5、不器用紳士
エマは、まだ体になじまないベッドの上でもう何度目になるかわからない寝返りを打った。夕食と風呂を済ませてから寝る支度を整え横になったはいいが、眠れないのだ。
昨日は顔合わせの緊張や慣れないドレスを着ていたせいで疲れていたからすぐに眠りにつくことができたが、今日はそうもいかなかった。
ルイに小言をもらわないために、明日はきちんと早起きしなくてはいけない。日の出とともに覚醒するための魔術は仕込んである。本来なら時間を設定したいところだが、そういった魔術を使うには細かな準備が必要だし、エマはその手の魔術が得意ではないため、ざっくりとしたものになってしまった。
とにかく、これから何時間後に寝付いたとしても日の出とともに目が覚めるのだ。それなら、できるかぎり早く寝た方がいい。それはわかっているのだが、たいした活動をしていない若い体は疲れておらず、眠気が差す気配は一向になかった。
「……」
灯りを落とした暗い部屋の中では、日中は眠っている感覚が目覚めるような、そんな感じがする。鋭くなった感覚が、何かの気配をとらえたのをエマは気づいた。神経をそちらに傾けると、この部屋の前にその気配があるのがわかる。
おそらくそれは、ルイのものだろう。そうでなくては困る。今この場にルイ以外がいるのだとしたら、エマを守るために彼が神殿に詰めている理由がなくなってしまう。
だが、彼がなぜ今ここにいるのかは、全く見当がつかない。
何をしているの? ――エマがそう声をかけようとしたとき、キンと空気が甲高い音を立てて軋んだ。それが近くで魔術が発動したとき特有の現象だと気がついたときには、エマの意識は途切れていた。
ルイがエマに眠りの魔術をかけたのだろう。
エマが眠れないことに気がついて助ける気持ちで魔術を使ったのか、それとも眠ってもらわなければならない理由があったのか。
それはわからないが、エマは無事に日の出まで眠ることができたのだった。
翌朝、魔術による干渉を受けてエマはパッチリと目を開けた。自然覚醒ではないため頭にうすく靄がかかったような不愉快さはあるが、まだ部屋の中が仄暗いうちに目覚められたことが嬉しい。
もしかしたら、ルイより早く起きられたのかもしれない。そう思うと、すごく得意な気持ちになって、エマは寒さも気にせずベッドから起き出していそいそと着替えを始めた。
顔を洗い、髪をいつものように結ってしまうと、今日は逆にルイを起こしに行ってやろうかという気持ちにすらなってきた。あの澄ました男がどんな顔で寝ているのか確かめてやろうという、未婚の淑女とは思えないイタズラ心が芽生えたのだ。
その思いつきがひどく楽しいものに思えて、エマは勢い込んで部屋を飛び出そうとした。
だが、ドアを開けたその瞬間、エマの視界はピンク色に埋め尽くされ、進行は何者かによって阻まれた。
少しの間戸惑ったが、顔に当たる柔らかな感触と甘い香りに、どうやらそれが花束のようだとわかる。それを確かめるために一歩あとずさると、やはり目の前にあったのは可愛らしいブーケだった。
ブーケが宙に浮いているとは考えにくいから、誰かが手に持っているのだ。
こんな時間に尋ねてくるのは誰だろうとエマが恐る恐る視線をあげていくと、そこにはあの武骨そうなテオがいた。
「あの、これは……?」
「……花束、です。姫君に、差し上げます」
「あ、ありがとうございます」
「このお菓子も、その……差し上げます」
「……ありがとうございます」
テオは、エマの手に花束を押しつけると、今度は紙袋を掲げてみせる。
だからエマは急いで花束を手近なところにおいて、その袋を受け取らなければならなかった。
「あの、テオさん……どうぞ、部屋に入ってください」
とりあえず外へ出ることは諦めて、エマは部屋の中へと引き返した。それなのにテオときたら、ずっと扉口で立ち尽くしている。
顔合わせのときと言い、この人は本当によくわからないとエマは思った。
だが、朝市で買ったのだろう素朴な花束や、女性が好みそうな焼き菓子の手土産を見ると、無礼なわけではないのかもしれない。
ただ、訪ねてくる時間が早すぎるのは気になるが。
「こんな早くに訪ねてきてしまって、すまない。その……約束もしていなかったし、他の候補者より先に会いに来たかったので」
