰ってこない。彼女のお気に入りの場所を捜したけど見付からない。こんなこと今までなかった。何かあったのではないか、と。
「彼女さえ居てくれたら俺はそれでいいんだ。血も術も譲る。だから……彼女を捜してくれないか」
それから少し経った頃。
「木竜ー! 勝手にどっか行かないでよねー!」
「……金竜?」
黒猫を捜して町中をさ迷う木竜に、肩に乗る大きさの金の鳥が飛び付いた。金竜である。町中を竜の姿で飛び回れば大騒ぎになるからと、人の頭くらいの大きさに変身しているのだ。
人間嫌いの彼は、人間の姿に変身するくらいなら町一つ滅ぼす覚悟でいる。よって、それより遥かに難しい小型化を体得していた。
肩に乗ってふんぞり返る金竜を見て呆けていると、二つのよく知る声がかけられた。
「よ、木竜」
「どうしたよ? 珍しく感情的なツラしやがって」
ユーツァとマチノである。
補足だが、金竜達が木竜を捜し始めてから……つまりは金竜が鉱山を離れてから一月経過している。金竜の翼なら世界中のどこにでも、最長二日ほどで飛んでいけるというのにこれほど遅れたのはどういうことか。それは、天空の庭園からカシに来るまでの間にいくつかの都市を観光したからに他ならなかった。
金竜は人間が嫌いであるが、珍しいもの好きでもある。ユーツァとマチノという仲間と共に居る滅多にない旅行は非常に楽しいものであったらしい。長年生きて時間感覚の鈍った彼らにとってこの一月は、木竜に遊びに行く前に三人で寄り道しちゃおう、程度である。
「君達……」
木竜は意気消沈した様子でユーツァを見る。ユーツァは、いつも木竜のそばに居る馴染みの姿が無いことに気が付き問いかける。
「ミヤさんは?」
ユーツァが白の勇者として活動していた頃から、木竜は黒猫と共にあった。その時の彼らは二人で天空の庭園で暮らしていたのだ。
「……居なく、なってね」
「里帰りでもされたかァ? 流石に何百年も一緒に居るんじゃあな」
マチノが茶化す。
「いや……いつも通り朝に別れたんだ。昨日の。それきり……」
「帰ってこないと」
「ああ。報酬は弾む。彼女を捜してくれないか」
ユーツァとマチノは顔を見合わせる。そして同時に言った。
「しょーがねーな」
「ダルい、無理」
タイミングはぴったりだったが考えは逆だったようだ。
ユーツァがマチノの頭を軽く叩いた。
「だーって、どうせただの気紛れだろ? 過保護過ぎだっての」
居なくなったのは黒猫である。気ままで、束縛を嫌う。猫が一日くらい外に出ているなど、普通の飼い猫ならばなにもおかしくはないことだろう。
しかし木竜にとってはそうではない。彼は言い返した。
「もし何か事故に遭ってたらどうするんだ」
「はァ? 木竜さんの得意技は何でしたっけェ?」
「死んだら生き返らないってこと忘れてないか」
「俺達より長生きの猫じゃねェか。今更なにを」
「お前、俺に負けたことになってるの根に持ってるだろ」
「べっつにー」
マチノと木竜は二百年前に行われた竜巡りによって知り合った仲だ。その時のことを記した信憑性皆無な白の勇者と黒の英雄伝説において、そういう扱いになっていた。実際は戦ってもいないにも拘わらず。だからといって不仲なわけではないのだが。
雰囲気が悪くなるのをユーツァが無理矢理軌道修正する。
「はいはいマチノ黙れ! 探知魔法とか使ってたりしないの?」
「プライベートを詮索する趣味はない。そんなことをしなくても必ず帰ってきてくれたんだよ……」
「ミヤさんが行きそうなとこって知ってる?」
「普段は商店街に……それと、海を眺めるのが好きなんだ」
「オーケー、その辺重点的に見てくる」
黒猫は、カシのとある海岸に訪れていた。その岩場を入り口とする、人間ならば入り込めないであろう隙間の奥の、小さな遺跡に居た。
