9、愛なんて
まだ夜も明けきらぬ頃、ルイは神殿に人の気配を感じて目を覚ました。椅子に座ってうたた寝していたのだ。エマに何かあってはと一晩中そばについていたため、神経はずっと張り詰めていた。
とはいっても、彼はここへ来てからぐっすりと眠ったことはない。花の乙女を守るためにそばにいるのだから、安眠とは無縁だ。もともとよく眠る質の人間ではないため、それを苦痛に思うことはなかったが。
ルイはエマを起こさないようにそっと立ち上がると、静かに部屋を出て行った。
誰かが訪問して来るのをあらかじめ知っていたかのような、そんな落ち着きぶりだった。
事実、ルイはこの訪問を予見していた。当然来るだろう、来なければ何かあったのだろうと、そんなふうに考えていた。
「エマの具合はどうだ?」
「よく眠っています。たぶん、熱も下がったのではないかと」
「そうか……よかった」
早朝の訪問者はクリスだった。クリスもまた、自分の訪問をルイが当たり前にわかっているだろうと考えてやって来ていた。話したいことも、尋ねたいこともある。
だから、二人は挨拶もなしに必要な会話を始める。
「教会側は、エマを害する気はないんだな?」
「当然。むしろ、誰に狙われても死なせる気などありません。そのために、私がついているわけですから」
「そういうことか……あんた、聖職者としてはどうも雰囲気がおかしいと思ったんだ。この国の人間じゃねぇし」
「どんな組織にも暗部はあります。そして、そういう役回りは私のような人間がお似合いということです」
「ふーん……」
エマの安全以外に興味のないクリスは、チラとルイの表情を確認しただけで、それ以上何も言わなかった。エマのように細かいことを説明せずとも、王都の教会の狙いを理解したのだろう。
国の混乱時の民衆の不満の矛先としてエマが担ぎ出されるのでなければ、クリスは別に構わないと思っている。
「あいつは怖がりなんだ。魔女狩りに合うんじゃないかって、チビの頃からずっと怖れてる」
クリスはルイが頷くのを見て、彼がすでにエマから話を聞いたことを理解した。ルイの目が真剣で小馬鹿にする様子などないことに、ようやく安心する。エマを守る者には、理屈ではなく感情でエマの恐怖をわかっていてもらいたいーーその条件が満たせる相手だということで、信用に値すると判断したのだ。
「エマ様の力の暴走はよくあることなんですか?」
今度はルイがクリスに尋ねる番だ。会ったらエマのことを色々聞かねばならないと、そのためにクリスのことを待っていたのだ。こういうことはおそらく、本人よりも昔からそばにいた人間に聞くほうがわかりやすい。
「そんなに頻繁にあるわけじゃない。赤ん坊のときは大変だったらしいが、物心ついてからは言葉で言って聞かせれば荒れるもんじゃねぇし。何より、そう怒りっぽい人間でもないからな」
呑気だからと付け足したクリスの言葉にルイは大きく頷いた。おおらかと言ってもいいかもしれないが、エマはあまり物事を深く考えていないように見える。もちろん、悪い意味だけではなく。そういったところはひどく扱いやすく、そばにいる人間としてルイはありがたいと思っていた。
「小さいときから魔力のコントロールは訓練されてる。女神の子孫なんて、有り体に言えば魔女だからな。コントロールできなければ社会から弾かれる。そのあたりのことは本人もよくわかってるさ。昨日のことは、例外だ」
「そうですか」
言外に責める意味が含まれていたが、クリスの言葉にルイは弁解も謝罪もしなかった。ああいったことが頻繁に起きないのであれば、彼としてはどうでもいいのだ。
「エマはワガママだと思うが、よくしてやってくれ」
「大丈夫です。今のところ手を煩わされたことはありません。ただ、世間知らずなところがあって見ていて心配ですが。……周りに安全な男性しかいなかったんですね」
「ああ……」
ルイの少し疲れた様子に、クリスは彼の言っていることの意味を理解した。
ただの男を相手にすればその警戒心のなさで勘違いをさせそうだし、思惑を持って近づいてきた男にはあっという間に絡め取られるだろう。困ったことにならないようそばで見守っている人間としては、なかなか神経が擦り切れるにちがいない。そのことがクリスには容易に理解できた。
「あいつが誰を好きになってもいいんだけど、相手があいつに同じ気持ちを返せる奴だといいな」
まるで保護者の顔で呟くクリスに、ルイはチクリと意地の悪いことを思う。それなら自身がそばにいて守ることを選べばいいじゃないか、と。
