1922/10/03(火)、学生監を軟禁す
その日の夜……誰も寝静まることなど、できるはずがない。
当時、学生の宿舎として禅林街ならびに新寺通りにある寺院8カ所が指定され、その中でも理乙の学生の多くは新寺通りの貞昌寺に集められていた。(ちなみに一番早くできた北溟寮の建物自体は同年に完成していたが、入寮者をいまだ募集していなかったらしい。)30名ほどの若者が貞昌寺に暮らしており、重傷を負った学生や、いきり立った吉田もそこで寝泊まりをしている。
帰ってこぬ、あいつ……。もはや心体ともに疲れ果て、かといって眠る気も起きない。布団こそ広い仏間に敷きはしたが、誰も中に入るものなどいない。誰も話さぬので、耳にはいるのは葉っぱのすれる音か、何かしらの鳥が気配を悪く感じて飛び去る音がするくらいである。暗く、ひたすら暗い。ランプこそいくつか柱の上につけているが、かえってか弱く感じてしまう。
すると突然、襖が動いた。皆々奥にたつ仲間に反応し、すぐさまその場に立った。誰かが焦って問いかける。
「長老。北川君は……。」
知らせに来たのは田島康治といい、理乙の学生だ。長老とあだ名されているのは、理乙の生徒の中でも33歳の最年長だからだ。彼が代表して、軍病院に運ばれた学生の様子を見に行っていた。ただし顔は暗い。いや、最初から誰もが暗かったのだが、それよりもどす黒く見える。
「峠は越した。死ぬことはない。」
だがそういうなり彼は、首を振る。両手をパーにして前へ掲げ、身振りを大げさにすることにより、わざと事態の深刻さを軽んじようとしているようだった。ここで吉田は訊ねずにいられない。
「じゃあ、なんだよ。」
田島は……思わず吉田の鋭い眼光に耐えきれず、目をそらしてしまった。そのまま横を向いたまま……誰もいない壁へ向かって話し始めた。
「もう北川は歩けない。一生無理だそうだ。」
北川は何も悪いことをしていない。俺らと同じようにいきり立って、喧嘩につっこんでいったに過ぎない。それがなぜ北川だけがそのような目に遭わなければいけないのだ。これは誰もが感じていること。もちろん歩けないでも
出世はできるし名を高めることができよう。ここに集っているのはそういう目的の輩ばかりだ。だが五体満足を失い、突然無条理に奪われたことは憤慨すべきことであり、北川の今後が特に思いやられた。ここにいる全員が同志であり、生まれはそれぞれ違えども、郷里の発展のために学問をしにきた者ばかりだ。一人が傷つけられれば、その一人を皆で守るべき義務がある。道理に合わなければ訴えるべき権利がある。
ある者がポツリと言った。
「本当に、水野は処罰されるのか……。」
そこすら疑わしい。”運良く” 殺人こそなっていないが、完全なる犯罪である。なのに警察に捕らえられているわけではなく、教師らが厳罰に処したわけではない。もちろん事が起きた当日なので、対応が追いついていないのだろうと言うことは頭がいいのでわかる。しかしあの頽落の教師陣。これまで水野の悪行は有名を極まり、ことあるごとに見なかったふりをしてきたやつら……。もちろん最初こそ注意をしたかもしれない。だが彼の異様な行動……に恐れをなしたのか、バックにある権力に跪いたかわからないが、この四民平等の世の中だ。文明開化して何年経ったと思っている。善正なる対応ができぬ限りは、まだまだ諸国に追いついたとは言えぬ。
ある者は気が滅入るほど沈むかと思えば、頭が回って論理が飛躍していく者もいる。彼らは初めて理想と現実の違いにぶつかり始めた。その中でも吉田は……”これまでは地元であまちゃんだったかもしれないが、何かすべき時にきてしまった” このように考えたのだ。
「太郎。ひとまず明日、学校へいこうじゃないか。あの教師どもにみんなで、事の成り行きを問いただそう。」
田島は優しく吉田に話しかけた。誰もが彼を親しみを込めて下の名前で呼ぶ。一方で吉田はというと顔を険しく、眉間のしわはさらに深くさせる。ほかにも同じような生徒は大勢いた。かといって今すぐに何かできることと言ってもありはしない。そのうち誰もが考えすぎてしまい、疲れ果ててうとうととする者も出だす。だがやはり怒りを抑えきれぬ者もいるわけで、彼らは目を赤くして鶏の鳴くのを聴いたのだった。当然だが吉田は一睡もしていない。
……つい最近までは怒りというものを忘れていた。毎日が楽しく、和気藹々と輝かしい未来に向けて励んでいたのだ。そんな生活を奪われてなるものか……もし奪うものが出たならば、そいつは厳罰に処してもらわなければならない。さて各々は文京町の校舎へと歩くのだが、吉田や田島らのいる理乙の学生が他からみれば異様だったらしく、ざわと遠ざかって歩いてしまう。さらにはどうやっても校舎への道筋には円明寺があり、そこは文乙の生徒の宿舎だった。理乙の学生は黒く塗られた板の塀を挟み、その奥に対して睨みを利かせる者もいれば、”今すぐ水野を出せ” と大声で叫ぶ者もいた。文乙の学生らは中で震え上がってしまい、集団を作って登校している理乙の学生が過ぎ去るまで門より外に決してでなかった。もし出くわしたとたん……してやられる。恨みの矛先を受けたくない。しかもあの水野を守る気もそんなに起きないし……。彼らは彼らで悩んでいた。目を合わせ、思わず苦笑いをしてしまう。いっそのこと、水野を差しだそうか……当の本人は寺のさらに奥の納屋で身を潜め、必死になって震えていた。さすがに彼も事態の深刻さに気づき始めていた。