エマの心が伝わってしまったのか、テオはハッと気づいたように謝罪した。
「いえ、大丈夫ですよ。今日はちょうど早起きしていたので。そんなことより、朝食はもう済ませました?」
「いえ、まだです」
「それなら、お茶を淹れるのでテオさんからいただいたお菓子で朝ごはんにしましょ」
エマは言いながら、てきぱきと支度を始めた。かつて女神の子が暮らしていたことがあっただけに、簡易的な台所はこの神殿にもある。そこで湯を沸かし、お茶を飲むことくらいならできるのだ。それに、今はルイがあれこれと世話を焼いてくれるが、エマはお茶を淹れたり簡単な料理を作ったりはできる。
もしかしたら手ずから候補者をもてなすことがあるかもしれないと、茶器や茶葉を自宅から持って来ていた甲斐があった。
「そういえば、ルイには会いましたか?」
「ああ。この部屋に来る許可は彼にもらった」
「そうですか……」
あいつめ、もう起きていたのかーーとエマは心の中で悪態をついた。まだ起こしに来ないのをおかしいと思っていたが、もし起きていないのならテオの来訪で目を覚ませばいいとでも考えたのだろうか。そう考えると腹が立つが、テオの手前怒りを表明するわけにはいかず、エマはグッと堪えた。
「今日は良い天気ですね」
「ああ」
「このあと、散歩にでも行ってみますか?」
「そうだな」
「……」
何とか会話を繋ごうとするけれど、こういったことが苦手なのか、テオはあまり長い言葉を話さない。投げかけた話題に新たな話題を付け足さずにいると、それではいつまでたっても会話は広がらない。
だが、無駄なおしゃべりが多い男性もエマは正直好きではないから、この不器用な感じは嫌ではなかった。
(クマさんかなにかみたい)
背を丸めて、差し出されたカップを両手で持つ姿を見て、エマはクスリとした。
「……な、何か無作法があったか?」
「いえ、違うの」
猫舌なのか、テオは一生懸命お茶に息を吹きかけて冷まそうとしていた。その姿があまりにも見た目と落差があり、愛らしく感じてエマは笑ってしまったのだ。
それに気がついたテオは、慌てたように背筋を伸ばした。
「顔合わせのときは、ちょっと怖い方なのかと思ったんだけど、こうして一緒にお茶をしてみたらそうではないことがわかって、安心したの」
正直なところを話してみたら、テオは一瞬目を丸くして、そして笑った。
エマの思った通り、こういった人とは回りくどいやりとりをするよりも素直になったほうが良かったらしい。
「すまない。どうも、俺は女性が苦手でな……一昨日はあまりしげしげと見てはいけないと思ったんだ。よく、怖いと言われるしな」
「でも、お花やお菓子を持ってきてくれたのはあなたが初めてよ。優しいのね」
「……い、妹が、持っていけと言ったんだ」
「そうだったの」
妹と一体どんなやりとりがあったのだろうか。テオは、恥ずかしそうに頭を掻いた。この様子だと、妹にデレデレにちがいない。
「妹さんはおいくつ?」
「十二だ。……子供なのに、もう一端の女のような口をきくから困る」
「でも、可愛いのね」
「九つも歳が離れているからな」
妹の話をふっただけで、テオはすごく話す人になった。
よほど好きなのだろう。優しく甘い顔になって、何かを思い出すように微笑んだ。
それから、エマはその話題をとっかかりとしてテオと会話することができた。自分にも兄がいることや、兄弟喧嘩のこと。それから、テオの出身地である南部の話や、軍での仕事に関してのことなど。
どんな話をするときでも、妹のことを絡めて話すテオにエマは好感を持った。妹思いのテオの姿に自分の兄アウロスの姿を重ねたのだ。武骨に見えるし、確かに女性の扱いは不得意そうだが、狡いことや悪いことを考える人だとはエマには思えなかった。
だから、昨日エルマーにした質問をテオにもしようとエマは決めた。だが、先に口を開いたのはテオのほうだった。
「姫君……俺は、謝らなければいけないことがある」
「……何かしら? って、姫君じゃなくて、エマよ」
「そうか……エマ、俺はあんたに惚れていて求婚者になったわけではないんだ。申し訳ない!」
テーブルにガンっと頭をぶつけるほど、勢いよくテオは頭を下げた。
その音にびっくりしてしまったけれど、内容が内容だっただけに笑いが出てしまった。
