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6、不穏な影

「ねぇ、そんなに嫌そうな顔をしないで」

「はぁ……」


 そうは言われても、とエマは思う。嫌なわけではないが、目の前の人物の来訪が嬉しくないのは確かだった。

 今日あたりクリスが訪ねてくるだろうと待っていたのに、やってきたのが別の人間で、しかもあまり得意ではない人物であればとっさに笑顔を浮かべるのも難しいというものだ。


「テオくんに武術を教えてって頼んだって聞いてさ、エマさんはもしかしてお勉強したいんじゃないかと思ってきてみました」


 呼んでません、という言葉を飲み込んで、エマは何とか笑みらしき表情を浮かべてみた。女の子たちには人気があるのだが、エマはこのキーンツ氏が苦手だ。特に何をされたというわけではないのだが、誰に対しても本気にならないのに、女の子たちが勘違いするような発言をしてまわるから信用ならないのだ。

 顔見知りの女性と見れば、まるで挨拶かのように「可愛いね」「今日も綺麗だね」と褒め、それに相手が気を良くしたのを察すると聞いているだけで恥ずかしくなるような口説き文句を並べ始めるのだ。


「先生、暇なんですか?」


 ドアを塞ぐように立たれてしまったため、エマは仕方なく椅子に腰かけた。勉強をするというのなら、テーブルにつくしかない。

 それを満足そうに見つめて、キーンツ氏は向かいには座らず、エマの背後に立った。


「暇ではないけど、時間を作って会いに来たいくらい、君のことが気になってる」


 白目をむいたり舌打ちをしなかったのは、イルゼの躾の賜物だろう。エマは内心かなりムカムカしながら、キーンツ氏が持ってきた教科書を開いた。もうこれ以上、世間話と称してこの男が無駄口を叩くのを許したくなかったのだ。


「で、何の勉強を教えてくれるんですか?」

「君が知らないことがいいよね」

「それなら、すっごく難しい数学とか?」

「もっと色気のあること言おうよ。……せっかく二人っきりなんだからさ」


 息がかかるほどの距離でキーンツ氏は言う。他の女の子たちならこの振る舞いをキャーキャー言って喜ぶのかもしれないが、エマは鳥肌が立つのを抑えられなかった。

 アウロスは美形だが、女性に対してその容姿を利用して迫ることは決してなかった。奥手だと言ってしまえばそれまでだが、エマはそういった兄の紳士的で誠実なところを愛している。よって、キーンツ氏のような不埒な男はできれば同じ空気を吸いたくないと思っているのだ。教師として頼りになることもあるため、嫌いとは言いきれないのだが。

 このハーロルト・キーンツという男は、容姿自体はごくごく平凡なのだ。茶褐色の髪に灰色の瞳というのもありふれているし、背丈も顔立ちも平均的だ。だから、目が眩むような美形と共にいるエマとしてはその普通の容姿はむしろホッとさせるものだった。ただ微笑んでいる分には、キーンツ氏は誰の目にも好青年に映るだろう。


「キーンツ先生は、どうして結婚相手に立候補したんですか?」


 純粋な疑問として、エマは尋ねた。

 キーンツ氏は女性からチヤホヤされるのが好きなのだろう。そうでなければ誰彼構わず勘違いさせるような発言はしないはずだ。そんな彼がわざわざ結婚しようと考えるのが、エマにとっては解せなかった。独身でいたほうが好きに遊べるのだから。


「それは、君が誰か他の人のものになってしまうって思ったら、いてもたってもいられなかったんだよ。そう……君への思いに気づいてしまったんだ」

「キーンツ先生……嘘はもう少し頭使ってつきましょう?」

「嘘じゃないよ。エマさんが結婚してしまうかもと思ったら、いてもたってもいられなくなったんだ」

「先生、そういうことみんなに言うじゃない!」

「この関係になっても『先生』って呼ばれるのは、何だかいけないことをしている気分だ。恋人になっても結婚しても、夜だけはそう呼んでもらおうかな? ……そのほうが、高まるでしょ?」


