表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

1922/10/06(金)、水野の処置が決す

 怒号が飛んだ。


「なぜ僕に相談しなかった。」


 長老の田島である。仲間のあらぬ行為に、さすがに普段温厚な彼でも憤慨した。恐れおののき……壁際まで後ずさりをする。だがそんな彼に吉田は意気揚々とこう返したのだ。


「君に相談をすれば、反対されるに決まっているだろう。」


”だからやった。こうでもしなければ、俺たちの意志は伝わらぬ”



 田島は急ぎ首を振った。


「それは違うぞ、太郎。もちろん水野のやった行為は犯罪だ。処罰もされなければならない。しかし今おまえたちがやった行為も犯罪だぞ。水野と同じ事をやっているんだぞ。」


 そう指摘されると吉田はカチンとして、声を急に荒げていい返す。


「どこが同じだというのだ。相手は殺人、人殺しだ。俺たちはただ、”意見”を申し上げるために庄司の野郎をこちらまでお連れしただけだ。みろ、縄さえもつけていないのだから捕まえているわけでもない。目がお覚めになるまで、急にたたき起こすこともしない。」


 田島の口は小刻みに震える。全身に神経が走り、今にも倒れそうだ。それでも言わねばならない……年長者の立場として。



「それは……詭弁だ。」






 場は静まりかえった。田島のように考える者はもちろん、吉田の意見に賛同している者も。だがどちらともこのままではいけないことは重々承知している。ひとまず他の宿舎からも人を呼び、今後のことを話し合うことにした。真夜中の弘前の町を、学生たちが猛スピードで走る。お先など真っ暗で当然だし、人が集まったところで結論など出るのかもわからない。しかも早くしないと庄司が失踪したことに感づかれる……。家に戻らないとなれば警察も動く。ここ貞昌寺の宿舎にも調べに誰かがやってくるに違いない。そうなれば大勢の学生が捕まって、水野どころではなくなる。


 そして深夜2時、丑の刻。理乙と理甲の代表者は貞昌寺に集い、真剣な話し合いを始めたのだ……。ランプの光は応接間を照らしこそすれ、何とも心許ない。




「すでに警察は動き回り始めている。十中八九、理科の誰かがやったと考えるに違いない。ここ貞昌寺はもちろん、長勝寺や法源寺にも絶対にくる。見つからなくても他の宿屋を徹底的に調べ尽くす。」


「つまり、何が言いたい。」


「……時間の問題と言うことだよ。」




”後先考えずに動いた奴が問題だよ”



 そう言われるなり、吉田は目の前の机を強くたたいた。思わず周りの者はあっと驚き、吉田へと注目した。吉田はのたまう。


「ならば水野がこのまま何も罰を受けずに、同じ校舎で授業を受ける気なのか。受けることなどできるのか。俺はできないね。」


「なら君が全ての罪を呑む気なのか。それなら納得がいく。」



”このやろう……”


 吉田はその拳をあげたので、慌てて田島は制止に入った。


「やめろ。理科同士で争ってどうする。」



”ふん”


 わざと音を立てるように吉田はいすに座った。目をつむり、腕組みをし、もう誰の意見も聞きやしないぞと言わんばかりである。周りの者らも互いに顔を見合わせて、このままでは埒があかぬと悲観するしかなかった。



 すると……同じ部屋の床で倒れていた大人、学生監の庄司である。少しずつ、少しずつであるが、目が次第に開いていった。起きたばかりなので自分がどこにいるのか、はたまたどのような状況なのか一切飲み込めやしない。きっとうるさかったから目覚めたのであろうが、その場にいる学生たちの誰もが己のつばを飲み込んだ。こればかりは吉田も同じである。


 庄司は……学生らの顔を無駄に眺めつつ、5分ほどの時間を要して事態を理解した。

そしてしょっぱなからこう言い放ったのだ。



「お前らか……許されると思うなよ。」


 すぐさま吉田が返す。


「許す許さまいも、俺らの手中にあるのも忘れるなよ。」


 バチバチと目線で火花を飛ばし、両者は今にも立ち上がろうとする勢いである。だがよくよく見てみると吉田にそんな変化はないが、庄司の足下には水気の物がひたひたと流れていく。その湿っぽさが木の板へと染みていく。顔こそ怖い造形を作っているものの、内実は限界なのだなと誰もが悟るところであった。だがその一方で……後戻りができぬのだなともわかったのだ。ここまでしてしまうと、水野以上の罰を受けてしまうかも知れない。……冷や汗が出る。止めどなく体の穴という穴すべてから血やら生きる気力やら抜け出ていくような感じ。



 もはや絶望しかない。





 すると吉田を押しのけて、一人が庄司に対してひれ伏した。


「申し訳ございません。我々で太郎には謝らせますので、どうかお許しください。」


 彼は田島だった。やはり年長者として、長老と言われる立場として、模範を示さなければならない。ここぞとばかりに他の学生らも続き、吉田だけが頭を下げていない人物となってしまった。そのことに気がついた田島は慌てて吉田の頭をつかんで、その怖いつらを下げさせた。ここでこうするしか我らには道がない……。



