4、木の上の王子様
翌朝、エマは突然顔に冷たさを感じて目が覚めた。
何が起こったかわからず、こわごわと目を開けると、そこには見慣れない天井。そして、体を横たえているベッドもどうにもいつもと違う感じがして、それでやっと自分が自宅ではなく神殿にいることを思い出した。
「ようやくお目覚めですか」
「……おはようございます」
やっとのことで体を起こすと、ドアの前に不機嫌な様子で立っているルイの姿が目に入った。ルイは随分と前から起きていたらしく、少しもだらしのなさがない。眠そうだったり寝癖のひとつでもついていたりすれば可愛げがあるのに……と思いながら、エマはあくびを噛み殺した。
朝に弱いため、まだしゃっきりと起きることができず眠たげではあるが、家族でもない殿方に大あくびを見られたくないという恥じらいはあるのだ。
「あなたの夫になる人は大変でしょうね。どれだけ大きな声で呼びかけても起きなかったので、体を揺さぶるわけにはいきませんから魔術で顔に冷水を浴びせてやっと起きていただいたんですから」
「……すみません」
もう少し優しい起こし方をして欲しかったと内心思ったが、ただのお目付役としてはこれが限度だろう。やはり、年頃の娘としては男性に体を揺すぶられて起こされるというのはよろしくない。クリスくらい気心が知れていればいいのだろうが。
「朝食の用意はできていますから、支度が整ったらおりてきてください」
「はーい」
この人、本当に執事みたいだわと思いながら、エマはベッドから抜け出した。何となく、起きる姿勢をきちんと見せなければルイの視線が怖かったのだ。彼の目は、まるでエマが放っておくと再び布団に潜り込むのではと疑っているようだった。事実、エマは二度寝の常習犯で、慣れ切っているイルゼは布団から引き摺り出すことまでを朝の日課としているくらいだ。
秋の朝、しかも森にほど近いところといえば空気はうんと冷たくなる。エマはそろりと床に足を下ろし、その冷たさに飛び上がった勢いでそのままクローゼットへと小走りした。
「本日はエルマー様がいらっしゃるそうです」
「え? あらかじめお伺いでも立てて来たの?」
「はい。他の方が自分より先に来て連れ出してしまわないようにと、予約をしていかれました」
「予約……」
バターとジャムをたっぷり乗せたパンを食べながら、エマは自分の首に売約済の札でも吊るされているかのような気分になった。昨日は直接会話する機会がなかったとはいえ、そんな形で面会の約束を取り付けられるのは何となく嫌だ。
向かいに座って同じようにパンを食べているルイをちらと見てみると、涼しい顔をして何を考えているのか全くわからない。わからないが、味方ではなさそうだというのが、とりあえずのエマとクリスの共通認識ではあった。
綺麗な顔に絆されるなよ、とクリスは釘を刺して行ったが、美形なら見慣れているし、親しみの持てないこの男に気を許す日は来ないだろうとエマは感じていた。
だが、どうせ春までこうして近くにいなくてはならないのなら、仲良くなりたいとも思っていた。
「……来ない」
呟くと、エマは読んでいた本を苛立ち紛れに閉じた。
朝食を済ませたあと、エルマーがいつ来てもいいようにと髪を編み直したり服装が乱れていないか鏡の前で確認したり、デートの前の女の子として正しい振る舞いをしていた。
だが、一時間経っても来る気配がなく、ワクワクしていた気持ちが萎え始めた頃、仕方なしに持って来ていた本を開いたのだ。
とはいっても、一度読んでいる本だ。人待ちの落ち着かない気持ちを忘れさせてくれるほどの吸引力はなく、結局集中できずに閉じてしまった。
これが好きな相手を待つ時間であれば、もっと楽しい落ち着かなさだったかもしれない。だが、一方的に取り付けられた、一体いつ来るのかわからない相手との約束は、ただただ気持ちを焦れさせた。
年頃の娘なのに、まだ異性とのこういったやりとりをしたことがなかったのも原因かもしれない。
暇さえあれば楽器や歌の練習をしたり、同性の友達や幼なじみと連れ立って遊んだりしていたせいか、エマは誰にもお誘いを受けた経験がなかった。
母イルゼは若い頃は今以上の美貌で、それこそ引く手数多だったというのに。
「エメランツィア様ー!」
エマが、痺れを切らしてもう勝手に出かけてしまおうかと思いはじめたとき、そんなふうに呼ぶ声がした。それも、わりと近い場所から。
ドアを開けて確かめたが、そこには誰もいなかった。何となく方向が違う気がしたのだが、やはりそうだったらしい。
部屋に戻り、まさかと思って窓の外を見ると、声の主は愛くるしい顔に満面の笑みを浮かべエマへと手を振っていた。
その姿を認め、エマはひどく慌てた。もう肌寒いといってもいいくらいの気候なのに、脇にじんわりと汗をかくほどに。
なぜなら、エルマーが木の上から手を振っていたのだ。
「エルマー、どうして木になんて登ってるの?」
「王子様らしく、姫をお迎えにあがろうと思ったんです」