 調子に乗ったキーンツ氏がエマの耳に口を寄せて囁いた。エマは全身が総毛立つのを感じた。

 もう我慢してられないとエマが拳を振り上げたそのとき、窓からサッと何者かが侵入してきた。


「そのへんにしとけよ、この変態教師が!」

「クリス!」


 その姿をみとめると、エマは安堵したように叫んで椅子から立ち上がって、すぐそばまで駆けていった。そんなエマを背に隠し、クリスはキーンツ氏を睨みつける。


「帰れよクソ変態教師。お前、口説いてもダメならどうかするつもりなんだろ?」

「そんなまさか。僕はあくまで候補者の一人として親しくしていただけだ」

「嘘つけ。同じ空気吸うだけでも女に悪影響が出るって噂じゃねぇか。さっさと出ていくか息止めるかしろ。それかここで死ね」

「うわーひどいー」


 冗談でも軽口でもなく、本気の剣幕でクリスはキーンツ氏に口撃した。それに対してキーンツ氏は眉を下げ、心底傷ついたという顔を作って見せる。だが、ドアのほうへ後ずさりしつつも、エマに対して手を振り「じゃあ今度からはハルって呼んで。先生じゃなきゃいいんだよね?」などと言っているところを見ると、まるで堪えていないのだろう。


「あいつは大方、お前と結婚して政治的発言力が欲しいんだろう。お前の父さんはそんなものに興味はないみたいだけど、実際はシェーンベルク家は立場的に政治に口を出せないこともないからな」

「へぇ……」


 キーンツ氏改めてハルが立ち去ったあとのドアを苦々しげに見つめながら、クリスは呟いた。シェーンベルク家の娘でありながら、そんなことをこれまで考えたことがなかったエマは、幼なじみの言葉にただただ驚くしかない。

 だが、ハルが野心を持ってエマに近づいたのだとすれば納得がいった。彼が国の問題に関心があるというのは、彼の授業を受けているうちに何となく感じていたことなのだ。

 たくさんの女性を口説いてチヤホヤされることと政治的発言力、天秤にかければ彼は後者を選ぶだろう。一介の教師でいるよりも、花の乙女の夫になるほうが求めるものには近づける。

 エマは改めて自分の利用価値とやらに気がついて嫌になった。


「そんなことより、今日は手紙を預かってきたんだ。今回のことを聞いてすぐ書き送ってくれたらしい」


 そう言ってクリスは、封筒を取り出した。

 差出人はアウロス。シェーンベルク家に送られてきたものをクリスが預かってきてくれたものだ。

 花祭を開催するためにエマが結婚させられることになったことへの謝罪から始まった手紙に、エマは急いで目を通した。この状態が伝わっているのであれば、アウロスは何か察知し考えることができただろう。

 読みながらエマはどんどん顔を曇らせていく。それを見て、クリスは横から手紙を覗き込んだ。そしてエマと同様に眉間にシワを寄せ、難しい顔をするしかなかった。

 手紙に書かれていたことに、直接今回の花祭開催を教会が提案したことに関することはなかった。教会が何かを企んでいるのは確かだが、それをアウロスの手紙から推測することはできなかった。

 だが、世間話や近況報告で済ませられることではないのも確かだった。

 その内容は、ここ最近魔術師界隈が不穏な様子と、王室内部の異変について書かれていた。

 禁止されている魔獣の研究をしている者がいるらしいこと、異世界への行き来を可能にした者がいることなどは気になったが、エマはあまり我がこととして捉えなかった。

 だが、王室内部で派閥争いが激化しているらしいというのは、もしかしたら今回のことに関係あるのではと思えた。

 ともかく、エマが思っている以上に今この国の情勢が穏やかでないことがアウロスの手紙からは伝わった。平和ボケしていたエマにとって、それはとても怖いことだった。


「アウロスが察しが良い奴でよかった。俺たちが手紙を書くより先にこうして手紙を送ってくれたから、そのぶん身動きも取れるな」


 まだ何も言葉を発することができないエマと違い、クリスは手紙の内容を整理し、理解し、彼なりに状況を分析したらしい。だが、冷静に話しているように見えて、その顔は険しかった。