 庄司は気を取り直し、改めて胡座あぐらをくんだ。そして大人物が小物を教え諭すように、加えて言うならば先ほどの小便を覆い隠すように宣うのだ。


「わかった。お前たちの熱い心は、いたく私の心に響いた。もちろん吉田君の罪もゆるそう。彼に協力した学生たちもだ。約束する。」



 はて……周りでその声を聴く学生たち。どれだけ言葉を尽くそうともバレバレだぞと、こういうやつの元で俺たちは学んでいたのかと心底いやになった。化かせばすむのか。これこそ大人の卑怯なところ……。きっと逃げ出したい気持ちでいっぱいだろう。だが……田島のおかげで助かった。やっとで気をなで下ろすことができる。このまま庄司を返せば、きっと許される……。だがよくよく考えてみると、帰ってから報復に出るかもしれぬ。しかしこのまま軟禁したままでは事態が悪くなる。どちらがいいかと言われれば、もちろん前者しかない。



 庄司はその場に立った。出口はどちらかと訊ね、学生の一人は”案内します”と連れて行こうとする。ここでで吉田は後ろから彼に伝えたのだ。


「水野の適切な処置も、お願いいたします。」



 内心いきり立っているだろうが、言葉として伝えなければならない。聞く側の庄司もまだ心の中は激しく乱れたままだったろうが、上から目線でまるで前時代の大名かのように吉田へ話すのだ。



「わかった。安心して見ておれ。」







 確かに翌日は静かなもので、貞昌寺に警察や教師が訪ねてくることはなかった。どうも庄司は本当のことを言っていたのか……。いや、もしかすると……また俺たちに囲まれるのが怖いのか。教師らも明日は我が身と触れたくない一件。ひとまずは我らは学生なのだから、学問に励むのが本分である。文京町の学舎まなびやに通い、各々の郷里の発展の為に勤しむのだ。それが引いては国家繁栄の礎となる。


 吉田も気を取り直し、他の学生とともに登校する。ただし気になるのは掲示板。いつ水野の処罰が決まるのか。当の水野は学舎にきていないらしく、噂ではどうも故郷の熊本へ逃げてしまったらしい。上が逃げるように進めたのか、あるいは自ら逃げていったのか。それともいまだに円明寺の宿舎で震えているのだろうか。誰からともなくそういう話も流れてきていた。



 ふと中庭を吉田が歩いていると、向こう側から学生監の庄司が歩いてきた。周りの学生らにも緊張が走った。例の件はすでに誰もが知っていることで、再び二人が出くわすことでどのような事態が生まれるか怖くもあり、少しだけ興味もあり。



 吉田と庄司は2メートル離れた位置で立ち止まり、互いに笑顔を見せつけた。ただし言葉は一切ない。

そしてそのまま、互いの望む方向へ通り過ぎていく……。何も起きない。いや、今起こすときではない。すでにこのとき、水野の処罰に関しては金曜日に掲示されるともっぱらの噂だった。金曜を過ぎてしまえば土日に入り、事態を収めるには遅すぎる。さすがにそのあたりが限度だろうと学校側も考えていた節があった。





 そして二晩が過ぎ、10月6日の金曜日。その日は雲がちな天気で、時たま小雨も降った。しかも風が寒い。そんな日であるのに、授業のない学生までが掲示板の前に押し寄せる。その中庭には100名以上がいたかもしれない。……しばらく待つと、午前9時過ぎぐらいだったろうか。やってきたのは否応なく長い筒をもつ白髪老齢の教師と供の2人……教師の一戸いちのへという軍出身の教官であり、何でも戊辰戦争にも参加したらしい壮年の人物。


 そんな彼が適任だったのだろう。どんな知らせがもたらされて暴動が起きようとも、本当の戦という物を経験している彼にしてみれば赤子同然。その場に顔一つで鎮ませることができるはずだ。



 頭がいい学生たちだ。俺たちに望む”結論”ならば、どこかの女性の事務員でも貼りにこさせればよい。そうでなければ若い先生でもいいのではないか。そこをあの、一戸であれば……。



 誰もが固唾を呑んで見守った。筒より取り出された紙面。クルクルと丸められていたものを、一戸はビシッと平らにして見せた。ヨレヨレなど一切見受けられず、両腕を広げたまま紙面を掲示板に付ける。供の二人は両側に立ち、糊で丁寧に紙を板へと貼り付けた。


 まだ一戸の背中が邪魔をして、告知が見えない。


 見えない、見えない……。





 誰もが顔色を変えた。





 ”文乙科ノ二年、水野直澄君ヲ停学一ヶ月ト成ス”








 その場では一戸の睨みが利いて、”何か”が起こることはなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=156255789&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