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先代勇者は火竜と語りたい

「アンタ可愛いねぇ! ねえねえ、旅なんか止めてアタシと一緒に住まないかい?」

 熱風吹き荒れる火山山頂、炎の衣服を纏う女性が笑って誘う。対峙するのは勇者一行だ。

「聖竜様のお側に居れるなら……」

「止めなさいフィル! 焼け死ぬわよ!?」

 信仰心の強い僧侶が熱気に負けて火口に飛び込むような真似をしているが、それ以外は何の障害もなく聖竜と対面し、交渉する姿勢が整っていた。

 しかし。

「……我々は一刻も早く、魔王を」

「あらあらまあまあ! しっぶい顔しちゃってねぇ。せっかく可愛い顔なのに」

「火の聖竜、私は真剣に」

「そんな堅っ苦しい呼び方は止しておくれよ。ひーちゃんでいいって言ってるじゃないか、火の竜のひーちゃん!」

「魔物による被害は世界中で」

「そういえば町で温泉卵は食べたかい? 美味しいよぉ。後はねぇ、風呂で飲む月見酒が格別美味いって旅人さんは言ってたけど本当かねぇ」

「要らん」

 話が通じない。言葉が通じないことは無いはずだ。しかし、火竜はこちらの言葉に耳を傾ける気がないのだと態度で示している。

「ほらおいで勇者様!」

 火竜が勇者の手を掴む。酷い高温の肌が身を焼き、勇者は反射的に手を引いた。その手を追って火竜は身を寄せ、勇者の背に触れる。それを避けたら今度は足を蹴り、それで体勢を崩せば支えて引き起こす。支える手を振り払われたらすぐにまた足を崩す。

 組み手にも似た動きだった。しかし、勇者は一方的に動かされているだけだ。

「あはは! アンタ、ダンスは踊れるかい? 大丈夫、形式なんて気にしないでいいさ。アタシも正しい踊り方なんて知らないんだ!」

「やめ……くっ」

「ほらほら上手上手」

 熱の痛みとそれを逃れる体の動きで、勇者は踊らされていた。

「焼けた靴を履かせて死ぬまで踊らせた、なんてお伽噺があるねぇ。大丈夫、アタシはもう間違えないさ。このくらいなら人は死なない」

 振り回されて、遊ばれて、転ばされて、突き放される。

 やっと解放されたと思ったら、火竜はにこにこ笑いながらその身を炎に包み、消えるのだ。別れの言葉を残して。

「あはは! また明日も遊ぼうねぇ!」

 ……こうやって煙に巻かれ続けて、一週間が経つ。ある日は球技、ある日は歌、そして今日は踊り。太刀筋は一つも通らず、のらりくらりと避けられて終わる。

「レイの傷も完全に治ったわけじゃないんだ。湯治の名所なんだし、ゆっくりしていこうぜ」

 こう言って宥めるのは戦士であった。



 一方先代勇者とその仲間であるユーツァとマチノだが。

「踊り疲れた……」

「俺も……」

 なんと、この二人も火竜の遊びに付き合わされていた。今まで通り頼み事をしようとして火山を訪れては、失敗し、宿泊している部屋に帰って疲れを癒したり聖剣交換のための案を練ったりする日々を送っている。

 火竜は最も人好きな竜である。水竜が町を愛するのとは異なり、人間という種族を偏愛している。

 人と対話することも、触れ合うことも、そばに寄り添うそれだけでも嬉しいのだ。当然、戦うなんて好まない。何故なら普通の人間は触れることもなく焼け死ぬからつまらない。彼女はもっと長く、人間を眺めて愛でていたいのだ。愛玩動物として。

 しかしユーツァとマチノほどに人間を辞めている存在となれば、『人間の愛らしさ』と『遊んでも壊れない頑丈さ』を兼ね合わせた最高の玩具と見なされてしまう。よって、ろくに話も聞いてもらえず、遊びに付き合わされたり、高熱の体で抱き締められたり撫でられたり舐められたり丸呑みされかけたりという悲惨な目に遭っていた。