光の差さない暗い通路を抜けた先にあるそこは、縦に長い空洞になっており、崩れた天井からは木漏れ日が差し込んでいる。喧騒も潮風も人の手も逃れているこの場所は、彼女だけのお気に入りの場所だった。
もう何百年も前の話だ。
かつて、この黒猫が生まれた頃。町はまだ存在していなかった。その時代の勇者の二つ名は白ではなかったし、地形も大きく異なっていた。人の住む範囲はもっと少なくて、自然の範囲はもう少しだけ多かった。竜達は人と触れ合おうとしておらず、暇をもて余して眠ってばかりいた。穏やかな、緩慢な、何の進展も無いが脅威もない、そんな時代だ。
最も気高い癒しの竜と、知恵を持った異質の猫が出会ったのは。
黒猫は物心というものを得たその時から、兄弟たちと自分が異なる存在であると知っていた。
一つは知能。この黒猫は思考能力があまりに秀でていた。道具の扱いを覚え、罠というものを作りだすほどだ。
一つは声。兄弟や同族のような発声が出来なかった。あまりに奇妙な、他に聞いたことのない鳴き声しか出せなかった。
そしてそれらを、異質であると理解するほどに、彼女は繊細だった。
彼女は猫の体に生まれた人であったのかもしれない。もしくは、新しい竜のなりそこないだったのかもしれない。あいにくと、なにかを司るような能力は持っていなかったし、彼女は竜の存在や人の存在、言葉の存在を知る機会すら与えられていなかったが。何も知らないまま、ただ自分だけがおかしいのだと苦悩する日々だった。
ある日、兄弟の一匹が死んだ。
死因は毒であった。この地では時々、様々な動物達が同じ理由で死んでいる。どうやら原因となる毒はこの地の地下に埋まっている空気そのものらしい、と黒猫は経験から知っていた。それを伝えようとしても、兄弟達には言葉が通じなかったし、兄弟達にはそれが理解できないようだった。
別の日、母親が死んだ。
死因は同じだった。黒猫は深く悲しんだ。しかし、目から涙が落ちる意味を知る者は他に誰もいなかった。
別の日、兄弟が死んだ。
死因は同じだった。自分より後に生まれた子で、言葉も意思も殆ど通じ合わなかったが、それでも仲のいい子だった。異質な自分と仲の良い子は他にいなかった。
別の日、黒猫は足を滑らせて洞穴に落ちた。その中には毒となる空気が充満していて、体は動かず、意識が薄れていく。彼女は兄弟達のように死ぬはずだった。
しかし次に意識を取り戻したとき、黒猫は地上に居た。驚いて飛び起きる。その後、毒で麻痺していたはずの体が動くことに気が付いた。
見れば、すぐ近くに歪な角の生えた牡鹿が座っている。
この牡鹿は木竜の真の姿であって、勇者に力を貸すことにも、魔王に敵対することにも、魔物と戦うことにも、何も役目を果たす必要のない空虚な時間にも飽きており……かつ、眠ることにすら飽きてしまった彼が、天空の庭園から落ちた結果だった。
牡鹿こと木竜は言った。柔らかな、静かな、空虚な声で。
「大丈夫かい?」
黒猫にとっては初めてだった。言葉がわかる者と出会ったのも、誰かの言葉を聞いたのも。
「ありがとう……」
誰かに応えたのも、嬉しくて目から涙が出るのも、全部初めてだった。
きっと、寂しかったのだと。竜と猫は互いを知って、その感情に気が付いてしまった。きっと、自分に足りないのはこれなのだと、気が付いてしまった。
それからずっと、一緒に居たのだ。
黒猫はうたた寝をしていたらしい。気が付いたときには木漏れ日が消えている。空気が冷え込んでおり、夜の気配が濃くなっていた。
帰らなければ。そう思い、黒猫は起き上がって伸びをしようとした……しかし、動かない。
丸まって眠った体勢のまま、体に力が入らない。
瞼は重いが開く。暗闇であるためあまり意味はないが。呼吸はしている。どことなく、苦しいが。鼓動の音も聞こえている。焦りにより早鐘を打っているが。耳も動いた。しかし、音によって周囲の様子を知ろうにも、眠りに落ちる前と変わらず、周りは静寂に包まれたままだ。