「そもそも、恋愛感情で結びつこうと考えるから不都合があるわけです。利用し利用される、そんな利害が一致した相手と手を組むつもりで結婚すれば、一方的に騙されるということは防げます」
「……そうだな」
きっぱりと言いきるルイに、クリスは少し疑問を覚えたが、それをあえてぶつけようと思わなかった。エマをきちんと守ってくれさえすればいいのだ。その点において、この男は信用できると判断した。
「エマ様の体調のことで、気をつけることはありますか?」
用が済んだため帰ろうとするクリスを呼び止め、ルイは尋ねた。まさかそんなことを、去り際に尋ねられると思っていなかったクリスは驚いたが、しばらく考えて首を横に振った。
「ないな。熱が下がったんなら、あとはよく食ってよく寝れば回復する」
「わかりました。しばらくは候補者との面会も控え、療養させますので」
ルイの顔にホッとした表情を見て、クリスは自分の目を疑った。だが、この男も冷徹ではなく、おそらくエマに絆され始めたのだと気がついた。気づいた途端、妙な仲間意識のようなものが芽生える。
「じゃあ、俺は今からシェーンベルク家に行って、あいつが食べられそうなもの作ってもらってくるから」
そう言ってクリスは神殿を出た。安心感が彼に昨日の疲れを思い出させたが、やらなければいけないことが彼の足取りを軽くさせた。
次にエマが目を覚ましたのは、陽もすっかり昇った昼前のことだった。
一晩中ルイがそばで額の上の濡らした布を替えたり魔術で冷たい風を当て続けたりした甲斐があり、起きたときには熱もほとんど下がっていた。
「おはよう。あの、看病してくれてありがとう」
一応従者ような形でそばにいるとは言え、一晩同じ部屋で過ごしたのだという気恥ずかしさからエマはルイの様子をうかがったが、彼はいつもと変わらない。
「私は当然のことをしたまでですから。熱も下がったようでよかった」
「それと、今朝はゆっくり眠らせてくれてありがとう」
「熱のある人を叩き起こしたりしませんよ。それより、何か食べられそうですか?」
「うん。……もしかして、お母さん来た?」
ベッドの上に体を起こしたエマは、部屋の中に馴染みのある良い香りが漂っていることに気がついた。その香りに体が反応して、お腹の虫が控えめに鳴く。
「やっぱりわかるんですね。イルゼ様お手製のスープです。クリス様が鍋ごと持ってきてくださったんですよ」
「わぁ、嬉しい!」
ベッドから飛び起きてテーブルにつくエマの様子に、ルイはもう食欲の心配はないことにホッとした。自身の経験から数日くらい食べずとも人間は死なないものだと知っているが、弱っている人間が回復するには何より栄養を摂るのが肝要ということもわかっている。だから、エマがこうして進んで食事を摂ってくれたことに安心した。そして、娘の具合を知ってこうして料理を用意してくれたイルゼにも、それを届けてくれたクリスにも感謝していた。
「今のところ、やはりクリス様が一番有力候補のように思えますけどね。今朝早く様子を見に来て、その足でシェーンベルグ家へ行き、スープを持ってまた戻って来てくださったんですから。大切に思っていなければ、そんなことできません」
「……ちょっと……あのね、本当にクリスとはそんな仲ではないの。家族みたいなものなんだから」
「そう思っているのはエマ様だけだと思いますけどね」
向かいに座って食事をしながら澄ました顔をして言うルイに、エマは自分とクリスの関係をどう伝えたものかと考える。
もし年頃になってもお互いに相手がいないのならば、結婚しても構わないと思うくらいには気を許している。だが、この人でなくてなダメだという強い想いがあるかと言えば、決してそうではない。本来ならまだ結婚に関して切羽詰まる年齢ではないため、エマとしては強く思い合える相手と出会いたいという願望が捨てきれないのだ。
「まぁ、クリス様以外の候補者も皆それぞれエマ様にとって役に立つ人物を選出しましたから」
「もー……」
考えあぐねるエマをルイは面白がるような笑みを浮かべて見ている。昨日の出来事は二人の距離をグッと縮め、ひとつ屋根の下で生活するに相応しい気安さを生んだ。こういったルイの表情が特にそれを表しているのだが、打ち解けてみてわかるこの男の少し意地の悪いところに、エマはげんなりとしていた。
(黙って笑っていれば綺麗なのに……)