慌てるエマの様子には気づく様子もなく、エルマーは気取ったポーズをとってみせる。エマが二階の部屋にいるとわかって、思いつきで登ったのだろう。震える足で精一杯踏ん張って立つ姿は、王子というより木登り初心者の子猫だ。
「今行くから、動かないで待っていて」
あまり刺激しないよう、努めて平静を装いながらエマは慌てて部屋を出た。
落っこちる前にどうにかしてやらないといけない。経験上わかることだが、木登り初心者が苦戦するのは、登ることより降りることだ。高いところから低いところへ行くという安心感と油断が足場選びをおろそかにして、それが怪我や事故へと繋がるのだ。
「エルマー、落ち着いてね。まず、左足を手前の枝にかけて、それから今つかんでる枝から隣の枝に持ち替えて……」
いざというときは風の魔術で受け止める用意をして、エマは言葉でエルマーを誘導していった。
エマの言うことに素直に従うエルマーだったが、なぜ登ることができたのか不思議なほど、その足取りはおぼつかないものだった。
「ありがとうございます。エメランツィア様はお優しいんですね」
「……どういたしまして」
キラキラした屈託のない笑顔で言われて、エマは何だかげっそりした。怖いもの知らずというか何というか、エマが恐れていた半分もこの子は怖いと思っていないのだと感じて疲れてしまったのだ。
「今日は随分とすっきりとした服装をなさっているんですね。もしかして、僕とピクニックにでも行くつもりだったんですか?」
「……違うけど」
どうやら、エマの普段着を軽装だとエルマーは言いたいらしい。確かに、昨日のドレスと比べると簡素ではある。それに、エルマーのお行儀の良い服装と比べると見劣りするかもしれない。
エルマーは、襟にも袖にも飾りがついたブラウスを着ている。さすがに下は長ズボンにブーツだったが、これが半ズボンに白タイツだったら完璧に王子様ファッションだ。
本当に、王子様にでも憧れているみたいだ。
(この子は、一体何が目的で立候補したんだろう)
クリスに、候補者たちのそれぞれの目的を探るよう言われているが、どうやって話を切り出せばいいかエマにはわからなかった。これまでの人生で誰かの腹の中を探らなければならないことがなかったのだ。
「あのね、エルマー……ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なんでしょう?」
素直でまっすぐなことを美徳として育てられたエマに、回りくどいことはできようがない。それが自分でわかっているから、もう直球で尋ねてしまうことにした。
「どうしてエルマーは、私の結婚相手に立候補したの?」
「どうしてって、それはエメランツィア様と結婚したいからですよ」
少しも考えることなく、ニコニコしながらエルマーは答えた。育ちの良さを感じる、ひねくれたところのない笑みは、それを向けられたエマを戸惑わせた。
これが知り合いに言われたことなら、なるほどと思うかもしれない。だが、エルマーとは昨日初めて会った。こんな良いところのお坊ちゃんに見初められるような機会は、これまでのエマの人生でなった。
だから、エマと結婚したいから立候補した、と言われてもにわかには信じられない。
「私と結婚したいって……でも、エルマーは私のこと知らないじゃない」
「あ、そういうことですか。そうですね、僕は花の女神の子孫と結婚できるって聞いて、それで来たんです」
「……なんで?」
「だって、ロマンチックじゃないですか! おとぎ話にもなってる女神様の血縁ですよ! 僕、結婚するなら絶対ロマンチックな相手とがいいってずっと思っていたんです」
別段やさぐれてはいないエマにも、エルマーのこの夢見がちな瞳は眩しかった。この笑顔を長いこと見ていると、目がつぶれてしまうのではないかと思って、エマはそっと顔を背けた。
エマが呆れて聞いていないのには構わず、エルマーは自分がいかに花の女神に憧れているのかを語り始めた。そして、エマとの関係にどんなことを望んでいるのかも語っていた。
結婚とはなんぞやと思っているエマにとっても、エルマーの話すことがまるで現実を見ていないことはわかった。
蜂蜜色の巻き毛やタレ目の甘い顔立ちは可愛いけれど、この子と恋仲になることはないなと、エマは冷静に考えていた。それに何より、エルマーはエマ自身を見ているわけではないのだ。エルマーは女神の子孫という物語の登場人物のような存在と結婚したいだけで、エマと結婚したいわけではない。
昨日の顔合わせでは一番熱い視線を送ってきていた人物だったが、それがどうにも自分の体を通り抜けて遠くを見ているような気がしたのはこういう理由だったのか――とエマは妙に納得していた。
そのあと、エルマーと取り留めもない話をしてからエマは神殿へと引き上げた。どうだったかと尋ねるルイにエマは「恋に恋しちゃってる男の子って、ちょっとダメ」と愚痴ったが、「恋愛結婚に夢見ているあたり、エマ様もそう大差ありませんよ」などと言われて余計に気分が悪くなるだけだった。