「クリス、兄さんが手紙に書いていたことと花祭のことは、どう関係があると思う?」

「それはまだよくわかんねぇけど、お前の置かれてる状況が穏やかじゃないのは確かだ」

「そうなの……」


 しっかり者の幼なじみが難しい顔をしているのが、何よりエマの心を不安にさせた。頼ってばかりではいけないとは思っても、考えるが得意なのはエマではなくクリスのほうなのは事実だ。

 しばらく逡巡して、クリスはエマの手を取った。


「おかしなことに巻き込まれてるのは確かだ。取り返しがつかなくなる前に、逃げよう」

「え?」


 幼なじみの口から出た言葉に、エマは心底驚いた。どちらかと言えば好戦的な性格で、逃げるより挑む性格の彼がこうしてエマの手を引くのは珍しいことだ。


「アウロスを頼ろう。森を抜けて行けば、二日でたどり着ける。追っ手がかかったとしても土地に慣れた俺たちのほうが有利だ」

「ちょっと待って。逃げるって、どうして?」

「どうしてって、お前、このままじゃ殺されるかもしれないぞ!」

「え……」


 手を引かれるまま連れ出されることを拒んでいたエマだったが、物騒な言葉が飛び出したことで抵抗をやめた。ぞわっと身の内が瞬時にして冷えるような感覚がして、揺れる瞳でクリスを見つめる。

 クリスはエマが未だに状況を理解できないでいることに苛立ちつつも、どう説明したものかと悩んだ。できれば今すぐ出発したい。だが、そのためには思考停止しているエマをきちんと納得させる必要があるだろう。短く効果的な説明でエマを説得するにはどうすればいいのかを悩んで、クリスはある人物の名を口にした。

 シェーンベルク家とクラウス学派が決して忘れてはいけない名前を。


「クーノだ。エマ、クーノが何をされたか、どんな目に合ったのか忘れたわけないよな?」

「あ……」


 その名を聞けば、嫌でも思い出してしまう話がある。表の世界では決して語られることはない、花の女神にまつわる暗い話だ。

 クーノとは、花の女神が人間との間に為した子で、つまりはエマのご先祖だ。

 美しく、半人半神のため不思議な力を持つ人物だったというが、それゆえ人間社会に馴染めず随分と苦労したらしい。それでも人が好きで、人と共に暮らしたいと願っていたが、異端であることは隠しきれずついに迫害の対象となる。

 恐ろしい病が流行ったとき、彼は村人たちに呪いを疑われ、家に火をつけられたのだ。命からがら森へと逃げ込んだが、人間に迫害されて傷ついた心はやがて彼を蝕み、魔物を生み出した。

 それから何十年後かにひとりの少女と出会い、クーノの魂は救われるのだが、クーノが迫害を受けた話はシェーンベルク家とその周辺には戒めとして語り継がれている。


「人は不安になると、それを誰かのせいにしたがるんだ。不穏な空気を人々が感じるようになって、それを収めるための矛先がお前に向いたらどうする? そのために、教会が動いていたとしたら?」


 クリスの問いかけに、エマは何も答えることができなかった。クーノの話を思い出せば、さすがにもう理解できた。


(私は、魔女として殺されるの?)


 そんなふうに思うと、不安や怖さよりも先に怒りがわいた。エマは、クーノの話が幼いときから嫌いだった。人間の弱くて醜い部分がよくわかる話だから。そして、人と少し違うからといって命を脅かされたクーノに同情して、彼を追いつめた人々に言いようのない怒りを覚えていたから。


「クリス、行こう! 私、死にたくないよ!」

「……わかった」


 クリスに手を引かれて走りながら、エマは心の中で叫んでいた。死にたくない、殺されてたまるものか! ――それはまるで、魂に刻まれているかのように、幼いときからずっとある感情だった。

 もしかしたら、子孫であるエマたちにはクーノの悲しみや怒りや絶望が血で受け継がれているのかもしれない。そのくらい、強くはっきりとした感情だった。

 その感情に突き動かされるまま、二人は走る。

 だが、予想していたことではあったが、この逃亡はすぐに阻まれることになる。

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