表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/10

1922/10/08(日)、無酔同盟結成

 誰もがこの処置を疑問に思ったことだろう。殺人までは至らなかったものの、本来であれば退学にすべきところを……。しかも吉田も学生監の庄司にお願いしたのだ。


 ”水野の適切な処置” とはすなわち、”退学” を意味する 。だが学校側が出した結論は ”停学1ヶ月”。当然ながら ”同じ学舎で授業を受けろと言うのか” と憤慨したし、特に吉田と仲のいい連中は ”また連れ去ろうか” と提案してきたが、吉田は及び腰だった。また自分が何かを起こせば、今度は関係のない学生まで迷惑をかけてしまうかも知れない。もちろん心の中は堪えなく煮えたぎり、今すぐにでもぶん殴ってやりたい。しかしそんなことをすれば、故郷に残る両親知人や学費を出してくれた支援者を裏切ることになってしまう。次こそは必ず罰せられるはずだ……。


 文京町の学舎には不穏な空気が漂う。窓から外を見ればグレーの雲がこれでもかというくらい厚く漂っている。窓を開けてみれば小雨こそやんでいたが、ただひたすら寒い風が通りすぎていく。イチョウの木につく葉っぱに生気はなく、校庭に生える草花も色あせてみせる。もちろん新緑の季節ではないのだから、みずみずしさはあるはずがないのだ。それでも……この”何か嫌な感じ”はなんなんだ。むやむやとした気持ち、心は決して晴れない。これは理科文科関係なく、すべての学生誰もが感じていた。



 午後の授業終わりに、廊下で吉田は突然大声を出す。


「今日は呑みに行くか。」


 むりやり顔を作り、満面の笑みで近くにいる友人らに誘いかけた。彼らも気持ちは同じだったのですぐに賛同し、そのまま鍛治かじ町へと向かったのだ。5人ぐらいだったろうか、理乙の親しい仲間で午後の6時ぐらいからビールやウイスキーやらとぐだぐだと呑み続けたらしい。この日とばかりに散財し、マグロを喰うはクジラを持ってこい馬肉はないのかと、いつも以上に豪勢に暴れまくった。……ただしここに”暴れまくった”とは書いたが、決して店の人に迷惑をかけるレベルではない。店側にとっては銭の払いはしっかりとしてくれる常連さんであるし、学生ほど太くて大切なお客はいない。どんどんやってくれとテーブルには店主自らが、頼んでもいないのにお勧め料理とやらを持ってきて ”味見してくれませんか” とにこやかに話しかけるのだ。こうなると吉田たちはなにか大人物になったような気がして、 ”どんどんもってこい” と言わんばかりである。いつしか先ほどの嫌な出来事など忘れてしまい、ひたすら食べるは呑むはの暴れまくりである。……ただどこかに律気さをみれるのが大変面白く、酔いすぎて忘れてしまわないうちに、余分に会計を済ませておく。これには店員らは苦笑せざるを得ず、吉田らもつられて笑ってしまうのだ。



 深夜を越すころであったろうか、3件目の居酒屋でテーブルに座って呑んでいると、音を激しく立てて引き戸を開ける男が現れた。上は漆黒の軍服に黄色のボタンが光る。下のズボンも黒色で、横に赤い一筋のラインが入っている……。まったく同じ服装の者が後ろよりぞろぞろと続く。この異様な集団をお客たちはすぐに理解することができなかった。当然呑みすぎて頭が回らないこともさることながら、”なぜいま彼らがやってきたのだ”という想定外の動揺。そして彼らはズガズガと吉田らの方へ歩いていく。



