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7、鎖と暴走

 手を繋いだまま、二人は森の中をひた走っていた。まだ夕暮れには早いが、秋の陽はすぐ落ちる。明るいうちに距離を稼いでおかなければならないことは、昔からこの森を遊び場にしていた二人にとっては常識だった。だから、とにかく走った。

 エマは逃げることに夢中になっていた。クリスは、神殿から出るまでは気を張っていたが、森に入ってからは油断していた。

 だから、おかしいということに気がついていなかったのだ。こんなに簡単に神殿を出られたことに、もっと違和感を覚えてもよかったのに。


「――きゃっ!」

「エマ⁉︎」


 突然、エマが体を仰け反らせ、つんのめるようにして転んだ。その拍子に前を走っていたクリスの手からエマの手が離れる。

 最初、クリスはエマが石につまずいたのだと思った。

 だが、迫り来る足音にそうではなかったと気づかされる。


「エマ様、何をなさっているんですか?」

「……ルイ」


 目の前の人物に、エマは恐怖した。こんなに早く追いかけてくるとは思っていなかったのだ。追いつけるだなんて思っていなかったのだ。

 なぜなら、エマとクリスはただ神殿から森へと走ってきたわけではなく、二人しか知らないような複雑な道を通ってきたのだ。一本道だったのなら、こうして追いつかれてしまうのもわかる。だが、アウロスのいる禁域の森へと効率良く近づくための一見するとジグザグとした足取りは、そう簡単に掴めるものではなかったはずだ。


「……どうしてここにいるってわかったの?」

「わかるも何も、私はエマ様についてきただけですから」


 ルイの手には、魔術で作られた光の鎖が握られていた。そして、その鎖はエマの首に続いている。発動させればこのように光るが、普段は見えなくなっていたのだろう。

 光の鎖に触れ、エマは自分の体が恐怖によって内側から冷えていくのを感じていた。この男はこれまで涼しい顔をして、首に繋がる鎖を握っていたのだ――そう思うと、エマは自分の呑気さが嫌になる。


「駆け落ちするくらいなら、結婚したらいいじゃありませんか」

「……そんなんじゃない。そんなことじゃないの!」


 こんなときになっても、まだ自分を誰かと結婚させようとしているということに気味の悪さと怒りを覚え、エマはルイから距離を取ろうとした。だが、首の鎖がそれを許さない。


「エマ!」

「クリス! 嫌! 離して!」


 いつ付けられたかもわからないその鎖を手繰り、ルイはエマを自分の元へと引き寄せた。エマは抵抗し、クリスも助けようと駆け寄るが、ルイが放った魔術が二人を引き剥がす。


「エマを放せ!」

「それはできません」


 クリスはルイの攻撃に負傷しつつも、片膝で立ち何とか反撃を打ち出す。だが、ルイの腕の中にエマがいるという状態が、クリスに本気の攻撃をできなくさせている。暴れるエマを羽交い締めにしているルイは、狙いの定まらないクリスの攻撃を軽々と避け、牽制にまた攻撃を繰り出す。


「落ち着いてください! 私はエマ様に危害を加える気はありません」

「嘘よ! 嫌! 離して!」


 じゃあ今のこの状況は何なの――そう思ってほとんど泣きそうになりながら、エマはルイの足を踏みつける。だが、何度踏みつけたところで男の力に敵うはずもなく、腕から逃れられはしなかった。それでも痛みはあるらしく、ルイは声を殺してほんの少し顔を歪めた。


「エマを放せよ! お前、いい加減にしろ!」


 ルイが暴れるエマに気を取られたほんの一瞬の隙をついて、クリスが圧縮した空気の球を放った。一見すると小さな突風に見えるそれは、ルイの脇腹目掛けて飛んで行った。

 遠慮手加減のないその一撃は、うまく当たればエマからルイを弾くことができるはずだった。だが、それを見越していたらしく、あと少しでルイの体に当たるというところで、勢いよく球はクリスへと打ち返された。