 ここで火竜の本来の姿を説明しておこう。炎を纏っている巨大な蜥蜴である。四つ足で地面を這うためわかりにくいが、大人一人丸呑みしてまだまだ余裕がある巨体の持ち主だ。

「勇者達も見失っちまったしなァ、どうすっか」

「まあ、火竜を突破すんのはかなり時間かかるだろ。お前が付けた怪我もそう簡単に治るわけねぇし」

「町にいる間に見付けねェと……」

 話しながら、ユーツァとマチノは宿の大浴場に向かっていた。火山の麓にあるこの町、キリュは温泉の名所である。各地で天然の温泉が湧いており、町中では足湯を楽しめる上、どの宿でも最低一つは大浴場がある。特に彼らが泊まっている旅館は、個人でゆったり楽しむために壁で囲った個室風呂も隣接されているため、マチノも自由に肌を晒せるという至れり尽くせりの場所だった。

 大浴場の入り口が見えたとき、ユーツァは足を止めた。マチノもつられて止まる。

 そこには、勇者一行が男女に分かれて大浴場に入ろうとする様子があった。

「……あのさ、マチノ」

「おう」

「今の、勇者だよな」

「おう」

「女湯……入ってったよな」

「お前髪長いしいけんじゃね?」

「無理無理無理無理何言ってんのお前!?」

 ユーツァは豊かな金髪を胸元まで伸ばしている、一見すると女に見えなくもない人物だ。体も引き締まっているが、服の上からは筋肉質に見えない。軽業を得意とするため、あまり体重を増やせないのだ。

「風呂なら無防備だろ。盗みくらい問題ねェと思うが?」

「そりゃそうだけど何で俺に行かそうとした!」

「いや、俺は女装無理あるし」

「俺だって体格は誤魔化せねぇよ! 服で隠してんの!」

「脱げっつってねーよ。装備は部屋に置くだろ普通。泊まってる部屋の鍵が見付かりゃあ良いんだよつまり」

「あっ、そっか」

 ユーツァは納得したらしく、ポンと手を打った。そしてうきうきとした様子で踵を返す。

「じゃー久々にやるかぁ。服買うぞマチノ! あと化粧品貸せ!」

「急がねーと風呂出るぞ、あいつら」

「大丈夫大丈夫、ちゃっちゃと済ませっから!」



 翌日。

「完っ璧!」

「一日かかってんじゃねーか!」

 ユーツァはその後三時間かけて服を選び、ゆっくり美肌効果を誇る温泉に浸かり、剃毛し、ヘアオイルを付け、スキンケア製品を肌に塗って眠りにつき、朝から髪を巻き、化粧を始め、そして今に至る。時刻は正午だ。

 気合いを入れすぎである。

 ふわふわと揺れるスカートを翻しながら、ユーツァは鏡の前でポーズを取っている。彼は、少し身長が高い、世間を知らない不思議系お嬢様といった風貌になっている。

「なーかわいくねー? 俺凄くねー?」

 喋る声も高く細い猫なで声で、媚びた女性のようだった。甘ったるすぎて多少の不信感は抱かれるが、男と疑われることはないだろうという絶妙な声だ。

「へいへい、どうでもいいっての。さっさと行け」

「お前が言い出した作戦だろこれ」

「うるせェ」

 まさか体作りから始めるとは誰が思うだろうか。

「ってか、掃除中の作業員とかのふりすりゃ普通に入れたんじゃねーの」

「気付くの遅ぇよ」

 ユーツァがあまりに生き生きと女装を進めていくため、指摘する暇がなかったのである。



 夕方頃、勇者一行が再び大浴場に入ったのを確認してから数分後、変装済みのユーツァとマチノも後を追った。ユーツァは女湯、マチノは男湯担当である。勇者一行の泊まる部屋割りがわからないため、手当たり次第に鍵を得ようということだ。

 ユーツァは盗賊の出である。その技術は健在で、全く問題ないだろう。

 問題は男湯に居るマチノだった。

「……お前、黒い斧使い」

「ひゃははっ、今はそういう呼び方になってんの」

 早速、マチノは見付かっていた。マチノも化粧で顔を変えていたが、対して服装などは変わっていない。何より脱衣場で靴を脱いだときに黒い肌が露出している。

 戦士の後ろから、僧侶が震えながら啖呵を切る。

「や、やっぱり追いかけて来てたんですね!? 今度は負けませんよ!」

「そっから出ねェ奴が何言ってんだ」

「私は非戦闘員なので……」

 言うだけ言ってすごすごと隠れてしまった。彼は回復術しか使えないのだ。そして生命線である彼を守る戦士は、今は丸腰である。もちろんマチノもだが。

「まあそう構えなさんなって。風呂場に武器持ち込む馬鹿じゃねーよ俺ァ」

 安心させるように、マチノは空の手を振る。マチノの実力なら体術のみで充分戦えるが、それを言って脅すのはもっと後の方が効果的だと思ったからだ。

「……まあ、普通はそうだよな」

「あん?」

「お前達の方が常識があるとは、思いたくなかったよ……」

 言って、戦士と僧侶は肩を落とす。

 マチノは察した。察してしまった。風呂場に武器を持ち込む馬鹿が、勇者一行に居ると。ここにいる戦士と僧侶は持っておらず、女湯に居るであろう魔法使いは魔力が武器であるため持ち込む云々ではない。つまり、その馬鹿とは。