この国ではあまり見かけない銀髪に菫色の瞳という取り合わせで、おまけに美形。余計なことを考えていないときの横顔はどこか憂いを帯びていて、美貌に慣れているはずのエマも思わず見惚れるほどだ。だが、捻くれていて少し意地が悪い。そして、打ち解けてみてもやはり胡散臭く感じる。
「クリス様は魔術、エルマー様は貴族社会との繋がり、テオ様は武術、ハーロルト様は知識、ユリアン様は情報……それぞれ、得られるものが異なります。その点を踏まえると、選びやすくなるかもしれませんね」
「利用できる相手の手を取りなさいって、そういうことだったの……」
「そうです。クリス様は魔術の腕はそこそこですが、クラウス学派に属しているというのはエマ様の身内も同然ですから安心です。面倒ごとが少なく済むのは彼ではないでしょうか」
クラウス学派とは女神の子クーノの友人であるクラウスを始祖とする魔術学派だ。クーノから魔法を学んだ彼がそれをより普及させようと研究して魔術というものを確立し、のちにはクーノとその血筋を守るための組織となったため、エマにとっては親戚のようなものだ。
「確かにクリスと結婚すれば面倒ごとは少なそうね。クリスのお父さんとお母さんとも仲良しだし」
「そういった点で苦労が多そうなのはエルマー様ですね。なにせ三男とは言え貴族様でさから。ただ、貴族社会への繋がりや上手く行けば王宮への出入りもできるようになりますから、そういったことにご興味がおありでしたらお勧めです」
「……いいや。そういえば、キーンツ先生はたぶん、シェーンベルグ家に婿入りして政治的発言力が欲しいんでしょ?」
「そうですね。ハーロルト様は知識もおありですし、野心家です。エマ様を利用しようという姿勢があからさまなのは否めませんが、彼についていけば女神の血筋の力を今後もっと強大なものとすることができるかもしれません」
エマに野心などないし、何よりあんな不誠実な男を夫とするなど、理想の真逆をいくようなものだ。たとえ結婚しても彼の女を口説く癖は治らないだろうと思い、エマは首を激しく横に振った。
「嫌ですか。ハーロルト様とは正反対のテオ様は、強さと男らしさが売りですね。海岸警備の部隊に属する軍人で、平民の出ですし魔術は使えず武術一本ですから出世はそこまで見込めませんが収入は安定しています。それに何より、誠実です」
「そうね。テオは女性が少し苦手みたいだけれど、とても真面目なのが伝わったわ」
彼はクリスの他に唯一また会って話したいと思った候補者だ。たとえ恋愛に発展せずとも、良い友人になれるのは確かだとエマは思っている。
「そして最後のユリアン様ですが、大陸を渡り歩いているだけあって、様々な情報をお持ちです。それに、王宮や貴族の邸宅に出入りすることもありますし、何よりそういった人脈もあります」
「ユリアンは、まだ会ってないわ」
「ご安心を。エマ様への歌がまだ完成していないとかで、ここへ来る気がないわけではありませんから」
「そうなの……」
正直言って、顔合わせのときのユリアンの軽薄な感じがエマはとても苦手だった。だから、しばらく歌が完成しなければいいと、つい思ってしまったのだった。
「まぁ、それぞれ利点が異なりますし、何より好みもあるでしょう。まだ時間はあります。存分に悩んでください」
まるで市場で商品を吟味するかのような言い方に、エマはうまく言葉を返せなかった。とは言えエマとしても、何もない男と結婚する気はない。生涯の伴侶となる人には、できれば何かに秀でていて欲しいと思う。
だがそれ以前に、気持ちが通じる人がいいと思うのは、夢見がちというほどでもないだろう。幸せそうな両親を見て育ったエマにとって、恋愛結婚に憧れるのは当然のことだった。
「私は、私だけは、ちゃんと好き合って結婚したいんです」
「……それは一体、どうしてですか?」
エマの口調が夢を語る少女といったものではないことに気づき、さすがにルイも茶化さなかった。
エマは、アウロスのことを考えていた。
恋に破れ、禁域に篭ったまま帰ってこない兄のことを。森から出てこないということは、彼の恋の喪はまだ明けていないということだ。
幼い頃から魔術に傾倒し、妹以外の異性など目に入らぬような少年だったアウロスの、初めての恋だったのだ。しかも、結婚まで考えていたのだから、その相手に実は愛されていなかったという事実はどれほど彼を傷つけただろうか。