「クリス!」

「エマ様、もういいんです。暴れないでください! 落ち着いて!」

「嫌! クリス! クリスー!」


 自分が放った魔術をもろに食らったクリスは、声もなくその場に倒れた。

 それを見たエマは、取り乱してただ叫ぶ。

 あとは何とか宥めるだけ――ルイはそう思っていたのに、クリスが倒されたことでより一層エマが抵抗するようになって戸惑った。

 本当なら、エマのことも魔術で昏倒させるのが良かったのだろう。きちんとした説明は目覚めてからにして、この場はとりあえずエマを連れ帰ることを優先するべきだったのだ。

 だが、ルイはあくまで自分がエマに危害を加えるのが目的ではないとわからせるために、言葉で納得してもらいたいと思っていたのだ。

 そのことを直後に後悔することになるなど、考えてもいなかったのだろう。


「死にたくない! 誰かの思惑の中で踊らされるなんて嫌! 私は私の人生を歩むの!」


 まるで子供の駄々のようにエマが足を踏み鳴らしながら叫んだそのとき――空気が激しく震え、大地が揺れた。エマを中心として、激しく風が吹いているのだ。

 エマを羽交い締めにしていたルイは、倒れそうになりながらも何とかその場に踏みとどまった。そして、何が起こったのかとエマを見た。

 エマは声にならない声で叫びながら、体から大量の力を放出していた。

 その力は魔力そのもの。普段はエマの身の内に静かに流れるそれが、感情の昂りが鍵となって溢れ出してしまったのだ。

 代を重ねるごとに薄くなったとは言え、神の血を継ぐエマの魔力の量は普通の人間よりも多い。しかも、その力そのものが感情に影響を受けやすいため、こうしてたがが外れると暴走してしまうのだ。

 歌声や楽器の音色に魔力を乗せて魔術によく似たものを使うことができるということは、叫び声はそのまま力だ。

 取り乱し感情をなくしたエマは、ルイの腕の中、叫び続けていた。足元の地面に少しずつ亀裂が走り、周囲の木々がなぎ倒されようとしているのも、エマの目には入っていない。


「――っ!」


 このままではすべてを破壊するまで止まらないのではないか――そんなふうにルイは不安に思いながら、それでも放すまいとエマの体を抱きしめ踏ん張っていた。

 だが、唐突にその力の放出は収まった。

 ルイが何事かと構えていると、腕の中のエマがふっと力が抜けたようになったのだ。自分で立つ意思をなくした体は、そのままルイの腕にしなだれかかってくる。


「……よかった。収まったか」

「一体、何を?」


 今まで存在を忘れていたクリスのほうにルイが目をやると、クリスは這いつくばったまま、地面に書かれた陣に触れていた。エマの力が放出される中、意識を取り戻して何とか書いたのだろう。


「意識を失わせただけだ。……まぁ、放っておいてもそのうち魔力切れで倒れてただろうけど」


 苦々しく言いながらクリスは立ち上がり、エマの元へ歩いてきた。本当ならまたすぐ倒れてしまいそうなほどフラフラしているのだが、気力だけで動いている。その気迫に押されたのか、ルイはもう何かを仕掛ける様子はなかった。


「ごめん、エマ」


 ボロボロで泣きそうになりながら、クリスは意識のないエマの頬に触れた。本当ならルイの手から奪い返して連れ帰ってやりたいと思っていたのに、傷ついた少年は自分の体を支えるのがやっとだった。


「早くこいつを運んでやって。こういうとき、いつも熱出すから、寝かせてやらないと」

「……わかりました」


 ルイはクリスに言われるまま、エマを抱えて立ち上がった。少年が自分を信用したわけではないのはわかっていたが、この場で自分を頼ってくれたことをありがたいと思いながら。ルイはもうこれ以上二人を傷つけたくないと思っていたため、クリスの気が変わらないうちに神殿に帰りたかった。

 途中、何度か足を止め振り返り、ゆっくりではあるがクリスがついてきていることに確認して、ルイは来た道を引き返した。




 エマが次に気がついたのは、随分とあとのことだった。眠っている間に陽は落ち、夜もすっかり深まっている。

 目の奥がチカチカするような感じと重怠い違和感を全身に覚えて目が覚めたのは、神殿内の自室。まだ馴染んだとは言えないその部屋も、目覚めてすぐ驚くことはなくなったくらいには慣れた。