助けを呼ばなければ、と黒猫は思った。
体が動かなくなり、微睡むように、静かに死んでいく。この状況に覚えがあった。思い出したくもないくらいに、そして何百の月日が経とうと忘れられないくらいに。
家族を奪った、この地の空気だ。
声を上げなければ。
家族の誰とも似なかった、孤独の証である声を。
……人間そっくりの声で大きく一鳴きした後、洞窟は再び静寂に包まれる。黒猫は力を出し尽くし、今度こそぐったりと脱力した。
崩れた天井から、声が聞こえる。
「ミヤさん! 大丈夫!?」
「木竜が捜してたぜ?」
古い知人が、顔を覗かせていた。
「まーだあのガスが残ってるとはねェ」
木竜の家までの道すがら、マチノとユーツァは黒猫を抱えながら話していた。
「俺達でちゃんと埋めたよな? 自然ってヤベェ」
「女神様が作ったもんだからなァ?」
「そういう意味で言ってねぇよ」
遺跡から離れ、新鮮な空気を吸っているうちに、黒猫も体の自由を取り戻している。
「木竜がカシに留まってる理由ってこれだったりして。ほら、すぐ治療できるし」
黒猫は静かに首を横に振った。
「やっぱりただのギャンブル狂いか……」
「昔より悪化してねェか?」
二百年前は、仲間内でちょっとした賭け事をして遊ぶ程度だった筈だ。少なくとも、賭博場に入り浸るようなことはなかったはず。女神から与えられた地である庭園からも、滅多に離れなかった。
最も気高い癒しの竜は、今や最も気安い人間味に溢れた竜になっているのである。
二人と一匹がなごやかに話していると、割って入る鋭い声があった。
「アンタたち、聖剣狙いの!」
「今度は何を企んでるんですか! 木竜様のペットを返しなさい!」
勇者一行である。彼らもまた、木竜に頼まれて黒猫を捜していた最中であった。そして日が落ち、見付からず、半ば諦めようかと相談していたときに偶然ユーツァ達と黒猫の姿を見付けたのであった。
ユーツァとマチノはもう聖剣どころか勇者一行への関心を持っていないのだが、彼らはこちらの事情など知っているはずがないので、今回のことも妨害だと誤解している。なお、勇者の後ろから戦士が気まずそうな視線をマチノに送っているが、マチノは戦士への関心を持っていないので気付いてもいない。こういうことをするからマチノおよび黒の英雄の醜聞は広まっている。
さて、勇者一行の言葉を聞いて、ユーツァとマチノは顔を見合わせる。
「……ペット?」
「うーわ、やっちったなァあいつら」
「どうする? 多分、もう遅いよな」
「渡そうぜ。こいつらの手から渡した方が面白ェ」
「まあ、心証はマシだよなぁ」
言い合って、意見が一致した。そして今度は黒猫へ話しかける。
「それじゃミヤさん、弁解してやってくれ」
「受け取れよ、勇者の仲間!」
言うが早いか、マチノが黒猫を放り投げた。黒猫は空中で見事に体制を整え、着地に備えて。
「お前ら!」
受け止めようと飛び出してきた戦士の顔面をうっかり踏んづけた。
「……ということで」
「なるほど」
そして木竜の自宅。黒猫を送り届けた勇者一行は、『不審な輩が黒猫を誘拐していた』として説明を終えた。後に黒猫が自身で訂正するつもりであるし、木竜も後で詳しく黒猫に聞こうと思っているのでろくに聞いていない。木竜は今、帰ってきた黒猫を抱き締めて撫でて嗅ぐので忙しい。
「いやはや、しかし、木竜様のペットまで狙うとは。手段を選ばん下劣なやつらです」
「一つ訂正していいかな」
しかし、僧侶の発言によって木竜の上機嫌は消えた。彼は黒猫を膝の上に起き、いつものような穏やかな笑みで言った。
「ミヤは……彼女はペットじゃない。俺の妻だよ」
その言葉に勇者一行が呆気にとられているうちに、木竜は畳み掛ける。
