8、銀狐
エマが語り終えてしばらくは、ルイは何かを考えるように黙っていた。迂闊なことを言えないと思ったからか、それとも何も言えないほど驚いたのか、整ったその顔からはわからなかった。
「……それで、私は魔女として狩られるんだと思ったの」
「そういうことだったんですか」
ルイは俯いて、溜息とともにそう言った。普段何事にも動じず涼しい顔をしている彼には珍しく、疲れている様子だ。
「確かに利用しようという気がありましたが、殺す気はありませんでした。むしろ、死なせるなんてあり得ません」
その疲れた様子を、エマは薄緑の瞳で見つめる。熱でぼんやりとしていても、ルイの語ろうとしていることを聞こうという気はあるのだ。
エマの額の布を取り替えながら、ルイはためらいがちに口を開いた。それは、本来なら語るべきではないとされていたことだ。知らせればいたずらに不安を煽ることになるだろうという教会側の配慮と、知らせないままのほうが好きにエマを動かせるだろうという思惑だった。
だが、エマは思っていたほど物知らずではないし、察しの悪い娘ではない。そのことに気づいたルイは、エマにきちんと事情を知らせようと決めたのだ。
「私たちは、エマ様を平和の象徴として祭り上げたかったんです。お気づきかも知れませんが、この国は危機に晒されています。ある魔術師が異世界への行き来を可能にしたことに端を発しているのですが、今後そういった外部からの侵攻を受けることが想定されるんです」
「そんなことが……」
異世界と交流があるというのはアウロスの手紙によってエマもすでに知っていたが、そんな危険が迫っているとは考えていなかった。このグラフローズという国から出たことすらないエマにとっては、異世界があるというのもなかなか実感がわかないものだ。だから、そんな知らない世界が攻めてくるなどと考えられるはずもなかった。
「聞けばその世界は魔術がない代わりに別の技術が発達しているそうです。つまり、戦闘になった際にはどのようなことが起きるのか想定できません。今の軍備で勝てるのかも、どのような被害が出るのかもわかりません。国は混乱に包まれるでしょう。そんなときに、人々の心の支えとして花の乙女に存在していて欲しいというのが、教会の考えでした」
「心の支え……」
そういえば顔合わせの日にもルイがそんなことを言っていたことをエマは思い出していた。だが、大変なことが起きたときに自分のようなちっぽけな存在が誰かを支えられるなどとは、到底思えない。だからこそ、教会側に別の思惑があるのではないかと疑っていたのだ。
「ワルデルゴーの人たちならともかく、グラフローズ中の人々を支える存在に私がなれるとは思わないんですけど」
「それがそうでもないらしいですよ。『西の森の物語』は知らない人はいませんし、春祭は西部地方だけではなく他の地方からも人が訪れる賑やかな祭です。つまり、この国の人にとって花の女神は馴染み深く、人気のある存在なんです。ですから、その子孫であるシェーンベルク家の方を民衆の希望の象徴として盛り立てていくのは、有事の際に有効だと考えているんです」
「……そうなんですか」
ルイが力強く語ることを聞いてエマは悪い気はしなかった。結局のところ先祖である女神の威光を借りるだけだが、それでも自分が花の乙女として人々の前に立つことがこの国に良い影響を与えると言うのなら、頑張ってみようという気になった。
「この国の人が幸せに暮らしていくために望まれているというのなら……私、やります」
「そう言っていただけてよかったです。教会側には口止めされていたのですが、最初から説明しておくべきでした。本当に申し訳ない」
ルイの顔には少しの困惑と、安堵の表情が浮かんでいた。つまり、苦笑い。嫌味だったり飄々としていたり、掴み所のないこの男の人間らしい顔を見て、エマは何だかおかしくて笑った。
「ルイもそんな顔をするのね」
「そんな顔、とは?」
「あなた今ね、すごく人間っぽいわ。いつもはお人形みたいに澄ましてて、ちょっとそういうところが嫌いだったんだけど」
「それは……すみません」
「いいの。ねぇ、これからは仲良くしてね。せっかくこうしてすぐ近くにいるんだもの。仲良くなれたほうが楽しいわ」
「わかりました」
エマの無邪気な笑顔につられて、ルイも笑った。詳しい説明をしたところで教会が利用するということは変わらないのに、それでもこんなふうに笑ってくれるエマに少し戸惑いながら。絆されてはいけない、無情であれと思ってルイはこの役目についていたのに、エマはそれを許さないらしい。
「ねぇ、ルイ。何かお話して?」
ベッドのそばに椅子を置き、かいがいしく世話を焼くルイの袖を引き、エマは子供のような頼みごとをする。
「お話、ですか? もう遅いから眠ってください」
「嫌。きついけど、まだ寝たくないの。あ、今後勝手に私のこと魔術で寝かせたら承知しないから」
「……夜更かしして肌が荒れたり体調が崩れたりしてはいけないと思ったんですよ」