「――っ!」


 だが、視線を巡らせて目に入ったものに、その体が強張る。まだ状況が整理できていないエマにとっては、今一番会いたくない人物だった。


「エマ様、気がつかれたんですね。何もしません! だからどうか、お気を鎮めて。クリス様もご自宅に帰っただけですから」

「……」


 今にも叫び出しそうなエマに気がつき、部屋の隅に待機していたルイは慌てて言った。両手を上げ、何もする気がないというルイの主張に、エマもとりあえずまたベッドに伏す。恐ろしく体がきついのだ。これまでの経験から、熱があるときの状態だとエマは思った。


「エマ様はあのあと倒れて、今ひどい熱があるんです。何か欲しいものはありませんか」

「……お水」

「わかりました。すぐにお持ちします」


 掠れた弱々しい声で、それでも答えてくれたことが嬉しくて、ルイは弾かれたように部屋を出て行く。そのかいがいしい様子をエマはぼんやりと見送った。

 こんなことをしてる場合じゃないのに――そう思いながらも、ルイに対抗できる力が今はないのも感じていた。

 このままでは魔女狩りのような目に遭うのかもしれないと思い、クリスと手を取って逃げていたのに、結局また神殿に連れ戻されてしまった。クリスもそばにいない。そのことにエマは焦りを覚える一方、ルイの様子が自分たちの思っていたものとは違っていたことに困惑していた。


(私、どうなってしまうの? このまま殺されるの?)


 ご先祖であるクーノがかつて村の人々に殺されかけた話は、そういったことに感受性の強いエマの心に印象深く残っていた。何かあれば、私は殺されるのかもしれない――幼い頃にそう思い込んだことが、大きな恐怖として刻みこまれているのだ。

 ルイのひどく狼狽した様子の意味はわかりかねるが、まだ自分が安全ではないのだと思って、その不安にエマは泣いた。声を出す気力も泣きわめいて暴れる体力も残っていなかったため、たださめざめと涙を流した。

 水差しを手に戻ったルイは、そのエマの涙を見てひどくうろたえた。


「エマ様……どうして逃げようとしたのですか?」


 しばらくためらって、水を入れたカップを手渡しながらルイは尋ねた。心底理解できないといった様子で。だが同時にそれは、エマの行動を理解したいという気持ちの表れでもあった。


「……怖かったの。死にたくなかった。このままじゃ殺されるって思ったの」


 そう言ったきり押し黙ってポロポロと涙を流すエマの姿に、ルイはより一層困惑した。何がこの少女をこんなにも恐れさせているのか、彼にはまったくわからなかったのだ。

 エマの恐怖を理解できるのは、ごく身近な人間だけだ。もしかすると、なぜ怖がっているのか理屈では理解できても、感情面で共感できるのはクリスだけかもしれない。クリスもまた、幼い頃にクーノの話を聞いて、彼をひどい目に遭わせた人々への怒りと不信感を心に深く刻んだ一人だった。


「何をそんなに恐れているのですか?」

「……私を殺すんじゃないの?」

「そんなまさか。……どうしてそのように思ったんですか?」


 全くわからないというルイの様子に、エマは唇を真一文字に引き結んだまましばらく黙り込んだ。ルイの様子に悪意や敵意がないのはわかるのだが、自分の恐れを話して果たしてこの男が理解できるのかということに不安があったのだ。

 だが、話さなければならないとも思っていた。女神信仰者ではないとはいえ、花祭にこうして口を出して来た以上、知る義務も権利もあるとエマは感じていた。

 だからエマは、祀られなくなった神であるクーノをひとりの少女が救うという表で語られている昔話の、決して公には語られることのない部分についてルイに聞かせることにした。

 それは、大昔に実際にあった恐ろしい話。そして、人間の醜さと残酷さを思い知らされる話。

 どうしてクーノはこんな目に遭わなければならなかったのだろう? どうして人々はこんなことをしたんだろう? ――そんなこと考えながら、繰り返し繰り返し何度もこの話を思い出して生きてきたエマだから、熱で朦朧としていても淀みなく語ることができた。

 夜の静けさの中に溶けて行きそうなその声に、ルイはただ耳を傾けていた。

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