 そして先頭に立った男が伝えた。


「官立弘前高校理乙科二年、吉田太郎。お前は学生の本分である学業に励まず、このように呑み歩きて風紀を乱している。って署までご同行を願おう。」








 無茶苦茶だ。いいかがりだ。そのような理由で逮捕できるはずがない。そんなこと誰でもわかる。


 すぐさまその場で、学生5人と大勢いる警官との押し問答が始まってしまった。ビール瓶は割れるし、皿はテーブルから落ちて粉々になってしまう。周りで好きなように呑んでいたお客たちも慌てて逃げていく者もいれば、右往左往して果ては立ちつくす者もいた。警官は警棒や縄を持って学生らを押さえにかかり、学生も物を投げたりバックを振り回したりして応戦。そのうち騒動は外まで聞こえ、ガヤが入り口のところに押し寄せ始めた。その中でもヤンチャな輩は、なぜ警官と学生が争っているかわからないが、自然と弱い方を応援したくなった。そのうち一人の拳が警官の顔面にヒットし、彼は痛さのあまり叫びながら崩れ落ちた。警官の方でも応援が欲しいと一人を外へやり、部外者を含め捕まえてやろうと必死である。


 激しい喧嘩の最中さなか、店の者が密かに吉田へ話しかけた。


「太郎さん。ささ、こちらへ。」


 吉田は大きく頷き、急ぎ裏手の勝手口から逃げていく。他の学生も1人、また1人と抜けていく。あとは部外者と警官の争いだけが残った。ひたすら鍛治町から静かな方へ、新寺通りへ駆けていく。


 もちろん焦りの気持ちは半端ない。途中の桶屋町を抜ければ、寺院しかない眠りの町だ。ひたすら走れ、ひたすら急げ。そのうち ”なぜ俺たちは逃げているんだ” という疑問も浮かび上がってくるのだが、正しい回答などあるはずがない。数学とは違うのだから。1人は思わず笑ってしまい、するとつられて他の者も笑い、果ては全員笑うのだが、いやいやそんなことをしていればかえって怪しまれるぞと、すぐに真顔にする。真顔にはなったのだが、心根は無事ではない。なんだかおかしくなってくる。


「支払いは済んだよな。」


「ああ、済んださー。無銭飲食で捕まることはないさーー。」


 いやいやそんなことを言っている場合ではないだろうと、比較的酔いの回っていない者は感じた。しかし制止させるのも馬鹿らしく思い、わざと言わせておく。……そうしているうちに新寺通りへ入り、宿舎である貞昌ていしょう寺の門をくぐった。






 水野は警察には捕まらず、吉田を警察に捕まえさせようとする……。



 貞昌寺に暮らす理乙の学生のほとんどがいきり立った。学校側の動きに激しく怒った。彼らは吉田をしばらく泳がせて、油断させた隙をつこうとしたのだ。年長者の田島もさすがにこれには口を堅く閉じることしかできない。ある学生は大声で叫んだ。


「きっと太郎は学校に刃向かったから、捕まえようとしているんだ。」


 まさにその通りである。……と考えると、いずれここにも警官がくるかもしれない。このまま吉田を捕まえさせるわけにはいかない。ひとまずどこへ逃がすか……長勝寺か法源寺か?いや違う。ここは……奇手をうつしかない。



 誰かがおそるおそる言った。


「文科の学生なら……警察も立ち寄らないのではないか。」


 田島はすぐに応える。


「だれか頼れる人はいるのか。」


「宇佐見君なら……きっと優しいから、いけると思う。」



 文科か……水野の仲間だろ。そんな奴らに吉田を託すことがてきるのか。だが文科にも今回の水野の一件を快く思っていない連中もいるだろう。いや……頼むからいてくれ。あんなやつを守る奴があってはならない。あいつらだって、隣の机で授業を受けたくないだろう。


 ひとまず今はそれしか選択肢がない。その学生を急ぎ、その宇佐見君の暮らす宿へと行かせることにした。しかしながら決死行そのものである。弘前の街中に大勢の警官がうろついているだろうし、もし見つかりでもしたらタダでは済まない。それでも彼は顔を引きつらせながら、皆々に言うのだ。


 ”太郎さんの為なら、なんだってやりますよ”






 …………



 待つことしかできない。貞昌寺に暮らす学生30名ほどは胡座あぐらをかき、目をつむる。しかし誰も眠ることはなく、誰もが心の焦りをむりやり押さえ込もうとしていた。




 1時間ほど経ったか。寺の横側から柵を無理してよじ登ってきた学生が1人。呼びに言った学生ではなく、彼は文乙一年の日高ひだかと名乗った。なんでも理科の学生が夜中にうろついていたらかえって疑われるから、こうして代わりに自分がきたという。