「……え、マジ?」



 その頃の女湯では、聖剣を手に持った勇者がユーツァの前で仁王立ちしていた。聖剣も勇者の体も濡れて湯を滴らせており、一糸も纏っていないことから、つい先程まで温泉に浸かっていたことがわかる。そして、温泉内からユーツァの姿を見た瞬間飛び出し、体を拭くことも隠すこともなく、目の前にやって来たのだとわかる。

 勇者は、恐ろしい形相でユーツァを睨み付けている。

「また会ったな、魔族……」

「まっ、待っ、ちょ……」

 言いたいことは沢山あった。風呂場の中まで剣を持ち込むなとか、女装姿を見てよく自分だとわかったなとか、流石に好戦的過ぎるんじゃないかとか、女湯の脱衣場に潜入している女装した男に対して言うべき言葉は別じゃないかとか。沢山あったが。

 何か言う前に勇者が切りかかってくる。ユーツァはそれを避けて走って脱衣場から逃げ出す。勇者は脇目も振らず後をついてくる。

「そのまま追いかけてくんの!?」

 真っ先に出た言葉はこれだった。

「レーイ! 服ー!」

「不要だ!」

「要るから! アンタ外っ、ああもう!」

 後から魔法使いが声をかけてきたが、時すでに遅く、二人は旅館の中庭に飛び出し、塀を乗り越えていた。

 そのまま街道に出て、ユーツァは勇者を撒こうとする。しかし予想に反してというかやはりというか、勇者は全く動じずに追いかけてくる。

 駆け抜けるユーツァの前に、騒ぎを聞いて先回りをしていたマチノの姿が見えた。

「マチノー! どうしようこれ! どうしようこれ!?」

「ひひっ、お前やっぱ失敗して……」

 ユーツァの作戦失敗と慌てる様子を盛大にからかってやろうとマチノが笑う。

 しかし。

「……」

 マチノは武器から手を離し、ユーツァと並走する形で勇者に背を向けた。

「……俺やっぱこの勇者無理」

「裸見てビビんなクソ童貞!」

 マチノは異性が苦手であった。胸も下半身も一切隠す素振りもなく、剣を片手に構えながら全力で走って友人を追いかける女性を直視できるはずもなかった。しかも普段身に付けている防具が無い分勇者の足が速いので上手く撒けず自然と追いかけっこに混ざることになった。

