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*資料室* 新聞で盟休問題を追う

 ご拝読くださり、ありがとうございます。かんからです。

今作の土台になった資料は主に三つございまして、まずそれらをご紹介いたします。



①新編 弘前市史 通史編4(近・現代)

P661-P663 三 官立弘前高等学校の創設


②弘前市政今昔物語 原子昭三著

P53-P60 石郷岡文吉(十・十一・十五代市長)


③東奥日報マイクロフィルム 出版者ニチマイ

大正11年(1922)1月〜12月 4巻目



 特にこちらでは東奥日報の過去紙面を追うことにより、事件のあらましを追いたいと思います。ただしその前に、皆様に押さえておいて頂きたいことがございます。


 今の弘前大学(通称、弘大)の前身が官立弘前高校であり、当時から存在している新聞社として東奥日報があります。この新聞は現在でも青森県内における有力紙であり、過去のデータもしっかりと保管されております。文献上の利用と言うことを明記させて頂きます。


 弘前高校盟休問題が出る前、青森県内の世情として、教育機関でストライキが頻発していたのは事実である。青森師範や三本木農学校では学生のストライキが発生し、ある意味では”ストライキ”を起こしやすい雰囲気を形作っていたのは確かである。

 同じ頃に起こった出来事としては、弘前城の屯所に第八師団が凱旋したこと。五所川原市で旭座が焼け落ち、多くの観客が亡くなった等があった。


 そして盟休問題の初出は 1922/10/11 に確認される。

挿絵(By みてみん)

 この記事では盟休が始まったあらましと経緯が事細かにかかれている。

 運動会での不正が喧嘩をもたらし、その際に水野という生徒が北川という生徒を競技用の投げ槍で刺した。しかし水野は厳罰に処せられることがなかったので、事件の決着を主導した庄司教授を排斥しようと、学生らは学校を休むことにより異議申し立てをすることに決めた。この時点では生徒側の主張もしっかりと書かれている。


 翌、1922/10/12 は校長の話ですべてを占めている。

挿絵(By みてみん)


 そして 1922/10/13 の記事には前日に生徒が長勝寺に集まったことが書かれている。

挿絵(By みてみん)

 今作では”占拠”ということで話を進めているが、全員がずっとそこに籠もっているというイメージではない。出入りは自由だし、実家が弘前にある者は話し合いが終わるとすぐに帰っていた。それでも皆々に共通するのは文京町に登校していないということ。


 1922/10/14

挿絵(By みてみん)

 校長の説得が利いたのだろう。生徒は分裂してしまい、結束が乱れてしまった。こうして一回目のストライキは終結へと向かうのである。


 1922/10/15

挿絵(By みてみん)

 当然思うだろう。この騒動は本来であればここで終われたのだ。誰もがこれで済んだと考えたし、新聞も”解決した”とかき立てた。ついでに庄司教授の憎たらしい寄稿もあり。



 時は経ち、1922/10/26 厳しすぎる処罰が発表された。

挿絵(By みてみん)

 放校(=退学)とされた三名の名前はもちろん、住所まで書いてしまうご丁寧さである。ちなみに青木と林は第一回目の長勝寺ストライキに関わったが、吉田は関わっていない。このことは他文献にしっかりと記されている。だからこそ送られてきた退学通知書を破り捨てたと。


 一応念のために言っておくが、資料同士で氏名に食い違いがある。

 (新聞)吉田四郎≒(文献)吉田太郎

 (新聞)庄司萬太郎≒(文献)庄司万次郎

 (新聞)水野真澄≒(文献)水野直澄


 おそらくではあるが新聞の方が正しいと思われる。文献で微妙に名前が異なるのは、出版された時期を考えれば、当人らがご存命の可能性が十分にある。なにか文句を付けられるのを避けるためか。一方で同じ新聞のはずなのに氏名で食い違いが見られた箇所もある。

 (新聞)青木義親≒(新聞)古木義親≒(新聞)青木義久


 

 話は脱線したが、この処分を不服とした生徒らは再びストライキへと進むのである。


 1922/10/27

挿絵(By みてみん)

 このときも市長は仲介に動いている。ただし紙面の様子からは、まさかこれから再びストライキが起こるなどという感触はうけない。


 1922/10/28 は社説を掲載。学校側に逆風が吹き始める。

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

 生徒らは再びストライキを始めたことが記載された。放校された生徒の父兄も弘前へ向かっているらしい。


 1922/10/29

挿絵(By みてみん)

 また長勝寺に集まっちゃいました。28日に父兄を交えた集会が開かれたことが記載されている。それでも謝罪文を書く気でいるから、収まるのか……?


 1922/10/30

挿絵(By みてみん)

 学校側でも譲歩は示しているし、とりあえずはいい方向。ただしストライキ自体はまだ続いている。新聞には書かれていないが、長勝寺もある程度ごったがえしている状況下。


 1922/10/31 おい。せっかく収まりかけていたのに、なぜ。

挿絵(By みてみん)

 教授二人のクビも切られたことで学生らは動揺し、学校内でも教職員が離職を検討し始めてしまう。もうなにがなんだかわからない。事をわざわざ荒立てるなよ。


 1922/11/02

挿絵(By みてみん)

 青木君……。君の行動は筒抜けだよ。なんか有名人になってるね。


 1922/11/03

挿絵(By みてみん)

 これで本当の終結!これ以降の報道は見受けられませんでした。




 さて今作はこの実話を元に作られています。根拠となった新聞といえど、はたしてどこまで本当のことを報じることができているかは今となっては不明です。他文献との食い違いもありますので、その中でどう真実に迫っていくかという作業は過酷でした。今作のことをいろいろある内の ”一説” と捕らえて頂きたいと思います。あくまで弘前を舞台にした物語であると。

 水野という学生をなぜこれほどまでに守ったのかは、本当のことはわかりません。今作では大臣の名前を借用しましたが、有力者でかつ ”水野” という名字で探したところ偶然にも行き着いただけの代物でございます。この点に関しては根拠はありませんので、ご容赦ください。




 皆様の心に刻んで頂きたいことは、官立弘前高校より引き継がれ、現在の弘前大学へつながる道のり……。どこの学校にもそうですけど、先人達の築いた歴史があるということです。そして ”英雄の名前を忘れるなかれ” です。今作を契機に誰か吉田君のことを調べてくれる人がでることを願って、ここで締めたいと思います。



 ご拝読、ありがとうございました。


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