「文科の学生も、あなたたちのように学校に不満をもつ者はたくさんいます。宇佐見君は吉田さんを助けるそうです。いますぐいらっしゃってください。」



 ”おおっ” と誰もが驚いた。こんなにすんなりいくものかと。ダメ元でも頼んでみるものだなと、誰もが発案者を大いに褒めた。……ただ余韻に浸っている余裕はない。すでに前門には警官がいるのか。裏門にも。だから相当痛かったが柵を登るしかなかったという。少しだけ気が引けるが……やるしかない。日高は吉田を連れて、寺の横へと急ぐ。そして手が血まみれになりながらもなんとか寺を脱出。茂森しげもりの方へ向かうらしい。




 ”裏切らないでくれよ”




 だが不思議と安心感があった。相手は文科ながら、我ら理科と気持ちも同じだった。水野を毛嫌いしているのはもちろん、警察が吉田を捕らえようとしたことも。貞昌寺に残った学生らは怒りの心をもちながらの、少しだけしんみりとひたってしまった。


 すると突然、寺の前門より扉を激しくたたく音が鳴り響いた。”開けろ、開けろ”と男のど太い声が真夜中の寺院街に激しく響き渡る。だれもがあの声の主をわかる。……一戸教官だ。あの兵役上がり、戊辰戦争の勇者だ……。きっと太郎を捕まえるためにやってきたに違いない。一戸以外にも大勢の声が聞こえるし、きっと他の者らは警官に違いない。



 ”間一髪だったな”



 口々にそう言い合う。




 学生らは堂々と前門を開き、一戸と警官らを寺へ通した。部屋の隅々、応接間や仏間、物置や屋根裏までネズミを捕まえるかのように細かいところまで調べ尽くす。学生は思わずニヤついてしまい、一戸がそれに気づくとすぐさま真顔に戻す。そして一戸が別の方へ向かうと、わざと大声を出して笑い出す。一戸も激しく叱りたい気持ちで占められていただろうが、今は吉田のことで手一杯だった。あとで他の理科の学生も懲らしめてやろうと、心に誓ったのである。





 あろうことか、朝日は東の山から上がり始めた。寺の中からは当然だが、何も出ない。一戸はその老いた体からでる喀痰を畳の上に吐き捨て、警官らとともに退散するしかなかった。その眼光はするどさを増し、体からはなにかしらの異様な気配が流れてくる……。彼が去った後の寺にも、まだ一戸がここにいるような怖い感じがする。



 しかし、ひとまず勝ったのだ。



 本来は勝ち負けの世界ではない。でも勝ったのだ。出し抜いたのだ。




 もうあいつらのいる学舎まなびやには行きたくない。あいつらの授業すら受けたくない。運動会では水野の暴挙を止めず、なすがままにした奴ら。約束を裏切った学生監の庄司しょうじ。そして吉田を捕まえようとしたこと……。







 ”我等理乙ノ学生ハ、授業ヲ受ケル権利ヲ放棄スル”



 続けて理甲の学生も賛同し、自分たちのいる宿舎を捨てて貞昌寺に集まった。後は少しばかりの文科の学生も加わり、この時すでに100名を超えたらしい。


 こうなると、突き進むしかない。


 理甲の学生で小山内おさないという者がいたのだが、この大集団をこう名付ければよいのではないかと提案をした。




  ”無酔むすい同盟”




 これは吉田太郎が警官に ”呑み歩きて風紀を乱している” と言われたことに由来する。我等は学校を正すために行動するのだ。風紀を正すのだ。決まりがあるとすれば……酒を呑まないこと。


 誰もがこの話に笑ってしまった。加えて小山内は言う。


「実はもう一つ意味を込めているんだ。よく考えてくれ。”ムスイ” という読みは、”無” に ”水” とも書ける。もうおわかりか。水野を無くすという意味だ。」




 皆々、大いにあざけた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=156255789&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