「二百年生きてんだぞ俺ァ! もうどうでもいいだろ! 弄んな!」

「うるせぇ! 下ネタも言えねぇ純情野郎が!」

「今そういうこと言う!?」

「今だから言ってんだよ!」

 こんなときでも軽口を止めないのは二人の癖みたいなものだ。

「楽しそうだねぇ、可愛い子達!」

 どこからか声が割って入る。若い女の声だ。ここ一週間毎日聞いた声だ。

「良かったらアタシも混ぜておくれ! 鬼ごっこだね?」

 ユーツァとマチノはその姿を視認した。遥か前方に、本来の姿に戻っている火竜が居る。こちらに向かって駆け抜けようとしている。

「……げ」

「火竜、待っ……」

「よーい、どん!」

 火竜が大通りを走る。スピードも大きさもさながら暴走する馬車のようだった。走った地面や隣の建物が焼け焦げている点を除けば。

 町を破壊しながら走ってくる竜と、剣を手に殺しに向かってくる勇者。二つの脅威に狙われたユーツァとマチノは叫ぶ。

「ふざけんなぁ!」



 火竜と勇者が二人を見失い、鬼ごっこが終わったのは町の通路と通路脇の建物の半分が焼けた後だった。狭い町中を窮屈に感じ、火竜は人の姿に変わると勇者に笑いかける。

「あー、楽しかった! やっぱり皆で仲良く遊ぶのが一番だね」

「火の聖竜よ」

 勇者は冷静に、剣を火竜に向けた。

「私は充分貴方の相手をした。そろそろ、旅を続けなければならない」

「えー?」

「血をいただきたい。魔王討伐のために。拒むなら、無理にでも」

 辺りでは、一部発火した家屋を鎮火するため消防隊が駆けていき、人々は野次馬と化して立ち止まっている。自警団は火竜の動きを警戒して二人の立つ場所に集まってきていた。

 火竜は言った。

「……今期の勇者ちゃん、名前は?」

「レイチェルだ」

「レイちゃん。素直な良い子だね。でも頑固な子でもある。アンタの芯が通ったとこは美点でもあるけど、欠点ともなるものさ。これからは気を付けとくれ。勇者は疎まれやすいから」

 魔物の脅威こそあれ、この町では日常が繰り返し送られていたのだ。やがて来る世界の滅亡よりも、今この瞬間に目の前で起きた災害の方が人を怒らせるものなのだ。全ては火竜が引き起こしたものであり、この竜の遊び好きを人々はよく知って受け入れていたとしても、心は合理的には動かない。

 現に今、勇者に集まる視線は冷たい。体に刻まれた大小新旧様々な傷に対する陰口じみた言葉も多い。勇者はそれらを何一つ感じ取っていなかったとしても。

「アタシら聖竜は長生きなもんでねぇ、仲良くなっても周りはみーんな死んじまう。だからねぇ、皆寂しいんだ。だから同じ年を生きられる友達のことを本当に大事にしてるんだよ」

「それが、なにか」

「次は金竜のところだろ? あの子もきっと寂しがってるから、楽しませてあげておくれ。アンタに似て頑固で、アンタと違ってひねくれ者の子供だから。会わせてやりたくなったのさ」

 火竜は手の平を差し出した。自らの爪を使い、勇者の前で自身の指先を切り裂く。血の滲んだ指で、聖剣に触れる。

 聖剣が淡く輝いた。

「アタシらはね、世界なんざどうでもいい。ただ、友達のためになら動く。そういう奴らなのさ。それだけは、知っといておくれよ」

 世界のため、魔王討伐のため、力のため、全ては己のために繋がる大義名分は竜を動かさない。竜は、竜にとって大切なもののために動く。多くは友のため、または自分の正義のため。聖竜もまた意思があり、生きているのだから、聖剣伝説の舞台装置として淡々とことを進めることは無いのだと。

「……承知した」

 火竜の意図がどこまで伝わったかはわからない。しかし、勇者は確かに頷いた。



 それから、火竜自身の証言によって、この騒動は全て火竜の質の悪い悪戯が生んだものとして処理された。火竜の性格は広く知られていたし、町の人々にとって守り神である竜が原因であるならば罰することはできない。

 あまり居心地が良くなくなってしまったことだけは変わらないが。

 勇者一行もユーツァ達も、翌日に旅を再開させると決めて、眠りについた。

 ……そのはずだった。

 旅館から遠く離れた、山中の天然温泉。そこに、三人の男が集まっている。

「黒い斧使い……」

「その呼び方ひっでぇな。テメェも斧使ってるくせに」

 一人は勇者一行の戦士。そして相手はマチノである。マチノは着衣のまま温泉に浸かっており、白粉は全て落ちている。声に笑いが含まれてはいたが、彼の感情は読みにくい。

 今この地にやって来たばかりの戦士はしっかりと武器も防具も揃えており、迷いながら、近くの岩に腰かけた。

 そしてマチノに問いかける。

「あー……名前は?」

「黒の英雄サマでいいぜ?」

「……二百年前の、裏切りの英雄か」

「あ? なんだそれ」

「知らずに名を使うのか?」

「使うってか……いや、いいや。何で裏切りの英雄とか言われてんのか教えてくんね?」

「本当に……知らないのか?」

「おう。テメェが俺に頼みたいことの対価はそれでいいからよ」

 戦士は驚いたように目を見開く。

「……まだ、何も」

「勇者を差し置いて一対一で、しかも穏便に話しかける奴ァ大体交渉を持ちかけて来るもんだ」

「それも……そうだな」

 男湯で対話した後、ユーツァと合流するため脱衣場を出る直前に、戦士はマチノの手に小さな紙片を忍ばせていた。そばに居た仲間に知られないようにだ。

 その紙片には『今夜宿の裏口で待っていてほしい』という言葉が書かれており、密会の誘いであると解釈したマチノが裏口にこの温泉への道を示した手紙を置き……そして、戦士が指示通りにやって来た、ということだ。