誰かが納屋のそばに寄って扉をあけると、足下に急に近寄って懇願するのだ。
「おまえら、仲間だよな。仲間だから、売らないよな。」
水野は両手を上にして相手の着物の胸元をつかみ、自分の座っている腰の位置まで下げようとする。それはものすごい力なので相手も座るしかなく、”願い” を聴いてくれるまで離されることはない。耳でも塞ごう素振りでもみせれば、たちまち大いに体を揺らされる。他の者もそういっていた。なので結局は根負けして、
「安心しろ。おまえは仲間だ。だから理乙の奴らに渡したりはしない。」
ここでやっと水野は安心して、着物をつかんでいた手を離すのだ。しかしこのままではいけないのは文乙の学生らもわかっている。だが手余しの状態……。思わず誰もが天を仰いだ。神よ、我らを救ってくれ。……いやここは寺だから仏か。お願いだから……水野を何とかしてくれ。
もちろんこの話は大正時代のことなので、文京町に校舎はあるといっても建物はとても擬洋風の造りだ。白壁と木目のコントラストは日本的にも思わせるが、三角屋根とガラスの窓はやはり西洋のものなのだなと感じさせる。しかもいまだ建築途中で、夏まで学生は蔵主町の仮校舎に通っていた。ほぼほぼ完成する見込みとなったので、気が早いことに校長の秋田は学生らに文京町へと通うように指示をだしたのだという。
そのできたてほやほやの校舎を、ぞろぞろと理乙の学生らが土足で練り歩く。そして1階の事務室へと併せ50名ほどの集団が押しかけたのだ。部屋の中にいるのは、水野を止めることのできなかった教師ども。あとは雇い人が数名くらいか。大人たちの誰もが慌ててしまい、ひとまずは ”まあまあ落ち着いてください” と両手で制止を求めるポーズをとるのだが、その腕を吉田は強い力で振り切った。そうして奥の一番大きな机にいる学生監の庄司へズガズガと一直線に歩み寄る。後ろを同じく50名の学生が続き、全員で庄司を見定めるのだ。
「水野の件は、決まりましたか。」
庄司は負けてはならぬと己に気合いを入れ、大集団の彼らと対峙した。いや……対峙せざるを得ない。無理矢理表舞台に経たされたネズミのような気分である。わざと強面の顔を作り、吉田に対しこう伝えたのだ。
「今は上でどうするか話し合っている最中だ。すぐに決まる案件ではないのだから、少しぐらい待てないのか。」
一方で吉田は別に顔を作らなくても、元から怖そうな面構えである。なので本当にいきり立っているときは、とてつもなく鬼の形相になる。
「これは殺人と変わらないぞ。今すぐにでも警察へ捕縛され、厳罰に処してもいいところを……。」
「しかし吉田君。社会には社会の仕組みがある。手続きというものが必要なのだ。」
「だが学生監はあなたなのだ。あなたが処罰をお決めになるお役目……校長なんかは後から判子を押すだけ。そうではありませんか。」
「……一存では決められぬ事態なのだ。そんなことをぐだぐだと言うな。」
一触即発の事態である。……学生の背後に回った他の教師らは立ちつくすのみ。見守るしかできない。戦おうにも、若い力を持ち、あんなにも人数が多い。勝てるわけがないのだ。しかし一応は学生らも……理性は保てている。特に頭はいい連中である。ここで言い合っても、のれんに腕押し。爆発寸前の吉田に対し近くにいる学生らは ”いったん引き上げよう” ”1日は待とう” となだめに入り、吉田もしぶしぶ後に引き下がるしかなかった。
だが、待てど待てど音沙汰はなく。掲示板に貼られるわけでもない。これには吉田以外の学生もたいそう不満を持ち、これでは埒がたたぬと再び事務室へと向かおうと考えた。そこで翌日登校してみると……校舎の周りには警官が詰めているではないか。
”教師どもは、学生の言葉に聞く耳を持たぬのか”
なんとしてでも、学生監の庄司に言い聞かせなければならない。ではどうするのか……校舎で会うのは無理だ。そこで……学生の数人は闇夜に潜む。庄司の家などすでに知れているのだ。土手町通り、原子菓子店の裏。なんでわかっているかというと、近くに竹内旅館があり、そこに寝泊まりしている学生が彼を見たそうだ。学生同士の情報網を見くびるな。
建物の陰に隠れる者あり。旅館にも仲間の手引きで上がらせてもらって、双眼鏡で道をのぞく。何かあればここから大声で指示を出せばいい。……すると案の定、庄司がバックを片手に現れた。警官とは土手町通りから曲がるところで別れたようで、もうここまでくれば大丈夫と胸をなで下ろしているかのよう。その様を見て、学生たちはさらに憤慨するのだ。それほどまでに俺たちと会いたくないのかと。
…………
一斉に飛びかかる。
庄司はあっと驚き、叫ぼうとした。しかしすぐさまハンカチーフで口を押さえられてしまう。加えてやはり理科の学生で、密かに誘眠剤を忍ばせておいたらしく、それを無理矢理かがせ……庄司はスッとその場に体を倒れてしまった。周りに詰めた学生らは……彼を背負い、周りに誰も歩いていないことを確認しつつ、宿舎の貞昌寺へと急いだのだ。