だが、それよりもエマが気にしているのは、本当はきっとそれでも彼がその恋人と結婚したかっただろうということだ。たとえ真実の愛が得られなかったとしても、アウロスはそれを周囲には隠して恋人と一緒になりたかったはずだ。それほどまでに愛していたのを、エマはよくわかっていた。
だが、鳴らない鐘はごまかしようがない。
シェーンベルグ家は女神の加護によりこの地を守ってきた。加護を受けるためには、祝福の鐘を鳴らす必要がある。鐘を鳴らすには、真実の愛がいる。
だから、彼のことを愛していない恋人との結婚は、彼がよくても周りがよしとしなかっただろう。
「私がきちんと恋愛結婚をして、鐘を鳴らすことができたら、アウロスを解放してあげられるんじゃないかって思ったの。恋人が愛ではなくて何か思惑があってそばにいたのだとしても、アウロスはきっと構わなかったの。それでもきっと結婚したかったのよ……だから、障害は取り除いてあげたい」
アウロスの恋人はまだ独り身だったはずだ。それなら、まだアウロスに機会はあるかもしれないし、もし新しい恋を始めるにしてもエマが結婚していると彼は随分自由になるだろう。
そういう考えもあり、エマは好き合う相手との結婚に強くこだわっていた。
だが、そんなエマをルイは冷めた様子で見ている。
「アウロス様の問題はアウロス様自身で解決すべきですし、またできないはずです。それに、不確かなものに望みを託すのは愚かだとエマ様も悟るべきですよ」
「不確かって……」
「愛なんて、そんなものは見えませんし、触れることはできません。お互い思い合ったと感じた男女が少し時間をおけば、それがただの愛欲による一時的な気分の高揚だったなどという話はざらにあるんですから」
とても聖職者の口から出たとは思えない言葉に、エマは絶句した。
女性の中には月のものの関係で時期が来れば惚れっぽくなる人もいると聞くし、男性の多くがそっちの欲が強い。だからそういった衝動と恋愛感情を見誤ることもあるだろう。だが、すべての恋心を愛欲と片付けてしまうのは乱暴だとエマは思った。
「私は、愛が存在しないなんて思わないわ。確かに恋愛感情の中には相手に触れたいという気持ちも含まれるでしょうけど、好きで、愛しくてたまらなくて、その先にそういった欲求があるということもあるでしょ?」
「エマ様は可愛いことをおっしゃる。そのような考えた方では、愛を囁くのが上手い悪い男に簡単に騙されてしまいますよ。……何なら、愛がなくてもそういった行為ができることを私が今から教えて差し上げましょうか?」
「……いやっ……」
何がルイの怒りに触れてしまったのだろうか。
向かいの席に座っていたルイは立ち上がると、エマが逃げる隙を与えず、その両手を背もたれに押さえつけ、両足を割ってそこに体をねじ込ませた。椅子に座った状態でそのように押さえつけられれば、エマは逃げることはできない。これからキスをするのも、それ以上の暴挙に出ることもルイには容易い。
生殺与奪を目の前の冷たい美貌の男に握られていることを理解し、エマは体の奥底から恐怖に震えた。
それでも顔を背けることなく、真っ正面からルイの宝石のような目を見つめた。そこに何があるのか見極めようとでもするかのような視線に、ルイの口元が緩む。楽しんでいるのか、それとも馬鹿にしているのか。
ルイはそのままじわじわと顔を近づけていき、息がかかるほどの距離になってやっと、エマは慌てて目を閉じた。
「……もう少し怖がるなり暴れるなりしてください」
唇を奪われるのだと構えていたが、ルイがキスを落としたのはエマの白く形の良い額だった。かすかに音を立ててそこに吸いつかれ、驚いて目を開けたエマは状況を理解してふるふると震えた。
「恋人でもない男にこんなことをされたら、全力で拒否しなくてはいけませんよ」
「……ルイはそんなひどいことしないって信じてたもの」
「そんなことでは悪い男に好きなようにされてしまいますよ。世の中の男性がアウロス様やクリス様のような方ばかりではないと頭に入れておいてください」
「……わかったわ」
ルイに両手を解放されると、エマはすぐさま自分の胸を押さえた。荒っぽいことをされた恐怖からか、それとも美しいルイに額とはいえキスをされたからか、エマの心臓は荒れ狂っていた。
何事もなかったかのようにルイは向かいの席に戻り食事を再開したが、きっとエマの顔が赤いことも爆発しそうな心臓の音も知られている。
(私ばっかり、こんなことになって……)
ルイの表情に少しの変化も見つけられず、エマはわけもなく泣きたくなった。