「テオ、謝らないで。そんなこと、私は全然気にしないから。あなただけじゃないのよ。……誰一人、私のことが好きで求婚したわけではないのよ」
そんなこと、改まって言われなくともエマはわかっていた。
誰も、エマのことを愛してなどいない。
そもそも、一目惚れされる要素もなければ、内面に惹かれてもらえるほどの接点がまだない。
むしろそんな状態で「心の底から愛している」なんて言われた方が困ってしまう。
「……そうなのか」
「そうよ。だから気にしないで。でも、なぜ求婚者になったのかを教えて」
「妹が、結婚式のときの花の乙女の付き添いをしたいって言うんだ。……綺麗な衣装を着て歩けるだろ? それで、俺が花の乙女と結婚したら、その付き添いの役をやれるんじゃないかって思ったらしいんだ……すまない」
テオは、本当に申し訳なさそうにもう一度頭を下げた。だが、エマは怒る気になんてなれなかった。
むしろ、そんなことのために見ず知らずの女性の結婚相手に立候補するなんて、妹さん想いの良いお兄さんだとエマは思った。少し度が過ぎている気がしないでもないが。
花の乙女の結婚式の様子は、絵本なんかに描かれるほど有名なものだ。女の子なら、誰もが憧れる。
花の乙女の付き添い人は“花守”と呼ばれていて、花の乙女にはなれなくても花守になら……と思うものらしい。
「別にいいのよ。じゃあ、せっかくそう言ってくれてるんなら、妹さんにも付き添いをお願いしようかしら。……これも縁よ」
「ありがとう!」
テオは、これまでで一番の笑顔を見せた。
何だ、この人はこんなふうに笑えるのか――そう思ったら、エマは少しだけテオとの距離が縮まった気がした。
「それで、目的が達成されたのだから……テオは求婚者を辞退する?」
「え……?」
エマの質問に、テオは思いもよらなかったという顔をした。
だが、テオから返ってきたのは予想外のものだった。
「いや……もう少し、エマと関わっていたい」
「……どうして?」
「こうして話してみて、その……あまり苦手だと感じない女性がいるものなのだなと思ったんだ」
照れ笑いを浮かべてテオは言った。
こうして笑うと、途端に親しみやすい顔に見える。
「だから、また会いに来てもいいだろうか?」
「ええ。是非また来て」
断る理由なんてない。
だから、エマはテオの笑顔に応えるように笑って頷いた。
「ねぇ、今度武術を教えてくれないかしら?」
ふと、鍛え抜かれたテオの体を見て、エマは思いつきを口にしてみる。ただ単にこの人と体を動かすことをしたら楽しそうだと思っただけなのだが、テオはひどく驚いた顔をした。
「武術? いいけど、女性のエマがどうして武術を?」
「えっと、私も少しは強くなりたいなって。守られてばかりっていうのも、ちょっと嫌だから」
「……わかった」
無意識のうちに、エマは不安そうな顔をしていたらしい。親元から離れていることや、クリスの心配などが影響して、内心心細く思っていたのだ。そのエマ自身気づいていない感情を察して、テオは少し悩んだが申し出を受け入れた。
「候補者に辞退を勧めるなんて、おかしなことをしないでください」
「きゃっ」
窓辺に立ち、静かに帰っていくテオの背中を見送っていたエマはその気配に気づけずにいた。部屋の中に、いつの間にかルイがいたのだ。
「……びっくりした。会話を聞いていたんですか?」
「何かすることはないかと部屋の前まで来たときに聞こえてしまっただけです。テオ様が断ってくださったからよかったものを……とにかく、どなたか一人に決めたとか以外で勝手に候補者に辞退を促さないでください」
「……はーい」
小言の口調でありながら、ルイの顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。それを見てエマはそう付き合いが長いわけではないのに、この顔はとても怒っているときのものだと理解した。
エマはただ、目的を達成したあとまでテオが候補者でいる必要がないと思っただけで、彼のことが嫌だったわけでは決してない。だが、彼と今後恋愛関係に発展するかといえば、あまり想像ができなかった。
(そうは言っても、恋自体まだよくわからないんだけど)
仕組まれたこの花祭から自分が勝ち逃げするには誰かと恋愛結婚することだとエマは思っているが、まだ恋というものの正体すらつかめていないのが悩ましかった。