「アンタらが俺達より強いことを見越して、頼みたいことがある。勇者の聖剣を奪って、あいつを止めてほしい。旅を初めてからのあいつは、何かがおかしいんだ」

「初めからおかしい奴じゃねェの?」

「俺はあいつをガキの頃から知ってる!」

 戦士は声を荒らげた。

 マチノは黙って、続きを待つ。

「……レイは、幼馴染みなんだ。同じ道場で剣を学んだ。俺達の住んでた町は、狼なんかが時々降りてくるから。二人で皆を守ったんだ」

 戦士は落ち着いた様子で語る。

「本当は優しい奴なんだ。俺の妹みたいなもんで……いつか俺に追い付くって言って、真面目に稽古して……あんなに好戦的じゃなかった」

「ふーん」

 マチノは生返事をした。大体理解してしまったからだ。勇者の異様なまでの強さへの欲求の根源は、いつまで経っても越えられない、勇者という称号を得てさえも妹扱いをして見下してくる、この支配的で、邪魔な幼馴染みにあると。

 戦士にそのつもりは全く無いのだろうが。

 どうしてくれようか、とマチノが考えている間に、この温泉に集まったもう一人の男が駆けてくる。ユーツァだ。

 ユーツァはマチノを見て、戦士を見て、言った。

「どういう状況!?」

「裏切りの交渉中ー」

 答えたのはマチノだった。

「しかも、裏切りの英雄サマである俺にな!」

「うわ、よくやるなアンタ……」

 苦笑いしながら、ユーツァは荷物を置いて上着を脱ぐ。そしてマチノに倣って温泉に入った。

 湯の中から荷物を漁って、中から瓶と盃を取り出し、盆に入れて湯に浮かせる。

 マチノが興味深そうに覗き込んだ。

「なんだそれ?」

「酒買ってきた。飲もうぜ」

「ワイン?」

「良くわかんねー地酒」

「まーたそういう変なの選ぶよなァ。最高」

 天然温泉で暖まりながら、そして温めながら飲もうということだ。極上の贅沢である。

 戦士はおずおずと声を出した。

「風呂場で酒……?」

「大丈夫大丈夫、ここ特に誰の所有でもない温泉なんだよ。年にこの時期しか出てこなくてさ」

 熱すぎる源泉に、近くの川の水が入り込んで適温となったのがこの場所だ。雨量によっては川が枯れてしまうため、季節によって出現したり消えたりするのだった。運良く今は入れる、幻の秘湯である。

 ユーツァとマチノは出立前に一度ここを楽しもうと思っていた。そこに、マチノが戦士を呼んだのである。勝手に。

「アンタも飲むか?」

「……いや、俺は」

「いいねェ、景気付けに飲んどけ! 誓いの盃ってやつだ」

 断ろうとする戦士をマチノは制する。誓いという言葉に怯んだ戦士に、ユーツァは柔らかく訂正した。

「そんな重いもんじゃねーよ。お前らの旅ももう半分行っちまったし、折り返し祝いってことで」

「旅のルートを、知ってるのか」

「えっ! あー、まあ! 伝説に残ってるしさ!」

 ユーツァは小さな盃に酒を注ぎ、まず自分が口に含む。そして顔をしかめた。

「うわっ、変な味!」

 マチノが声に出して笑った。

「お前さァ、酒飲む度言ってねェ?」

「正直な話な、美味いと思ったことがない」

「あー、良い酒だなこりゃあ。お前にゃ勿体ねぇ。全部こっち寄越せ」

「お前こそほどほどにしろよ、ただでさえ逆上せてんのかわかんねーのに」

 ユーツァもマチノも、もう意識が酒に向かってしまい、戦士の話は忘れ去ってしまったかのようだった。このまま流されて有耶無耶になるのではないか、不安に思った戦士に対し、ユーツァが手を突き出す。透明な液体の入った盃が握られていた。

 ユーツァは楽しくてたまらないという表情をしている。

「ほら、アンタも!」

 差し出された盃を、戦士は受け取り。

「……美味いな」

 飲んだ。

 盃の中には満月が浮かんでいた。


 次に目指すは金竜の鉱山。

 逆鱗に怯え暮らす人々が住む、静寂の地である。



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