気づかず寝ていたのだろうと思っていたのに、エマがしっかりと自分のしたことを知っていたことにルイは驚き、また苦笑した。
「それなら、今後眠れない夜は私を呼んでください」
仕方ないといった風ではあるが、ルイがそう言ってくれたことが嬉しくて、エマは小さな声で「やった」と言った。だが、元気なのは気持ちだけで、体のほうは高い熱によって悲鳴を上げていた。
「あまりはしゃがないでください。熱があるんですから」
「……わかった」
「じゃあ、何か話しましょうね」
「うん」
言った手前話してやらなければならないのだが、ルイは寝かしつけに適した話など知らなかった。そういったものとは無縁の人生だったし、話題に富んだ男でもない。
だから、仕方なく自分の知っていることを話すことにした。
「では、ある一匹の狐の話をしましょうか」
そう言ってルイは話し始めた。
それは、ここではない遠い国の話。
北の海に浮かぶその小さな国は、一年の多くを厳しい寒さの中で過ごす。どこも雪深く、作物も満足に育たないため、生き物は飢えていた。
そんな国で、痩せて傷ついた狐は生きていた。親はなく、小さな頃に拾ってもらった人に従いながら、盗みや追い剥ぎをして生きていた。してはいけないことだが、肥えるためではなくその日を生き抜くために、どうしようもないことだった。
狐は賢く、動きも素早かったため重宝された。だが、ときには返り討ちにあい、ひどい怪我を負うこともあった。
奪わなければ奪われる。奪われれば死ぬ。
そんな過酷な日々をただ生きるために生きていた狐は、あるとき見慣れない服装の集団と行き遭う。おそらく旅人なのだろう。武装もしていないその集団を良いカモだと思った狐は、夜の闇に紛れて襲いかかった。
だが、狐は捕まってしまった。人間の大人たちにとっては、毎日何とか生きている狐など小さな生き物だ。傷ひとつ負わすことができなかった狐は、自分はもう死んでしまうのだろうとそのとき覚悟した。いつか誰かに殺されても仕方がないことをしたのだと、ずっと考えていた。
だが、旅人の集団は狐を殺したりしなかった。それどころか、狐を暖かい布で包み、食べ物を分け与えた。
そして旅人たちは狐に尋ねた。私たちと一緒に来るか、と。私たちはすべての人が飢えることなく幸せに暮らせる世界を作りたいと思っている。ここで出会ったのも何かの縁だ、私たちについて平和のために力を尽くしなさい、と。
狐は迷ってから、旅人たちについていくことに決めた。奪うしかなかった人生だったけれど、この人たちについて行けば、いつか与えることができるのではないかと考えて。
それから、狐は旅人たちについて彼らの国へと渡った。そこは狐の故郷とは違い、暖かく緑も多かった。見たこともないその景色に狐は驚いたが、何よりも彼を驚かせたのはその国の人々の目が自分の故郷の人々の目と明らかに違ったことだった。
飢えることがないと人はこんなにも穏やかな目をするのかと、狐はこれまで知らなかったことを知ったのだ。
狐はその国で多くのことを学び、多くの知識や技術を得て、いつしか大きくなっていた。もうボロボロではなく、痩せっぽちでもなくなった。
そして今は、それなりに幸せに暮らしている。
そんな話だった。
「……それなりになんだ」
「ええ。それなりに、です」
もうほとんど寝かかったとろんとした顔で、エマはルイの話を聞いていた。あまり雪など降らない西部育ちのエマにとっては、狐の故郷の景色はなかなか想像できないものだった。
だが、それでも一匹の小さな狐が凍った大地で必死に生きていた様子を頭に思い浮かべていた。
(いつもお腹が空いているって、きっとすごく辛いことよね……)
そんなことを考えながら、エマは熱で見えづらい瞳でルイを見つめた。
「ねぇ、その狐の毛並みは何色?」
「……銀色です」
無邪気な様子で尋ねるエマに、一瞬ルイはためらった。だが、目の前の少女がもうすぐ夢の世界へ行ってしまうのがわかって、正直に答えることにした。気になって夢見が悪くなってもいけないし、もしかしたら他意などないのかもしれないと考えて。
「銀狐……」
満足そうに呟くと、エマはそのまま眠りの国へと誘われていった。呼吸はまだ荒く、頬も赤いが、その表情が随分と穏やかになっているのを見て、ルイは自分の寝かしつけが上手くいったことにホッとした。
目の前にいるのは十六歳の少女のはずなのに、それよりもずっと幼い子供を相手にしているような気分だ。だが、それが案外悪くないと感じていることに気がついて、そっと口元が緩んだ。
エマの兄アウロスはかなり妹に甘いことで有名らしいが、彼の気持ちが今、ルイは少しわかりかけていた。
その日の夢の中、エマは銀色の狐を見た。
黒い空にポッカリと浮かぶ月に照らされた真っ白な大地。その上を狐がひたすらに走っているのだ。小さな狐は四本の脚で力強く地面を蹴り、逞しく駆けていく。
月が照らすから、狐の毛並みはキラキラと輝いていた。