「ところで君達俺の血が必要なんだっけ? 教えてあげるね、俺は傷を負わない。傷を負うよりも治癒する速度の方が早いからね。俺が竜巡りの最後の一体になっている理由もそうだ。ここに来るまでの間に君達が竜と関係を上手く築けるかが重要になる。つまり君達は俺に気に入られなければ血を得られないんだよ。そして俺は俺の妻を見下すような人間が大嫌いだ。例えミヤを助けてくれたとしてもその侮辱は許せない。つまり、君達に俺の血はあげない」
木竜は表情を崩さない。それなのに言葉は明確な怒りを滲ませている。その異質さに圧倒されている間に、次々に言葉が投げ付けられる。
「人と異種族の婚姻は美談にするくせに、猫と竜だと否定するのは、不平等だよ。精神は平等であるというのに。運命が理不尽なんだからせめて行動は自由であるべきだ。大体君達も女神も人間ばっかり贔屓しすぎでっ……ん」
まだまだ説教を続ける木竜の口を、黒猫が手で塞いだ。
「俺は今期の勇者に味方しないと決めたから」
後日、宿をとっていたユーツァとマチノのところへ木竜が訪れ、こう宣言した。ちなみに金竜は鉱山へ帰還している。
さて、聖竜が勇者に味方しないとはどういうことか。ユーツァは耳を疑った。
「……はい?」
「どうせ竜巡りなんて女神のための儀式だ。そんなことしなくても魔王は殺せる。知っているだろう。金輪際、こんなお遊びに血を流すつもりはない」
「……ええと。じゃあ、どうすんの? それ言っても勇者は納得しないと思うんだけど」
「どうしても五体分の加護が欲しいというなら、竜は他に居る」
「はぁ? いやなに言ってんだって木竜。お前が竜巡りの最後って決まってんじゃん。それにこれは伝統なんだしさぁ」
「毒竜が居るだろう」
この言葉で、ユーツァの笑みは凍り付いた。
視線が救いを求めるようにさ迷い、そして、俯く。
「……勇者達は、それを知らないよな?」
「ならば俺が彼らに教えよう」
「六匹目の竜には会わせたくない」
「俺には関係ない」
「あれは知らない方がいい!」
「それで俺に皺寄せが来るのは良いのか!」
睨み合いになった。先に目を逸らしたのはユーツァだ。
木竜は、今、最も人間らしい竜だ。最も人間になろうとしている竜だ。竜としての能力を、役割を、運命を、全て歪めて逃れようとしている竜だ。芽生えてしまった、人間らしい心によって。
ただの人間であれば……勇者と魔王について全てを知っているただの人間であるのならば、関わろうとしない。それが当然の反応だった。ユーツァもそれをわかっている。
魔王を殺すのに必要なのは聖剣であって、聖竜の加護でも、鍛え上げた力でも、ましてや勇者でもない。聖剣さえ扱えるのならば、人間である必要すらない。
ユーツァはそれを知っている。
魔王が何かを知っているから。
「毒竜を守りたいのも、魔王を殺したくなかったのも、責任を感じるのも、全て君の問題だ。そしてそのどれもが君のせいじゃないんだから、馬鹿げてるよ」
木竜の言葉を、ユーツァは俯いて聞いていた。口許だけはひきつった笑みを作っていたげ、それが本心から来る表情ではないことくらいは誰から見ても明らかだった。
「……長すぎるんだ、この世界は。こんな制度も。全部もう、限界だよ」
木竜が言う。それに対しマチノが何か言おうとする。それを、ユーツァが手で制した。代わりに彼が口を開く。
「……毒竜は、今もあそこに?」
「ああ。魔王が生まれたとわかったからね。二百年前と同じだ」
「そうか」
「ついでに、今期の魔王とも会ってくるといい。君が因縁を断つにはその方がいいんじゃないか?」
「そうかもな」
ユーツァの問いかけも、答えも、感情を圧し殺したものだ。故に。
「……性格わっるーい」
マチノはそう言って木竜を茶化した。
次に目指すは、忘れられた竜の隠れ家。
『あの子』の友達の家。